厄介の上塗り


<7-6>

 外村君がご乱心である。
 有線から流れる穏やかなピアノの音楽も掻き消して、私の咳が響く。店内のムードはぶち壊しだ。大丈夫ですか、などと目を丸くして外村君が私を見るが、黙れ、貴様のせいである。
「……冗談でしょう?」
「そう見えます?」
「うん」
 迷いなく頷くと、外村君がコーヒーより苦い顔をした。
「冗談を言っているつもりはないんですけどね」
 冗談ではないにしても、明日になっていればすっかり忘れているような告白だ。外村君の軽さは水に浮く。
 私の胡乱な瞳に、外村君は肩をすくめた。
「どうやったら信じてくれますかね」
「頭を丸めて一年間山頂の寺で修行したら信じられる」
「…………よくそんな発想が出てきますね」
 逆にそれほど信用がないのだと思い知れ。
 外村君は軽く首を振ると、コーヒーを一口飲んでから、口元を緩めた。笑うと言うよりは、呆れの見える表情だった。
「けっこう本気なんですよ、俺。いまだって緊張してますし」
「平然としているように見えます」
「成瀬さんとバイトで一緒になるたびに、ドキドキしていましたし」
「ドキドキしながら毎度別の彼女を連れていたんかい」
「今日のデートだって、どこに行こうかこれでも考えて来たんですよ」
「もうちょっと誠意の見える場所を選んでくれ」
 うーん、と私と外村君は、お互い眉間にしわを寄せ、唸った。なにか、私がおかしいことでも言っただろうか? 元カノの勤める喫茶店で、コーヒーを飲みながら、先日まで彼女持ちだった男の言葉を聞けと? 外村君は歴代の彼女たちに、簀巻きにしてコーヒーの海に沈められても、文句は言えないはずだ。
「誠意、溢れているじゃないですか」
 外村君は心外そうに言った。これはもしかして、馬鹿には見えない誠意だとか、そういったものなのだろうか。
 悶々としつつ、私は今さらながら砂糖に手を伸ばした。結局、なんでこんな話をしているのだろう。考えるために糖分が欲しい。しかし砂糖のポットを掴んだところで、外村君がさらに困惑させるようなことを言った。
「で、成瀬さんはどう思うんですか?」
「は」
「俺のこと」
「…………はあ」
 思わずポットを掴んだ手を引っ込めてしまう。
「……どうって、劉生の友達でバイトの後輩としか――」
「そういうのじゃなくて」
 私の言葉を、外村君は強い口調で遮った。はっとして彼の顔を見て、私は失敗したと思った。目を逸らすことを許さないような、彼の真摯な表情があった。
「俺は、返事が聞きたいんです。あんまり回りくどくしても、成瀬さん、適当に言い逃れしそうだからはっきり言います」
 一瞬、言葉を止め、息を止める。有線のピアノもなんだか遠く聞こえる。外村君は端正な顔に微かな笑みを浮かべ、優しい口調だが、拒むことを許さないはっきりとした声で言った。
「成瀬さんが好きです。俺と付き合ってください」
 ――私は体を強張らせ、無意識に辺りを見回していた。
 外村君の言葉に応えるよりも先に、反射的に劉生を探していた。あの熟練ストーカー劉生なら、私のあとをつけてこの店の中まで追いかけてきているかもしれない。劉生に、もしもこんなところ見られたら。
 ――――見られたらなんだというのだろう。
「劉生ならいませんよ」
 視線を彷徨わせ、青ざめる私に外村君は言った。一言で、刺されるような気分だった。外村君の慧眼はそら恐ろしい。心の中を覗かれていたのかと、私ははっと胸を押さえた。
「あいつ、今日は一日バイトで動けないらしいですから。ストーカーするにも、金がかかるでしょうし」
「…………し、知ってるの?」
 私は震える声を押し隠し、そう尋ねた。なんでもないことのように話す外村君は、言外に「なんでも知っている」と言っている気がした。そうでもなければ、弟がストーカーだなんて、そんな言葉がどこから出てくるのだろう。
「劉生がヤバいくらいシスコンなのは、見てればわかります」
「あ、ああ……そう」
 それだけ、と聞こえないように呟いて、私は肩の力を抜いた。自分が安堵しているのがわかる。シスコン、と、そう思ってくれるなら結構だ。それだけなら、問題ない。
「成瀬さん?」
「は、はい?」
「邪魔者はいないわけですよ。少しは、俺が本気だってわかってくれます?」
 外村君は笑顔だ。有無を言わさず笑顔だ。邪魔者はいない。逃げることは許さない。笑顔の裏にそんな言葉が潜んでいる。
 問題ないなんてことは決してなかった。伊達にリア獣やっているわけではないらしい。やっぱりこいつも劉生の友達だ、性格が悪い。
「俺のこと嫌いですか? 最近、避けてましたよね?」
「そういうわけじゃ……」
「でも、好きというわけではない?」
「好きとか、そんなふうに考えたこともないから…………」
 語尾を濁しながら、私は視線を泳がせた。先ほどとは違い、逃げ道を探すつもりで店内を見回す。隣の席に座るカップルが、興味深そうにこちらを見ていた。店内を歩くウェイターたちが、何度か好奇の視線を寄こしていた。背後の席に座る女性たちの会話が聞こえてくる。「なに?」「告白?」「しっ、黙って聞いていなさい」
 一度青ざめた顔が、今度は赤くなるのが分かった。これは新手の拷問だろうか。それとも私は、徹底的に退路を断たれてしまったのだろうか。私の返事を、周囲の聞き耳たちが待っている。適当に誤魔化したら、外村君はさておきギャラリーが許しそうにない。
 周りの声など耳にもせず、私を見つめる外村君が憎らしい。返事を促すような笑みは、もしかしたら、今の状況をよく理解しているからかもしれない。
 指先が震えて、喉が妙に乾いた。コーヒーでも飲もうと身動ぎすると、「成瀬さん?」と外村君が甘みのある声で呼びかけた。
「じゃあ、これからは考えてみてくれますか、俺のこと、そんなふうに」
「そ、外村君」
「それとも、俺に好かれるのは迷惑ですか?」
「う、うううう……」
 これで「うん、迷惑」なんて爽やかに返事をできる人間がどこにいるのだろう。もしも私が歴戦の美女だったら、「考えておいてあげるわ」などと妖艶に微笑み男をやきもきさせることもできただろう。が、実際の私はおろおろと言葉もなく、逃げるように外村君から視線を逸らすだけだった。
 ――私は、外村君を、そう嫌いではない。軽薄な彼の態度に、もしや好意を抱かれているのでは、などと妄想したことも、ないわけではない。しかし、それと現実ではっきり言葉にされるのとでは、なにもかも違う。
 周囲の視線も相まって、私は混乱の極みだった。なにか言わねばと思いつつ、言葉なんて忘れてしまった。店内は静まり返り、客席を回るウェイトレスの足音だけが静かに響く。コツコツと音を立て、丸いお盆にお冷を乗せて、早足でこちらに近づいてくる。
 ――――あ。
 私は一瞬、外村君を忘れてそのウェイトレスに目を奪われた。俯きがちに表情を隠した彼女は、見覚えがある。
 ぽかんと口を開けた私の様子に、外村君が気付いたようだった。私の視線の視線を追って、首を回して背後を見やる。
 そのタイミングを狙ったように、軽やかな水音がした。
「最低!」
 涙交じりの声も聞こえた。私は思わず喝采を送りたくなった。
 ウェイトレスは、最低男の代名詞、外村君の毒牙にかかった少女だった。彼女は空になったお冷のグラスを手にしていた。中身はそのまま、外村君が頭からかぶった。
「あんた最低! 昨日までチサと付き合ってたくせに! だから、チサだからあたし、あんたと別れたのに!」
 外村君は呆然と、半泣きで怒るウェイトレスの少女を見ていた。彼が軽く頭をふると、水しぶきがこちらにまで飛んだ。
「それが、あたしの店でこんなこと、どういうつもり!?」
「もっともです」
 ついつい、ウェイトレスの言葉に力強く頷く。外村君が「えっ」という顔で私を見やる。ウェイトレスもまた。鋭い視線を私に投げかけた。
「あなたも! こんな男なんかと付き合ったらだめ! 適当に付き合って別れて、最低なんだから!」
「まったく同感です」
「ええっ成瀬さん!?」
 全面的に賛成する私に、外村君が戸惑った声を上げた。先ほどまでの外村君の優位性は掻き消え、店内はすっかり修羅場の様相を呈していた。甘い告白の結末を期待していた物見高い客たちは、相変わらず面白そうにこちらの様子を窺っている。告白だろうが修羅場だろうが、傍からは面白い見世物なのだ。
 ――私は、いつの間にか緊張が解けていた。答えを先送りにできた安堵で、ふにゃりと密かに息を吐く。
 先送りにするのと、解決するのは違う。そんなことはわかっているというのに。


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