やる気の出ない朝もある


 おはようございます。
 目が覚めた時点で何ひとつやる気が出なかった。月曜の朝。特に体の具合が悪いわけでもない。ぼんやりと時計を見ると、朝の講義の開始まであと十分しかなかった。
 ここで普段なら、やばいと飛び起きるわけなのだが、今日と言う日はどうしようもない。ああ、十分か、無理だ。遅刻する無理だ。頑張れば間に合うけど無理だ。
 なんと言っても手足が動かない。目を開けていても自然とまぶたが落ちてくる。微かな空腹を感じたが、それすらも無視した。
 昨日、ホラー映画を見ていて夜更かしをし過ぎたせいか。それとも連休中のバイトによる疲れのせいか。呆けたまま枕にしがみつき、私は堕落の一歩を胸に刻む。
 ――一日くらい、休んだっていいっしょ。
 だってまだ月曜の講義は一回も休んだことないし。一度くらい休んだって単位は取れるし。それに……と考えることさえ面倒になってきた。
 一度怠惰への坂へ転がれば、もう留まることを知らない。私のやる気は急激に埋没し、二度と見つけることができなくなった。枕を抱く手からも力が抜け、とろける眠気に意識がさらわれる。この上ない至福の時であった。
 しばらく、夢とうつつを漂っていた。その私のささやかな幸せに水を差す者がいる。

 軽快かつ忙しない足音が聞こえた。その音は私の枕もとで止まる。
「ねーちゃん、起きないと講義終わっちゃうよ」
「……あとちょっと…………」
 私は寝ぼけていた。
「もう講義はじまってるよ。遅刻なんて、ねーちゃんらしくない」
「もうちょっと…………」
「起きなよ。一度サボるとサボり癖がつくよ」
 その声と共に、大きなため息が聞こえた。あまりに近くで聞こえたので、何事だろうかと私は思いまぶたをこじ開けた。
 目が合う。私に似た顔立ちの男が逆さまに見えた。少し細められた瞳が瞬いて、男のくせに私よりも長いまつげが揺れる。悔しながらにちょっとしたイケメンだ。覆いかぶさるような体勢で私を見下ろし、顔をしかめている。
「りゅう……」
 ぼやぼやと口を開く。言いなれた音を口からもらしたとき、意識が急速に浮上した。
「劉生!?」
 勢いよく体を起こす。眠気は覚めていた。
「ほら早く着替えて、顔洗って」
「え? あ。今何時!?」
「九時十分。講義はまだ始まったばっかりだよ」
 無気力だった私はすっかり鳴りをひそめ、私は大急ぎで顔を洗うために洗面台へ飛び込んだ。一度講義を休めば、その分追いつくのが大変だった。予期せぬ課題が出ることもある。なにより私の素晴らしい成績にケチをつけることになるのだ。
 頭から水をかぶり、タオルで荒く拭く。もう一度だけ目を擦り、呆けていた頭が目覚めた。顔は青ざめた。
「ねーちゃん、着替え出しといたよ」
 背後から洗面所に顔をのぞかせる劉生の姿が、鏡に映る。茶色い髪はヘアピンで雑にとめられ、だぼだぼのシャツとパンツ姿でいつもよりルーズな格好をしていた。劉生にしてはめずら――いや待て待て待て。
「なんで劉生がいるの!?」
「なんでって、ねーちゃんが講義に来てないから」
「いやいやいや」
 まあまあ落ちつけ。まだ慌てるような時間じゃない。まだあわわわわ。
「どうやって部屋に入った!?」
「えっ、普通に……」
 言いながら劉生が額のヘアピンを抜き取る。それは犯罪だ。
「いいから、早く出かける準備しなよ。それとも本当に休むの?」
「い、行くけど」
「じゃあ、ちゃんと顔拭いて。朝ごはんは?」
「いらな……」
「バナナだけでも食べなよ。確か冷蔵庫にあったよね」
 鏡越しの会話は滑らかだ。おおおおおち、おち、おちつ、おちけつ。
 血の気の引いた私の顔が鏡に映る。手はタオルを持ったまま。濡れた髪からは水がしたたり落ちた。劉生が、動けない私にいぶかしげな顔をする。
「どうしたの、ねーちゃん。今日ちょっと変だよ」
 お前にだけは言われたくない。
「なんで当たり前のように劉生がいるの!」
「なんでって、ねーちゃんが講義に――」
「それはさっき聞いた!」
 血が繋がっていなければ、余裕で通報ものだ。その後の劉生は、私の半径百メートル以内に入ることのできない体となる。
「だいたい劉生。その講義って劉生も受けてたでしょ?」
「受けてるけど」
「自分も遅刻してんじゃん!」
 お前は一体何を言っているんだ。と思わず振り返り、私は強い調子で劉生にそう言った。講義に来ていない、と知っているのなら、一度講義室には居たのだろう。それをわざわざ戻ってきて、犯罪に手を染める劉生の気持ちが分からない。恐らくこの気持ちは、分かったら犯罪者の素質がある。
 はっ、と劉生は笑う。なんだそんなことか、と目が言っていた。
「一回くらいサボったって大したことないよ」
 わあ、最初と言っていることが真逆だ。さすが劉生、私には言えないことを平然と言ってのける!
「ねーちゃん、早くしなよ。ねーちゃんが出ないと俺も出られないじゃん」
「どうしてそうなる!?」
「迎えに来たんだから、一緒に出ないと意味がないよ」
 劉生の口から、まったく自然に返答がくる。もしやこれは、おかしいと思っているのは私だけなのか? 実は劉生の言うことがまともで、困惑する私の方がおかしいのか?
 混乱を極め、私は鏡に向き直った。タオルを手に、水の滴る髪を拭く。圧倒的な違和感の前では、人は考えることを止めるらしい。
 劉生が満足したように、奥の部屋へと消えて行く姿が鏡に映る。
 その劉生を追って、見覚えのある少女が鏡を横切って消えた。昨日見たホラー映画の影響だろうか。その割には、あの長い髪、小柄で少し幼い横顔、見覚えが。
 ――ハルちゃ……いや、気のせい気のせい。
 私は考えることを止めた。

「ほら、早く着替えて着替えて」
 なぜ着替えのありかを知っているのか。劉生は私が滅多に着ないようなブラウスとミニスカートを用意していた。ストッキングの収納場所など、私自身さえ忘れていた。このチョイスは劉生の趣味なのか。姉弟なのに、あまり気が合わない。
 が、それはいい。この破滅的な汚部屋でどうやって服を探し当てたか、などということは些細な問題だ。
 私はバナナを片手に突っ立っている劉生に言った。
「いや、出て行ってよ」
「えっ」
「えっ」
 なぜ、という表情を劉生がする。なぜ、とは私のセリフだ。
「着替えるんだよ?」
「うん」
「出て行ってよ」
「うん?」
 語尾が違うだけで意味がこんなに変わるものなのか。私はよく分からない衝撃を受ける。
「え……じゃあ、私が着替えている間、劉生はそこで何するの?」
「えっ、見てるけど」
「出て行け」
 至極まっとうな私の言葉に、劉生はなにを思ったか吹き出した。あはは、とストーカーのくせにいやに爽やかさを感じさせる笑い声を上げる。
「姉弟なのに、今さら。昔は一緒に風呂に入ったのに」
 軽快に劉生は言ってのけた。
 ――姉弟なのに。
 その言葉ほど、私に信じられないものはない。
「人の着替えを見るな」
「そんな照れなくても」
「はよ出てけや」
 険しい表情で、私は部屋の扉を指差す。その指先をぎゅっと握られた。
「そうですよう。女性は照れ屋さんなんですから」
「照れることないのに。俺とねーちゃんの仲だろ?」
「それでも、男の人に肌を見られるのは恥ずかしいんですよ。だって怖いじゃないですか。変だったらどうしようって」
「そんなことないよ。ねーちゃんの体は綺麗だ」
「ちょい、ちょ、ちょいま……」
 最後の一言のみ、私である。指先を何者かに掴まれたまま、私は両手をふわふわと上下させる。喉の奥に言葉が詰まって、出てこない。落ちつけ私。いったいどこから、口を出せばいいのか考えるのだ。
「は、は、ハルちゃん……?」
「はい、お姉さん!」
 いい返事が返ってきた。ハルちゃんは背筋を伸ばし、愛らしい瞳で私を覗いてくる。
「どうしてここに……?」
「どうしてって、普通に」
 それはさんざん聞いた。たぶん、髪に差さっているヘアピンに秘密があるのだろう。それについては、明日にでも鍵を交換するとして。
「なんのために、私の部屋に?」
「そりゃあ、劉生さんのいる所ならいつでもどこでも!」
「講義は……」
「一度や二度のサボりで単位を落としたりはしません!」
 愚問だった。
 ハルちゃんに対する質問は無意味である。どうせ帰ってくる答えも、私に理解できるものではないのだ。
 さて。部屋にはストーカーが二人。時間は刻一刻と過ぎていく。着替えは目の前に。バナナは劉生の手に。これはいったいどうしろと。
「ねーちゃん、早く着替えて」
「劉生さん、女性にそんな風に迫るなんて」
「ストーカーは黙ってろよ」
「ストーカーの何が悪いって言うんですか!」
「人の迷惑だろ!」
「人間、生きていれば何かしら迷惑をかけるんですよ!」
 私の目の前で、さらに不毛な言い争いまで始まる。冷静な時であれば「どっちもどっち」という的確な言葉を贈るであろうが、残念ながらこの時の私は冷とも静とも程遠い。
 へっ、と無意識にしゃっくりのような笑い声が漏れた。顔はひきつって、不自然な笑みを浮かべている。
「――二人とも」
 小さな声は二人の耳に届かない。私は大きく息を吸い込んだ。
「出て行け――――!」

 ○

 結局、劉生の選んだ服に着替える。慣れないスカートに違和感を覚えつつ、もう二度と遅刻をしないと心に誓った。


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