恋とははた迷惑なもの


<6-1>

 恋とは一体なんぞや。

 眠れない夜を明かした私に待っていたのは、バイトの早番だった。
 喫茶店の朝は早い。六時開店の準備として、早番はその一時間前に集合。太陽も起き抜けで、夏というのに軟弱な光を照らし、鳥も虫もへろへろと鳴く時間帯だ。元気なのは鶏か、徹夜麻雀大会を続行中の腐れ大学生くらいだろう。
「店長って、先輩のこと好きなんですって、知ってました成瀬さん?」
「は?」
 例にもれずへろへろと発注した品物の確認をしていた私は、同じく早番だった吉田さんに予想外の話題を振られた。
「なんか、もう二年くらい片思いしているらしいですよ。案外純情なんですね、あたしぜんぜん知らなかったですよー」
 吉田さんは私の一つ年下のバイト仲間だ。小柄な体に愛嬌のある丸顔をのせ、少しばかり全身を膨らませた姿を想像していただきたい。それが吉田さんである。
 彼女は私の年下でありながら、高校時代からのバイト歴を積んでいる先輩だった。そして私と同じ大学に通う一年生でもあるのだからややこしい。さて、どちらが先輩であるかということでしばし話し合いをした結果、店で一番長い先輩を、唯一の先輩と据えることで決着がついた。大学周辺でバイトを探すとこんなことが間々あるので、これからバイトをしようかと考えている人は要注意である。
 とまあ、そんな経緯はさておきだ。
 吉田さんは輝く詮索好きな瞳を私に向けていた。言いたくて言いたくて仕方がないようである。察するに、最近仕入れた情報なのだろう。
「光一君が先輩と別れたときに、実はいろいろあったみたいですよ。なんでも店長が割って入って来てですねえ」
 へえ、と答えたはいいものの、興味は微塵も湧いてこない。普段だったらもう少し腰を入れて聞くかもしれないところだが、昨日の一件で私はいっぱいいっぱいである。他の思考が入る隙もなく膨れ上がった脳は、針を刺せば破裂すること請け合いだ。
 考えたくもないのに、考えるのは劉生のことだ。肌に触れる劉生の感触が思い出されてぞっとする。あの野郎、年頃の乙女を傷物にした責任をとりやがれ。あ、いや、責任を取られては困るのだ。
 時計の針が六時を指すまで、私は不毛な考えに時間を費やした。おかげで手元がお留守になって皿を一枚割る羽目に。吉田さんは細かいことは気にせずに、店長と先輩の恋愛事情の考察を語り続ける。
「たしか店長、今年で三十ですよね。それで二年間彼女なしじゃ寂しいですよ。先輩なら長い付き合いだし案外上手く行くんじゃないですかねー」
 早番の仕事を終え、六時ちょうど。朝一番にいれたモーニングコーヒーを、私たちは客のいない店内ですすっていた。人目がないのをいいことに、入口近くのテーブル席に足を組んで座る。
 吉田さんは懲りない。
「ほら、ちょうど今、先輩はフリーですし。絶賛彼氏募集中ですし」
「……上手く行くかねえ」
 眠い頭に一杯のコーヒーは、焼け石に水という言葉が良く似合う。これから昼過ぎに交代要員が来るまで、私は立ちっぱなしの接客をしなければならないのだ。私の心は憂鬱まっしぐらである。
「成瀬さんは、あんまり乗り気じゃないんですね」
「あー、まあ……」
 なにせ先輩は生粋の面食いだ。顔が良ければ他は問わない。最悪、壁に貼りついたアイドルのポスターでも手を打とうという人である。そして今は、たしか劉生にご執心だったはずだ。
 対する店長は、あれである。愛嬌のある悪い顔ではないのだが――私の口からはなんとも。強いて言うなら、個性的なイケメンと評そうか。
 それに、と口を開きかけたところで、ピンポンとドアベルが鳴る。私と吉田さんは慌てて立ち上がり、コーヒーを背後に隠して入口を見た。
「なんだ、まだ誰も客がいないのか」
 入ってきたのは三十路間近のおっさん、もとい店長だった。眠たげな瞳に乱れた私服姿で、なに臆することなく店内に入り込む。そしてちらりと私と吉田さんの背後をのぞき見、こう言った。
「また勝手にコーヒー飲んでるのか。早番はいいな、暇だし」
 それだけ言って、大股で店の奥にある更衣室へと消えて行った。
 アルバイトは仕事の合間に少しの休みを取ることも許されないのか。暇と称され、不愉快さにコーヒーも苦くなる。
 それ以前の問題として、店長。
「たしか今日、店長も早番でしたよねえ」
 吉田さんが唇をとがらせて、私に不満げな言葉を向けた。

 ○

 昼前に、外村君が出勤してきた。昼までの私と交代で、これから労働にいそしむのだ。ちなみに吉田さんは夕方まで。一日十時間以上の労働をしている。労働基準法? 知らんよそんなもの。
 今頃は奥の更衣室で、外村君が着替えをしているはずだ。彼が出てきたら私の退勤時間になる。ちらほらと昼時の客が見える頃合いで、少しずつ席が埋まり始めていた。できれば忙しくなる前に帰りたい。
 そろそろ眠気も体力も限界に近い。見えないステータスバーが真っ赤に染まっている。コーヒーが体力回復薬にならないのが、現実のもどかしいところだ。
 レジカウンターの前でふらふらと揺れる私の肩を、大きな手が優しく叩いた。うつろな瞳で振り返ると、期待していた外村君が爽やかな風を吹かして立っていた。夏の似合う男だ。ちなみに風は空調から流れ出ている。
「やあ」と力なく声をかけると、外村君はぎょっとした顔をした。
「成瀬さん、大丈夫ですか」
「へろへろ」
「ですよね」
 どうやら、傍目からも具合が悪く見えるらしい。外村君はカウンター内部にあるタイムカードを切りながら、心配そうに私を見ていた。
「風邪ですか? それとも昨日――あれから何かあったんですか、劉生と?」
 いきなり核心を突く男である。私は一瞬の反応に詰まってしまった。それがいけない。
「なにもないよ」
「嘘ですよね」
「私、嘘つかない」
「……昨日、夜に劉生に会ったんですよ」
 私の言葉は無視をして、外村君はゆっくりと立ち上がった。タイムカードを切り終えたらしい。次は私が切る番だ。
 場所を変わってもらいたいが、外村君は動かない。その場で立ったままワイシャツのポケットに手を伸ばす。さりげない動きに、昨日の劉生を思い出してぎくりとした。
 出て来たものもまた、昨日のことを彷彿とさせるものだった。
「劉生が、これを成瀬さんに返してくれって」
 外村君の手の中に納まるそれは、私の携帯電話だ。昨日、劉生に取られてそれっきりだったらしい。なくては困るものなので、私は差し出されるままにありがたく受け取った。
「直接返しに行くのは、成瀬さんが嫌がるだろうからって言ってましたよ」
「……そう」
 劉生に会わなくて済むのはありがたい。一方で、劉生がそんな気を回すことが不思議だった。いつもは気遣いとは対極に位置するようなストーカーのくせして。
「なにがあったか言わないんですね」
 俯いて黙りこくる私に、外村君はため息を吐いた。どこか非難するようなまなざしが居心地悪い。
 恐らく劉生は昨日のことを外村君に言っていないだろう。もちろん私の口から言えるはずもない。そしてこのだんまりが、外村君の不信感をあおっているのだ。
「……別に俺は、いやがらせとか、困らせたいからとかで聞いているわけじゃないですよ」
 ピンポンとドアベルが鳴る。いらっしゃいませ、と吉田さんが応える。その姿を横目で見ながら、外村君は言わずにはいられない、という様子で言葉を継いだ。
「劉生は大事な友達だし、成瀬さんは成瀬さんで大切な人ですし、気になるんですよ。変に隠してほしくないし、話を聞いて力になりたいんです」
「わかってるよ、それは」
 私は外村君に頷きを返す。外村君の善意のほどは理解しているつもりだった。
「外村君が気を使ってくれているのはわかるよ。昨日だってかばってくれたしね、ありがとう。外村君がもてる理由が少しわかったよ」
 外村君は、見た目の割に中身が軽いと見せかけて、意外と紳士的な部分がある。昨日にしても、苦手な相手から自分をかばってくれるという状況、乙女ならばキュンとときめいてしかるべきだ。全国冷静人間コンテストに出られるような態度なんてもってのほかである。
 だからこそ、言うに言えないこともあるのだ。見え隠れする罪悪感など、徹頭徹尾無視をする。
「……それは、どうも」
 少しの間のあと、外村君は不自然に目を逸らした。その顔に浮かぶのは、どことなく小難しそうな表情だった。眉間に深いしわを寄せ、所在無さげに口を結ぶ。
 それから、ゆるく首を振った。
「なんか俺も、よくわかんなくなってきました」
 唐突に言われても、私もよく分からない。外村君は「もういいや」と言った風情で、体を少し右に避けた。ようやくタイムカードを切らせてくれる気になったらしい。遠慮なく、私は開いた場所にしゃがみこんだ。心の中では更なる追及が来なかったことに安堵する。
「成瀬さんと劉生を、できれば仲直りさせたいと思ってたんですけどね」
 頭の上から声が落ちてくる。私に向かって言っているというよりは、独り言のようだった。
「……劉生にとられたくはないんだよなあ」
 何気なく顔を上げた私と、外村君の目が合う。好青年然とした外村君が、悩ましげな表情で私を見下ろしていた。
「ね?」
 外村君は肩をすくめ、同意を求めるように苦く笑った。
 いやいや、「ね?」と言われましても。
 傍では次第に増え始めた客に忙しなく応対する吉田さんの姿が見えた。いい加減、手伝いに行った方がいいと思う。

 ○

 吉田さんと外村君から「お大事に」と言葉をもらい、へろへろの体で家にたどり着いたとき、バイト先を下宿近くに選んでおいてよかったと心の底から思った。私の先見の明に感謝と祈りを捧げよう。
 帰りついてぱたりと万年布団に倒れ込んだとき、毎日布団をたたむ几帳面な性格をしていなくてよかったと心の底から思った。これもまた先見の明である。
 存外、体の具合が悪かったらしい。横になると起き上がる気力が出ない。私は汗ばんだ体のまま服も着替えず枕に顔をうずめ、そのままゆるやかな眠りにつこうとした。
 まだ日の高い夏の午後、蝉の鳴き声が一つ聞こえるたびに、意識がとろとろと頭から溶け出すような心地がした。眠りの世界が呼んでいる。手招きなどという生易しいものではない。筋肉質な腕が私の体を掴んで、強引に引っ張りこもうというのだ。
 というのに、こんな時に限って邪魔するものがいる。
 尻が震えている。いや、尻ポケットの携帯電話が震えているのだ。決して私は尻だけを震わせるような器用な体はしていない。
 私は重たい動きで携帯電話を取り出し、うつぶせたまま二つ折りの携帯電話を開いた。
 ――新着メール三件。
 見慣れた画面に四角い手紙のアイコンと、そんな文字が表示されていた。今しがた来たものと合わせて、三件。半日ほど見ないうちに溜まってしまっていたらしい。いったい誰から来たものか。確認だけはしておかなくてはなるまい。そんな何気ない気持ちで、私は受信メール一覧を開いた。
 画面に送信者の名前が並ぶ。大学の友人やらバイト仲間やら。その中に一件、見慣れているが見慣れない名前があった。
「…………劉生」
 スパムフォルダに人知れず積もっていくはずの、劉生からのメールが来ていた。



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