こだわりは大事
「ねーちゃんねーちゃん、トリックオアトリート」
「あ、劉生いいところに、ちょっとそこ居て!」
「え、なにその珍しい反応」
思わぬ歓迎に、悲しいかな、俺は驚きの声を上げてしまった。冷たくあしらわれるか、怒って追い出されるかすると思っていたからだ。実際いつものねーちゃんなら迷わずそうする。まず俺が、ねーちゃんよりも先にアパートの部屋の中にいる時点で。
だいたいねーちゃんは細かいことを気にしすぎる。鍵だとか、不法侵入だとか。そんな事よりもねーちゃんは、自分の部屋の壊滅的な汚さを気に掛けるべきだと思う。足の踏み場もない床は、いかに弟といえどドン引きだ。せめて服くらいたたんでしまっておいてほしい。
そんな俺の心中は知らず、ねーちゃんは玄関から慌ただしく部屋に上がってくる。両手には白いビニール袋。足の踏み場もないので床は踏まず、積もった服やら本やらを構わず踏む。
「どうしたの、ねーちゃん」
二つのビニール袋を乱暴に下ろすと、ねーちゃんは中身を取り出す。中はチョコやら生クリームやら、あまり普段のねーちゃんらしくないものが詰まっていた。
「これからお菓子作る」
「えっ?」
俺のため?
「学部でハロウィンするんだって、今日言われた。手作り限定で菓子交換会」
違った。しょんぼりだ。
「ははあ、なんかあんまりねーちゃんが参加しそうにない会だね」
「参加者には無条件で試験の点数上乗せ」
「あ、参加しそう」
いかにもねーちゃんが乗り気になりそうだ。俺のトリックオアトリートには無反応なのに。あまりの色気のなさに俺は切なさを覚えた。
「今日の夕方からだから、今のうちにお菓子作っとかないとなんだよ。劉生、手伝って」
「ええー」
「私より劉生の方が得意でしょ。とりあえずフォンダンショコラと言うやつを作るよ」
「なんでそんな微妙に面倒そうなものを……」
普通に、クッキーとかカップケーキとかにすりゃいいのに。ねーちゃんは、こう、無駄にこだわるところがある。
本当に、いらないところまで、細かく細かくこだわるところがある。
「形が気に食わない」
ふんわり焼いた生地の中に、とろりと熱いチョコレートが閉じ込められたケーキ。それがフォンダンショコラだ。このチョコを閉じ込めるのが難しくて、生地からはみ出したり、チョコが少なすぎてほとんど空洞になっていたりする。そういうのがあるたび、ねーちゃんはいちいち焼き直す。どうりで材料が二袋にもなるわけだ。普段は「金がない」が口癖みたいなものなのに、こんなときは溶けるほどに金も時間もかける。
「ちょっとくらい崩れても、手作りの愛嬌だよ。ほら、生クリームでものせればごまかせるし」
結局手伝わされた俺は、そう言いながらくるくると生クリームを絞り出す。だけどねーちゃんは納得しないようだ。渋い顔で、すでに失敗作と位置付けられた面々を見つめている。
「もう一回焼こうか」
「時間ないでしょ」
時計を見れば、もう四時半だ。夕方と呼べる時間が近い。ねーちゃんはますます顔をしかめる。
「……なんでそんなに形にこだわるの?」
「だって、見た目いい方がいいでしょ」
「そりゃ、そうだけど」
ねーちゃんは几帳面すぎる。どうしてこんな几帳面でいて、部屋は呆れるほどに汚いのか。十八年弟をしていても、このねーちゃんの妙なこだわりはよく理解できなかった。
少し肌寒くなってきた十月の終わり。アパートのキッチンは冷え冷えとして、黙っていると指先が痛くなる。俺は冷えた指で、失敗作扱いされる小さなケーキをひとつ取り、半分に割った。
ココアを練り込んだ茶色い生地から、チョコレートがにじみ出る。少し冷めたチョコレートは、口に含むにはちょうどいい温度に変わっていた。
「見た目より、中身だよ」
俺はそれを、ねーちゃんのぼんやり開いた口に放り込んだ。
お、と驚いた顔をしたねーちゃんだが、口に入ってしまったものは仕方ない。渋い顔で俺を見上げながら、ねーちゃんは口を閉じ、もぐもぐと動かした。その様子を黙ってずっと見ていると、ねーちゃんが照れたように俺の腹を叩いた。痛い。
「……甘すぎない?」
飲み込んでから、ねーちゃんは言った。首を傾げて俺を窺い見るさまは、どこかとぼけた犬のようだった。
「美味しくない?」
「そんなことはない」
悔しげに、だけど即答する。
「劉生が作るお菓子は美味しい。私より」
「…………そう?」
ねーちゃんは頷いた。そして少し俯いて、唇を噛んだ。
「屈辱」
そう言って、ねーちゃんは少し形の崩れたケーキたちを睨んだ。
俺たちが一緒に作ったケーキだ。
はっ。
と、ねーちゃんは目覚めたように慌てだした。
「そろそろ大学! ハロウィン! お菓子包まないと!」
時間はもうすぐ五時と言うところだった。ねーちゃんはあわあわとキッチンの棚を探り出す。ラップを探して放り投げ、小分けの袋を見つけて放り投げ、リボンを取り出してそれも投げた。全部俺が拾った。
「別に小分けにしなくてもいいじゃん」
「そうはいかない」
「こだわりすぎだってば!」
「見た目がいい方がいいでしょ!」
デジャブ。
なんでそんな、いらない場所までこだわるんだよ、ねーちゃん。どうせ包むのも俺に手伝わせるつもりのくせに。
俺は冷たい空気にとけるように、一つため息をついた。
○
嵐のようにねーちゃんが去って行ってから、俺は一人取り残された。
一人きりの部屋は、なんだかさみしい。さっきまで騒いでいた声や空気が、まだ肌に残っているからだ。
ねーちゃんが騒ぐ、俺を叱る、急かす。ねーちゃんはたまにすごく我がままで勝手で――そんな様子が、俺がまだねーちゃんと決定的に別れる前の日々を思い出す。
今日みたいに――昔みたいに――騒げる日は、この先あるだろうか。
キッチンに残された、半分に欠けたフォンダンショコラが目について、俺は無意識に手に取った。もう半分はねーちゃんに食べさせた。
残りは――。
口の中に放り込むと、俺は目を閉じた。
あまり砂糖を加えないチョコレートの味。熱はすっかり失せてしまっていた。
甘すぎない。
少し、苦いくらいだった。