霧より希薄な貞操観念


<4-3>

「別れました」
 はえーよ。
 「付き合いました」の告白から、一週間も経っていない。これまた暑い日のことだった。

 店に入った途端に外の暑さとは一変、氷点下。張りつめた空気が私を出迎えた。
 果たしていったい何事?
 今日のシフトも先輩と外村君、および私。ところにより店長(戦力外)。桃色の空気を醸し出す店内で、私は居心地悪さに体をミジンコサイズまで縮めるのだろう。そう思っていたのだが――。
 圧倒的不機嫌な先輩。先輩に見向きもしない外村君。そして二人の様子をおろおろと見比べる店長。素晴らしい、一目でバイトの関係が上手くいっていないのだとわかる。
 そのまま回れ右をして逃げ出したかったが、その前に店長が気づいた。ほっとした顔を見せて手を振ると、「じゃあ、あとよろしく」。そう言ってそそくさと店の奥へ逃げて行った。ってよろしくじゃないですよ。
 零下の空気を感じ取ったためだろうか、店内は閑散としていた。客の入る気配もない。だからこそ、この冷たい空気も際立つというものだ。まったく吐く息が白い。
 先輩には挨拶をしても無視をされたため、私は外村君を捕まえて小声で事情をたずねた。
 そしてこういうわけである。
「早くない!?」
「いや、これくらい普通ですよ」
 いやだからはえーよ!
「だってまだ一週間経ってないんだよ? この間まで仲良かったじゃない」
 数日シフトに入っていない間に、いったい何があったというのだ。
 外村君はいつもと変わらない様子だった。溌剌とした表情、はきはきとした口調。「別れました」の一言にさえも爽やかさを感じる。先輩とはえらい違いだ。
「……なんで別れちゃったの?」
 聞いてもいいものだろうか。私は恐る恐る口を開く。店の隅では、観葉植物の影に隠れて黒い空気を放ち続ける先輩の姿がある。すごいや先輩、清浄な空気を次々と黒く染め上げていく! 逆空気清浄機と名付けよう。
「どうも相性が悪かったみたいなんですよね」
 外村君は、なんてことないように肩をすくめた。あの先輩の姿を目にして、なぜそんな平然としていられる。
「先輩、ちょくちょく俺のすることに怒るんです。それで、そんなに俺のことを気に入らないなら別れよう、って」
 言ったんですけど。言いながら外村君は、先輩にちらりと視線を送る。
「納得してくれないみたいです」
 なるほど、事情はわかった。わかったからと言って、空気がよくなるわけではない。あの逆空気清浄機がある限り、店内は暗く濁ったままである。あれに対抗しうるのは、吸引力の変わらないただ一つの空気清浄機、もとい先輩好みの色男のみ。早く新しい男を見つけて立ち直ってほしいものである。
 ところで。
「なんで外村君は先輩に怒られたわけ?」
 そもそもそこが不思議だった。先輩はいったい、外村君の何が気に入らなかったのだろう。
 外村君は考えるように小首を傾げる。
「俺がお客さんとデートしたからですかねえ」
「は?」
 もうちょっと詳しく。
「よく店に来るお客さんに誘われて、ちょっとデートしたんですよ」
 そりゃあかん。
「あ、でも変なことはしませんよ。手をつなぐくらい。だって彼女がいますし」
 私の怪訝な顔を見て、外村君は言いわけのように付け加えた。いやいやいや、デートの時点で駄目だろ。
 待てよ、まだほんの軽い買い物とか、お友達付き合い程度のデートの可能性も……。
「……どこに行って来たの?」
「泊まりで海まで」
 確実にアウト! 先輩もっと怒ってもいいです!
「そんなに怒ることじゃないですよねえ」
「むしろなんで怒られないと思ったの!?」
 強い口調で聞き返した私に、外村君は驚いたように目を丸くする。その態度、逆に私がびっくりだわ。
「だってただのデートですよ。浮気したわけでもあるまいし」
 泊まりのデートは浮気じゃないと。どうしよう常識が違う。付き合って数日、彼氏が女の子と二人泊りがけでどこかに行って来たよ! そう言われて怒らない女がどこの世界にいると言うのだ。
「あ、もしかして成瀬さんも駄目なタイプですか? 彼女がいるのにデートするの」
「……平気な子はいないんじゃないかなあ」
「俺は全然平気ですよ。デートの相手に彼氏がいても」
 いやいやいやいやいや。彼氏と彼女の意味をもう一度復習しましょう。
 見た目だけは「バスケやってます!」と言いだしそうな爽やか青年でありながら、とんだ軽い男だった。リア充? 違う、君は今日からリア獣だ。外村君の節操のなさは獣並みである。
 いやはや衝撃を隠せない。唖然とする私を、外村君はふと覗きこむ。
「成瀬さん、真面目なんですねえ」
 外村君が不真面目すぎるんです。
「……ってことは、今なら成瀬さんを誘えるってことですね」
 ………………なに?
 意味が分からず瞬きを返すと、外村君はにこりと笑った。うむ、見た目だけは好青年。お婆ちゃんの荷物を持ってあげそうだ。
「成瀬さん、バイト終わったらコーヒー飲んでから帰りません? 大丈夫です、今は俺、フリーなんで」
 なにが大丈夫だかわからない。
 私は返事も思い浮かばずに、外村君の笑顔を見つめた。

 結果として、私は外村君と向かい合ってコーヒーを飲んでいる。そしてそのコーヒーを持ってきてくれたのが先輩であるという、この気まずさ。一方の外村君は平然として、笑いながらお礼まで言っていた。彼はこの微妙な空気の当事者であるとわかっているのだろうか。
「そんなわけで、俺は今フリーなんですよ」
 私服に着替えた外村君が、アイスコーヒーにシロップを流しながら言った。そのままミルクまで入れてくるくるかき混ぜる。
 涼しげな青いシャツとジーンズ。ごく平凡な服装なのにお洒落に見えるのは、美形だけが使える魔法である。向かいに座る私は圧倒的見劣りがする。少女漫画で言えば「ねえねえ、あの二人釣り合わなくない?」「やだーなにあの女ー」という声が聞こえてくるシチュエーションだが、残念、今は店に他の客がいない。
「彼女がいないなんて、結構レアなんですよ。いつも誰かしらと付き合ってるからなー」
 私の付き合うと外村君の付き合うは絶対に違う。
「ねえ成瀬さん」
 不意に外村君の声が低くなった。見ると、いつになく真面目な表情で私を見つめている。外村君の表情に、私は思わず息をのむ。口をつぐみ、真正面から見据える外村君は、空気の流れさえ止めるほど色男だ。
「俺と付き合ってみません?」
「お断りします」
「はやっ」
 外村君は一瞬だけ眉根を寄せると、すぐに破顔した。爆笑である。いったい何がおもしろいのか私にはよく分からない。
「えー、なんでですか。俺ってけっこう顔はいいと思ってたんですけど」
「顔はよくても……」
 言動が悪い。今までの外村君の話を聞いて、よし付き合いましょう! となる女はいったいどれほどいるであろうか。外村君の言うお付き合いは、近所のスーパーへ買い出しのお付き合いと同等である。下手したらもっと軽い。
「付き合って数日で別れる人はちょっと」
 これがバイト先ではなく、しかもついこの間まで彼女だった先輩がいなくて、バイト帰りのちょっとした時間ではなければ、私だってときめいたかもしれない。なんといっても生まれて初めての「付き合ってください」なのだ。夢見る乙女が我も我もと手を伸ばして求める伝説の言葉である。
 いいや、夢見る乙女だからこそ、胸にキュンと来る状況が欲しいのだ! ゆえに却下。やり直し。
「成瀬さんは真面目ですねえ」
 しみじみと、今日二度目の言葉をいただいた。
「やっぱり劉生のねーちゃんなんですね。あいつも真面目だからなあ」
「劉生が?」
 突然出てきた言葉に、私は怪訝に聞き返す。劉生が真面目? 真面目な奴が合鍵作るストーカーになるものか。
「劉生も、女に関してはすごく真面目なんですよ。あの顔だしもてるのに、全然彼女作らないし」
「それは、好きな人ができないと――」
 言いかけて、私は思わず言葉を切った。好きな人。劉生の好きな人って。
「……もしかして、あいつのこと引きずってんのかなあ」
 コーヒーに口をつけ、外村君がぼんやりとつぶやいた。
「あいつ?」
「劉生の元カノですよ。――成瀬さんも知ってます? 劉生が高校のとき、一回だけ付き合った女の子」
 ――――ナルくん。
 ふと、そんな呼び声が耳の奥によみがえる。劉生の彼女だった少女。愛らしい顔つき、甘い声色、黒目がちの大きな瞳。ふわりとした綿菓子みたいな子だった。
「川崎礼美……アヤを劉生に紹介したの、俺だったんですよ」
「……へ、え」
 一拍置いてから、私は曖昧に相槌を打った。それ以上答える言葉もなく、私はアイスコーヒーのグラスに触れる。指先がしびれるように冷たかった。
 ピンポンと場違いな音がする。いらっしゃいませと先輩の声がする。だけど私には、聞こえているようでほとんど聞こえていなかった。嫌な記憶の片鱗に、私はため息を落とす。
「こじれてひどい別れ方したし、責任感じてんのかもな」
「……そうなんだ」
「適当でいいのになあ。アヤが学校来なくなったのも、辞めたのも、劉生が悪いわけじゃないんだから」
 ――辞めた?
 私は顔を上げ、外村君を見つめた。初耳である。
「あれ、もしかして成瀬さん、その辺ことあんまり知らない?」
「ぜんぜん知らない」
 劉生に彼女がいたことは知っている。そのことでこじれたのは、彼女だけではなく私たちもだった。だけどその後のことは――何も知らない。
 知りたい。私の思いが表情に出ていたのだろうか。外村君は心得たというようにうなずく。
「って言っても、さっき言った通りなんですけどね。アヤは劉生と別れたあと――」
「お前、それ以上ねーちゃんに何を言うつもりだ」
 突然、別の声が割り込んできた。
 私と外村君は、三秒くらい時が止まった。互いに顔を見合わせて、数回瞬き。それから同時に声に振り返った。
「ねーちゃんに余計なこと言うなよ。だいたい、なんでお前がねーちゃんと一緒にいるんだ」
「劉生!」
 劉生は私たちと同じテーブルに着いて、不機嫌そうに腕を組んでいた。どういうことだ、まったく気配を感じなかった。お前は忍者か。汚いさすが忍者きたない。
「お前こそ、なんでここにいるんだよ、劉生」
 外村君が驚きもあらわに尋ねた。
「ねーちゃんのバイト先に光一がいるって聞いたからだよ。やっぱり油断ならない」
 つまり先日の「俺がバイト先を見張らないと」を実行に移したわけか。なにそれこわい。
「俺はまだ何もしてねーだろ」
「これから何かするつもりだろ」
「しねーよ。だいたい、したってなんで劉生に文句言われないといけないんだ」
「俺のねーちゃんだぞ!」
 やめてー私のために争わないでー。
 イケメン二人に争われる私の構図! 不思議とときめかない!
 なんと言っても相手が弟と無節操である。ロマンスの予感も昼ドラの予感もしない。
 言い合う二人を横目で眺めている私の肩を、誰かが叩いた。
「成瀬」
 先輩だった。先輩の視線は私に向かわず、まっすぐに劉生に伸びている。
「あれが前に言ってた弟? 紹介して」
 先輩からはすっかり黒いオーラが消えていた。代わりにあるのは、獲物を狩る瞳だった。
 逆空気清浄器は消滅した。喜べ劉生、お前は先輩のお眼鏡にかなったのだ。

 ちなみに外村君は、翌日から例のデートをしたという客と交際を始めた。
 私はリア獣の言葉など二度と信じないと、心に誓った。




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