嫌な記憶は忘れない


 中途半端な時期に中途半端なメニューが加わった。	
 四月終盤、なぜか喫茶店のメニュー入れ替え。現場を知らない上の人から現場にそぐわぬメニューの数々を与えられ、そろそろ店長は憤死しそうである。ストレスのあまり煙草休憩も三倍量と増えに増え、バイト一同も憤死しかねない。これもチェーンの宿命である。

 そんなバイトに人権などない。
 畜生のように汗水たらして働いて、少ない賃金に一喜一憂。時間を売って金を得る貧乏学生の鏡のような私は、今日も慣れない新メニューを相手に労働に勤しんでいた。
 ちなみに店長は当たり前のように煙草休憩に出ている。平日だからとバイトの量も減らした結果、店には私一人しかいなかった。

 昼時のピークを過ぎ、すっかり客のなくなった店内で一息ついていると、嫌な客が現れる。
 言うまでもなく弟の劉生だ。諸事情により仲の芳しくないこの弟は、最近どこから嗅ぎつけたのか私のバイト先を知り、一人で店番していると大体姿を現すようになってしまった。
 いったいこれはどういうことだ。バイト先が割れただけならまだしも、一人の時を確実に狙ってくるとはこれいかに。まさかストーカーされているわけでもあるまいな。ははは。
 ははは。

 劉生は壁際の席に勝手に座ると、テーブルに置かれたメニューを手に取った。相手をしないわけにもいかないので、お冷を持って劉生の席に行く。
 水をテーブルに置くと、「ねーちゃんねーちゃん」と劉生が話しかけてきた。ひいっと飛び上がりそうになるが、そこはプロのバイト畜生略してバ畜。ただしバイト歴はまだ半年。優秀な社畜の素養を持つ私は、店員としてつとめて冷静に劉生を見る。
「なに」
「メニュー変わったんだね。……あ、クリームソーダ? こんなのあるんだ」
 コーヒーフロートはないのにクリームソーダはある。ソフトドリンクのメニューに普通のメロンソーダはない。これが上の方々のお考えである。偉い人の考えることは、下々の人間にはよくわからない。
「クリームソーダかあ……」
 しかし劉生は気になるようだ。コーヒーチェーンの喫茶店でわざわざメロンフロートを頼む人間の心境とは。
「それにするの?」
 私が言うと、劉生は小首を傾げて「ん」と答えた。


 メロンソーダにバニラアイスを乗せ、横にさくらんぼを飾る。スプーンとストローを添えて劉生の前に置いたところで、再び話しかけられた。
「なんか懐かしいよね」
「うん?」
「ねーちゃん好きだったよね。外に行くといつも頼んでたし」
 小学生くらいの頃の話だ。メロンソーダが嫌いな小学生なんていません。
「それで俺も真似して、よく頼んでたなあ。お揃いがよかったからさ」
 懐かしそうにそう言って、劉生はスプーンを手にした。アイスをつついて削り取り、口に含むと目を細める。随分と美味そうに食べるものだ。
 さて、しかしそろそろ店員としての義務は果たしたはずだ。あとは会計の時までカウンターにでも引っ込んでおこう。
 などとひっそりと劉生の傍を離れようとしたものの、そこを目ざとく見つけられる。そっと身を引く私の腕を掴み、「ねーちゃん待ってよ」と劉生は言った。
「話しようよ」
 残念。いやあ、私は労働厨であるから。誤字ではない。
 無駄口叩かず低賃金で真面目に労働。日本人総労働厨のこの世の中、きっと明日世界が終るとしても、人々は働き続けるのだろう。
「いいじゃん。俺しか店にいないんだし」
 唇をとがらせて、ふてくされた顔で劉生は言う。平日、駅前を通り過ぎる人の姿も少なく、これから客の来る気配もない。おかしなことに店長が帰ってくる気配もない。へー、煙草って一本吸うのに一時間以上かかるんだ、知らなかったなあ。
 そうこうするうちに逃げの一手を打ち損ね、劉生と思い出話をするはめになってしまった。



 かくして私も劉生もまだまだお子様。小学生の頃の私と劉生は、それはもう仲が良かった。よく懐きいつも後ろをついてくる弟を、鬱陶しがらず可愛がっていた私は姉の鑑。姉弟仲が良好であったのも、ひとえに私のおかげだろう。
 そんな姉弟とクリームソーダの思い出は、小学二年生の時分にさかのぼる。あらかじめ言っておくが、たいした事件ではない。本当に本当にたいした事件ではない。
 あれは夏。お盆も近い八月の日。父方の祖父の家に、親戚一同が終結する。いわゆる親戚づきあいに両親が苦心する中、お子様たちは退屈真っ盛りであった。
 そんな私たちを見かねて、当時高校生だった親戚のお姉さんが、神社でやっている縁日に連れ出してくれたのだ。母から五百円もらい、大喜びで縁日に繰り出した私が見たのは、屋台では珍しいクリームソーダだった。プラスチックのカップに氷とメロンソーダ。丸くくりぬかれたバニラアイスが乗ったそれは、小学生の心を鷲掴みにするには十分だった。
 劉生と揃いで買って、浮かれてはしゃぎまわって。
 あとは言うまでもあるまい。

「転んでこぼしちゃったんだよね」
 ほげえっ。
 悪夢がよみがえる。
 い、いや、小学生にはこの程度の失敗、よくあること。子供らしい可愛いミスではないか。この記憶までは悪夢というにはまだ遠い。
 問題はそのあとだ。

 ものの見事にひっくり返した小学二年生。これで泣くなとは酷である。小さな私はショックのあまり泣き出して、お姉さんを散々困らせた。握らされた五百円玉は五十円にまで縮小し、新しく買うだけの余裕もない。
 おろおろするお姉さん。泣きわめく私。ときどき道行く人に「大丈夫?」と話しかけられ、苦笑いで対応するお姉さんは従姉の鑑。だけど当時小さい私には、そんなことはさっぱりわからない。
 にっちもさっちもいかない私たちを救ったのは、さらに小さい劉生であった。私と同じく購入したクリームソーダのアイスをつつき、スプーンに乗せて私に差し出す。
 そうして「あーん」と言われれば、反射的に口を開く他にない。私の前世はきっとツバメのヒナかなにかに違いない。まったく疑いようもなく開いた口に、甘いバニラのアイスが流れ込む。
 一口食べて、少しの間口を閉じ、うつむいて震えていた。まだまだ涙の零れる私の姿を覗き込み、劉生は天使のように微笑んだ。
「おねーちゃん、おいしい?」
 それから劉生と私は、クリームソーダを半分こにして食べた。

 いい話だ。
 実にいい話だった。美しい姉弟の愛だった。
 これがどうして悪夢にまで発展したのか。それは周りの大人が悪い。

 この美談は親戚一同語りに語り継がれた。
 いやあ、劉生君の立派なこと。小さいのにしっかりしているねえ。などと劉生の評判はうなぎのぼり。相対的に私の評価はどじょうさがり。「お姉ちゃん(笑)」の不名誉に加え、クリームソーダを頼むたびに、厳重な警戒が敷かれるようになってしまった。姉の鑑とはなんだったのか。
 この不名誉は、少しずつ廃れていくまでに五年以上の時を要した。小中学生時代にクリームソーダと言われ続ける私の心はボロボロである。それはトラウマにもなるというものだ。子供に対してなんという酷なことを。


 話が終われば、ものの見事に私は頭を抱えていた。些末な事件が人の心を壊すのだ。せっかく、せっかくやっと遠い記憶になったというのに。
「なんでまだ覚えてるんだよおお……」
 うなだれる私とは裏腹に、劉生はにこやかだった。アイスをスプーンで削りながら、私の姿を楽しそうに見ている。
「だって、ねーちゃんのことだから」
 季節外れのクリームソーダがしゅわしゅわと音を立てる。スプーンにつつかれたアイスがソーダの中に沈み、浮かんでくる。心の痛みに悶絶する私の肩を、劉生は軽くたたいた。
「ねーちゃん」
 なにかと顔を上げれば、劉生がいる。アイスの乗ったスプーンを手に、私の顔の前に差し出して、記憶よりもずっと大人びた表情で言った。
 二人だけしかいない店の中。どこかぎくりとするような、甘い声色で。

「ね、あーん」



inserted by FC2 system