いつも変わらぬ日は過ぎて


<8-5>

 結果。
「この辺にお住まいなんですか?」
 健気な後輩女子である私は、僅かなコミュニケーション能力を総動員して尋ねた。初対面より気まずい相手に、どうにかこうにか話しかけられただけでも喝采を受け、先輩は涙ながらに私を称賛するべきだ。
 しかしこの問いの後、私は三日間先輩から口をきいてもらえなかった。
 なぜか。
 私の問いに男がいい笑顔で答えた。
「いえ、地元は関西ですよ。こっちには単身赴任で来ているんです」
「……単身赴任?」
「家族と離れると辛いですよ。妻ももうすぐ子供が生まれるっていうのに」
 そういうことだった。



 ○



 働きたくないでござる。
 昼過ぎに目を覚ました私に残された時間は少ない。あと三十分でバイトの時間だった。
 ぼんやりと、カーテンの隙間から覗く青空を眺めていた。枕元の目覚まし時計は絶え間なく、急かすように針を動かす。しかし布団に横たわったまま、寝間着姿の私は立ち上がる気力すらなかった。
 バイトに行っても外村君はいるし、先輩は顔を合わせてくれないし、憂鬱にだってなるものだ。
「あー、バイト行きたくない……」
「行かなくてもいいよ」
「誰だ」
 問うまでもなく劉生だった。布団の中で目があって、私は悲鳴が喉まで出た。これを耐えた私には、しかるべき名誉が送られるべきである。
 だって考えてみてほしい、いくら弟とはいえ、年頃の女性の寝所に身に覚えのない男がいるのだ。悲鳴どころか失神したとしてもおかしくはない
「あんなとこ、行かなくていいよ。今日は寝てよう、ねーちゃん」
 劉生の声はどこか間延びして、寝惚けの色が滲んでいる。しかしそれよりも問題はこの状況。私が寝ている横に、劉生も寝ている。ほんのり暖かい劉生の体温は、つい今しがた侵入したと言うわけではないことを物語っていた。
 いつか、ハルちゃんが言っていた言葉を思い出す。「あたし、お姉さん相手なら気づかれずに添い寝できる自信がありますよ!」比喩ではなくありのまま事実とは思わなんだ。
「光一になんて会わなくていいんだよ。ねーちゃんにはずっと俺がいる」
 言いながら、劉生は私の髪を撫でた。私の髪は寝癖で酷いありさまだろうが、それは劉生も同様だった。色素の抜けた茶色い髪が、普段の劉生らしくなく奔放さではねている。こんな隙だらけな劉生は、家を出てから初めて見た気がする。
 眺めていると、不意に劉生がくすくすと笑いだした。
「ねーちゃん、髪撫でられるの、好き?」
 そう言う劉生の方が、おもしろそうに私の髪をもてあそぶ。「目、細めてさ、犬みたい」
「恋人同士みたいだね、こうしていると」
 そう言う自分が目を細め、劉生は私を見つめた。
 優しい優しい表情だった。それはもう、弟の顔ではなかった。
 我に返ったように、私は劉生の手を振り払った。そのまま逃げ出そうと半身を起こす。が、そこで劉生に捕まった。
 私の腰に腕を回し、なんでもないように引き寄せる。その仕草はぞっとするほど丁寧で、有無を言わせない力があった。
「遅いよ」
「劉生」
「もしかして、俺にこうされるの、だんだん慣れてきた? 前は近くに寄るだけで逃げていたのにね」
 こうされる、と聞いて、私は自分の姿を確かめた。間近に劉生。同じ部屋で、同じ布団の上。傍から見れば、まるで恋人同士が抱き合って眠っているように見えるだろう。そうと気が付くと、全身の血の気が引いていく。
 強張る私を腕に収めたまま、劉生は額をつけるように顔を寄せた。
「ねーちゃん」
 耳をくすぐる甘い声で囁く。
「もういいでしょう? 強情張らないで、俺のものになりなよ」



 いいわけあるかい。
 私はかつてない力を発揮して、男女の筋力差さえひっくり返して劉生を払いのけた。そこからは、常と変らぬ展開で劉生を追い出し、家の鍵と言う鍵をかけ、カーテンを固く締める。
 そして、脱力してクッションの上に座り込んだ。布団の上に戻る気はなかった。劉生の体温が残っている内は、触りたくもない。
 ――――慣れてきた?
 劉生の言葉に、引いた血の気が戻らない。呆けたまま膝を抱き、じっと自分のつま先を見た。
 ――――俺にこうされるの。
 軽く頭を振り、私は唇を噛んだ。カチカチと時計の音がする。ぼんやりとつま先を眺めていると、足の爪が伸びていることに気が付いたが、爪切りにまで手を伸ばす気力はなかった。
「……慣れてない」
 自分自身に言い聞かせるように、私は呟いた。単純な否定の言葉だが、その響きは私にとってしっくりきた。
 慣れてはいない。劉生が傍にくると緊張するし、知らない表情を見るのは怖い。劉生の度を過ぎた愛情は、いつだって不安になる。
 ――だって、そういうのは恋人同士の行為でしょう?

 だって、川崎さんにも同じことしていたんでしょう?

 私は表情を歪め、立ち上がった。バイト行こう、と思考を切り変えるようにわざとらしく呟く。
 部屋に籠っていると、いらないことまで考えてしまいそうだ。

 ○

 しかしバイトに行ったら行ったで問題があるのだ。
「外村さん、成瀬さんと付き合っているんですって」
「まあそんな感じ」
「嘘をつくなー!」
 と割り込んだのは、外村君と吉田さんの会話だった。シフトの時間を終え、私服姿の外村君と、暇そうに砂糖を補充する吉田さん。カウンターを挟んでの談笑に、私は異議を唱えずにはいられなかった。
 すでにピークの時間帯は過ぎ、客足もまばらになっていた。多少の雑談なら咎めるほどでもないが、これに関しては許しがたい。
 店内のテーブルを拭いて回っていたはずの私が、必死の形相でカウンター駆け寄ってきて声を上げる。そんな姿に、二人は目を丸くした。
「え、違うんですか? あたし、けっこう前からあやしいなって睨んでいたんですけど」
「照れなくていいんですよ、成瀬さん」
「まーバイト内で付き合うって、けっこう気まずい気持ちもわかりますけどね」
「もし妙なこと言うやつがいたら、俺に言ってくださいね」
「うーん、やっぱりそういうところ、彼氏って感じする」
 今まさに、妙なことを吉田さんと外村君から交互に言われている。斬新な波状攻撃だ。私の精神をえぐるように突いてくる。
「外村君、この前はちゃんと否定してたじゃない」
 私は訴えかけるように言った。この前、先輩や劉生に対しては「告白しただけ」とありのままを伝えていたはずだ。もっとも先輩に対しては、ありのままが伝わらなかったが。
「いやあ、こういう感じもいいかなあと思って」
 どんな感じだ。
「だって成瀬さん、放っておくといつまでも曖昧なままにしそうなんですもん。先に根回ししておいてもいいじゃないですか」
「いいわけあるかーい!」
「既成事実が出来てしまえばこっちのもんですよ」
 そんな言葉を爽やかに吐く。
 見た目と中身が伴わないとはまさにこのこと。このスポーツでもやっていそうな好青年の顔で、世の女性を騙してきたのだ。
「とりあえず、またデートしましょうね」
 幾多の女性の恨みを買った笑顔で、外村君は言った。
「またってなに!?」
「一回したじゃないですか」
「あれは不可抗力で」
「じゃあ次も不可抗力です」
 いやだ。どこに行っても胸の痛くなるような元彼女達との邂逅があり、いつか刺されると冷や冷やしながらのデートなんていやだ。
 私が頭を抱える様子を眺めながら、吉田さんがぽつりと言った。
「やっぱり付き合ってんじゃないですか」
 誤解だ、たいそうな誤解だ。こうして誤解をさせることこそが、外村君の狙いなのだ。
 涙目になりながら誤解を解こうとする私に、外村君が微笑みかける。
「難しく考えすぎなんですよ、成瀬さんは」
「外村君が簡単すぎるんだよ」
 人間誰しも一度は迷い込むと言う恋の迷路。複雑怪奇が標準の迷路は、たぶん外村君に限って言えば一本道だ。入った途端に出口が見えるレベルだ。
「じゃ、難しすぎる成瀬さんと、俺はちょうどいいじゃないですか」
 よくわからない理屈を述べて、外村君は私の顔を覗き込んだ。どこか含みのある黒い瞳が、私を映していた。
「俺にしておきましょうよ、成瀬さん」


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