夏の夜にご褒美


 ひっ、と喉を鳴らす。
 俺の隣で、ねーちゃんが震えている。おどおどとした手つきで、こっそりと俺のTシャツの裾を掴んでいる。気がつかないだろうと思っているのだろうけど、バレバレだ。
 すがりつきたいけど、恥ずかしくてできないのだろう。ねーちゃんは唇を噛んで堪えている。俺の胸はいつでも空いているんだけどな。
 見つめていると、ふと正面から顔を逸らしたねーちゃんと目が合った。感情をこらえるのに精いっぱいな、無表情な顔。だけど目の端には、少し涙が浮いている。
「ねーちゃん……」
 俺はため息交じりに言った。
「そんなに怖いなら、見なきゃいいのに」
 夏の心霊特番なんてさ。
 ちらりと目をやったテレビの中で、半分透けた女の子が通り過ぎって行った。

 俺たちは両親につつかれて、夏休みを実家で過ごしていた。とは言っても、お盆の間だけだ。
 薄情な性格は、俺とねーちゃんは似ているらしい。夏休み中、ずっと狭いアパートで蒸されていようかと思って、実家に連絡も入れなかった。ら、母親に電話で叱られた。せめて祖父ちゃんの墓参りにくらいは来い。姉弟そろって、盆にも顔を出さないつもりか、と。
 そこまで言われて、戻らないわけにはいかない。それに実は、少し期待もしていた。
 大学では俺を避けるねーちゃんと、同じ家にいられるんじゃないかって。

 俺の読みは大正解だ。しかも愚かなことに、ねーちゃんは親が寝静まってから、嬉々として深夜の心霊番組を見始めたのだ。
 俺が風呂に入るときに笑いながらテレビをつけて、出てきたときには凍り付いていた。居間のフローリングの上に直に座って、真正面からテレビを見ている。俺よりも先に風呂を済ませていたねーちゃんは、よれよれのジャージ姿だ。寝る前だからか、見た感じ下着を身に着けていないようだけど――まあ、それは別の話。
 ほかほか茹で上がった俺が、タオルを首にかけたまま隣に座っても、ねーちゃんはほとんど反応をよこさなかった。普段なら大げさなくらいに飛び上がる癖に。
「大丈夫?」
 聞くと、ねーちゃんは固い動きでうなずく。ねーちゃんは怖がりな割に、この手の番組が大好きだ。ついでに、怖くなると傍にある物なんにでもしがみつく。体がくっついていると落ち着くのだろうけど――俺に対しても、いつになく近寄ってくる。
 そういうねーちゃんの、あんまり賢くないところ……もとい、隙のあるところは、かわいい。
 ひっ、とまたねーちゃんが竦み上がる。テレビを見ると、さいたま市に住むAさん(仮名)の体験した怖い話が、ドラマ仕立てで流れているところだった。時間的に、そろそろ番組の終わりも近い。ここらで、一番怖い話が来るだろうか。
 何気なく見下ろしたねーちゃんの顔は……蒼白だ。小さい体をさらに縮めて、荒く息を吐きながら涙目になって見ている。たまに逃げるように視線をさまよわせ、それでもやっぱり行方が気になってしまうのだろう。
「ねーちゃん、今日眠れるの?」
 返事はない。無理っぽいな。
「見るの止めればいいのに」
「が、画面に映ってると気になるし……」
「消せばいいじゃん」
「最後がどうなったか、わからないと怖くて……」
 俺はため息をついた。だめだこりゃ。
「目隠しして、耳塞げば? 怖いところが過ぎたら教えるよ」
 ねーちゃんは横目で俺を見上げると、怖さをごまかすように笑った。
「目をつぶると、出そうで」
 へへ、とねーちゃんは力ない笑い声を上げる。子供みたいな人だ、本当に……。
「ねーちゃん」
 一度だけ画面に目をやる。クライマックスの手前、出るか出ないか、という場面だ。俺の服を裾を、ねーちゃんは一層力をこめて握りしめる。
 俺は一瞬、ためらうように自分の唇をなめた。姉と弟、いや、今さらだ。嫌われて避けられているのも、今さら。
「目隠ししてあげようか」
 言い終える前に、俺は服の裾を握るねーちゃんの手を掴んだ。小さくて柔らかい手。仄かに温かい。
 俺はびっくりしたように固まるねーちゃんの前に身を乗り出す。瞬間、瞳がかち合う。画面から俺に。瞳いっぱいに、互いの姿が映る。何か言おうとしたねーちゃんの口は、だけどすぐに塞いだ。
 テレビ画面とねーちゃんの間に割って入る。目隠しをする、俺の体で。唇に柔らかい感触。物足りなさに上唇を食む。ねーちゃんは苦しげに喘ぐと、あわてて俺から顔を逸らした。
「な、なに、なにを……!」
「怖い場面、終わったよ」
 テレビに目を移すと、後日談に変わっていた。結局どういう話だったのかはよく分からない。ねーちゃんも、もうどうでもよくなっているみたいだ。
「怖くなかったでしょ?」
 怖さも、テレビの内容も頭から吹き飛んだだろう。なら、眠れるだろうか。ねーちゃんのことだから、きっと俺が気になって一睡もできないに違いない。
「お、ま、え、は……!!」
 掴みかかろうとするねーちゃんを避けて、俺は立ち上がった。顔を真っ赤にするねーちゃんを見下ろして、俺はにこりと微笑んで見せた。
「おやすみ、ねーちゃん」
 そう言うと、俺は居間を出た。背中からねーちゃんの喚き声と、すでにコマーシャルに移ったテレビの音がする。
 首にかけたタオルを取ると、夜の風が廊下を流れた。俺は首をすくめる。湯冷めしたみたいだ。
 ――その割に、頬がやけに熱かった。

 俺も、眠れないかもしれない。



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