トラウマはえぐるもの


<5-1>

 世間様は夏休みも半ばに入っただろうか。私は今日から夏休みである。
 夏休み! それはなんと甘美な響きだろうか。世の中がどれほど蒸し暑くても、最高気温が三十度を超えても、辛いレポートと試験期間を乗り越えた末の夏休みを思えば屁でもない。一足先に夏休みに入った小学生たちを横目に大学に通うこともなくなるのだ。
 さあ、今年の夏はなにをしよう。大学生の長い夏休み、やることはいっぱいあるぞー!
 なんて、浮かれた矢先に『彼女』は現れたのだ。

 しとしとと蒸しっぽい雨の降る日だった。
 八月のはじめ、私は今期最後のレポートを提出しに大学構内を歩いていた。傘を片手に、のんびりと散歩でもするように歩く。
 学内は閑散としていた。雨のせいもあるだろうが、どこの講義もすでに終了し、大学としては夏休みに入っているためだ。普段なら騒がしい大学の大通りも、今は雨の音ばかりが響いていた。
「成瀬さん」
 ふと呼び止められたのは、私が水たまりを蹴ったときだ。
 何気なく振り返った私が見たのは、目が眩むばかりの美女だった。
 長い黒い髪が、雨を含んでしっとりと重い。目元は少し鋭いくらいの切れ長で、鼻筋の通った細い顔立ち。整いすぎて、ともすれば冷たさを感じるかもしれないが、そこは彼女のゆるやかな笑みがかき消す。細いワンピースに地味ながらも可愛らしいデザインの傘。頭からつま先まで、非の打ちどころのない大人の美女が立っていた。
「成瀬さん、こんにちは」
 美女は私に向けて優雅な会釈をした。私は思わず後ろを見る。しかし誰もいない。辺りも見まわすが、同じく美女と挨拶を交わすような人物は見当たらない。
「成瀬さん、あなたですよ」
 成瀬さん、あなたですってよ。
 私は傘の柄を一回し、雨のしずくが骨を伝って滴り落ちる。
 さすがに気がついているとも。周囲に私の他に成瀬はなし。私は恐る恐る、美女に自分の顔を指差して見せる。すみません、あなたに比べるとだいぶお粗末な顔ですが。
「…………私ですか?」
「そうですよ」
 美女が口元を押さえて、くすくすと笑う。その楚々とした笑みの美しいこと。清純そうなお嬢様と言う雰囲気の中に、世の男たちを殺す煌めく魅力を秘めている。殺人兵器として押収するべきだ。
「えーっと、私になにかご用でしょうか」
 声をかけられる覚えは何ひとつない。
 下から目線で窺い窺い尋ねた私に、美女はさっと顔を赤くして見せた。
「成瀬劉生さんのことで、ちょっとお話ししたいと思って……」
「……劉生のお知り合いです?」
 もしや彼女か? どうやってこんな美女をひっかけて来たのだ。
「いえ、ま、まだ知り合いじゃないです。でも、知り合えたらいいなあって」
 真っ赤になって口ごもる美女に、私はピンと来たわけだ。
 みなまで言わずともわかる。しとしと降る雨の中、美女の伏せられた視線は物憂げで、しかし艶めかしい。雨が美女をより美しく映えさせる。隣に立つ貧相な濡れ鼠とはえらい違いだ。
 こんな美女までもが劉生の毒牙にかかるとは。世も末。

 人通り少ないとはいえ、往来の真ん中で話すことではないので、私たちは近くのファミレスに足を運んだ。
 私としては全く付き合う義理はない。劉生とよろしくしたいなら、私ではなく直接劉生に言えばいいのだ。
 しかし相手は劉生。一筋縄のシスコンではない。小中高ともててきた劉生は、告白を断るときに迷いなく私の名を出すのだ。
 ――ごめん、ねーちゃんがいるから。
 そんな断り方で納得できるわけもなく、特攻を仕掛ける女子たちをちぎっては投げちぎっては投げられ、私の学生生活もなかなか波乱万丈であった。劉生との橋渡しを頼む者、嫉み妬みで嫌がらせをする者。将を射んとすればまず馬を射よ。そんな言葉を内に秘めて、私に射かけるものは後を絶たなかった。そしていくら私が射抜かれても、劉生だけは射ることができなかった。要するに私は役立たずなのである。
 そんな学生生活も、さすがに大学までは続かなかった。劉生を狙って私に近付いてきたのは、彼女が初めてである。少し懐かしくなって、話だけでも聞いてやろうと言う気になったのだ。
 それに、おごってくれると言うのなら、劉生を売るのもやぶさかではない。

 昼時から遅れたせいか、ファミレスに人はほとんどいなかった。私は傘をたたみ椅子に腰かける。美女はその向かいへ。水を置きに来たウェイターの、はっとした表情が忘れられない。客観的に見ても、彼女は思わず振り返るくらいの容姿をしているのだ。
「私、なる――劉生くんのことが好きなんです」
 彼女は一瞬言葉を切ってからそう言った。おそらく「成瀬くん」とでも言おうと思ったのだろうが、目の前の私も成瀬である。
 とりあえず、直球である。私はおごられるために見ていたメニューから顔を上げ、美女を見つめた。美女は目が合うと、照れくさそうに視線を落とす。
「ずっと好きだったんです……でも、話しかけるのが怖くて、きっかけをつかめなくて……」
 もじもじもじもじ、指先を弄る美女はまさしく恋する乙女の名がふさわしい。その言葉、その態度、私に見せずに劉生に見せれば、さすがのあいつも落ちるのではないだろうか。
「それで成瀬さんに、劉生くんと知り合うきっかけを作っていただけるように、お願いに来たんです」
 美女はそこで言葉を切った。私は考えるようにため息を吐いた。しばしの沈黙と、注文のためのタイムが挟まる。
「きっかけと言いましてもねー……」
 私はすぐさまやってきたオレンジジュースに口をつけ、あいまいに口を濁した。
「嫌ですか?」
「嫌と言うわけでは……」
 実のところ私は、劉生に彼女ができることに賛成派である。劉生が本当に好きな人を見つければ、私に対して偏執的かつ変態的な行動をしなくなるだろう。そして目の前の美女は、劉生の目を覚まさせるのに十分魅力的であると思えた。
 その一方で、姉として、最低限の良識として、知らない人に弟を引き合わせることにはためらわれた。第一私は相手の名前も知らない。性格も趣味も。無責任に劉生を「どうぞ」と渡せるほど、潔い人間でもなかった。
 渋る私に、美女の表情が悲しげにしおれていく。眉を八の字に曲げ、縋るような目で私を見上げながら、おろおろとしゃべり出した。
「私、本当に劉生くんが好きで、好きで……。どうしても近づきたくて……あの人のことを考えると苦しくて……会えないと悲しくて……私、私」
 言いながら、美女の瞳に涙がたまり出す。はっと気がついたときには遅い。美女は俯き、つややかな涙で頬を濡らしながら静かに震えていた。
 この光景を、周りはいったいどのように見ていただろう。静かになく美女と、それに向かい合う路傍の石、もとい私。どのように見えていたかなど、明白である。
「ま、待って待って、落ち着いて」
 私はあわてて美女に声をかけた。
「でも、成瀬さんは協力してくれないって」
 涙声が返ってくる。
「いやいや、しないとは言ってないよ」
「嫌なんですよね」
「嫌じゃないです」
「協力してくれます?」
「それは――」
「してくれないんですね」
 美女は喉を詰まらせて喘ぐと、いっそう涙の粒を大きくした。私は途方に暮れつつも、美女の顔を窺い見る。美女の潤んだ瞳と視線が交わった。
「協力してくれます?」
 同じ言葉を繰り返す。正面から見せる涙目。効果は抜群だ。
「わかった」
 私はついに頷いていた。押しの弱さは小中高大と一貫した、私のアイデンティティーだ。なにかを貫き通すのはいいことだと父も言っていた。押しの弱さを貫いたっていいだろう。私は自分にそう言い聞かせる。さすがに無茶だと心が返答してきた。
 私の返事に美女はぱっと顔を輝かせた。涙は瞬間的に蒸発していた。ああしまった。厄介な性格のにおいがする。
「お願いしますね、成瀬さん。あ、私は落居雛――おちい、ひな、と言います」
 メールアドレスの交換を澄ますと、美女は晴れやかに笑い、食事代の千円札だけ置いて去っていった。私は呆然とその後ろ姿を見送った。嵐が過ぎ去ったあとのような、奇妙な静けさが私の中に残っていた。
 少し遅れて、私の注文したペペロンチーノが届いた。そんな気分ではなかったが、来てしまったからには仕方ない。軽く頭を振ると、フォークに手を伸ばした。

 その後ろでハルちゃんが唇を噛み、姿を現すタイミングを計っていたなど、このときの私には知る由もない。





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