頭の片隅にもなかった


 友人の誕生日だった。
 同じ学部の、朝会えば言葉を交わし、試験前にはノートを交換し、過去問を回し合うような、友人と言えばまあそんな感じの相手だ。女子の少ない理系学科で、なにとはなしにひと塊になったような女集団。私はその塊の一部であり、彼女もまた、塊の一部であった。彼女の通称を「ユッコ」と言う。
 朝、二年生必修の講義が始まるまでの余暇時間。まだちらほらとしか学生の見られない講義室の前方に、その女集団がいた。横長の机の端にユッコは座っていて、私はその一つ後ろで鞄を下していた。
「えー、ユッコ、今日誕生日だったの? 言ってよー」
 重たい鞄を横に、腰を下ろした私の耳に、そんな会話が前から聞こえてきた。冷え冷えとして、暖房も効き始めの静かな講義室では、女子たちのかしましい声が良く響く。
「言ってくれれば準備したのにー。あたし今、何も持ってないよ」
「いいよいいよ」
「そうもいかないっしょ。あたしの時は祝ってくれたし」
 へーそうなんだ、誕生日か。私はコートを脱ぎつつ、ぼんやりと前列の席の会話を聞き流していた。冬に入りかけのこの時期、やけに誕生日が密集している気がする。十か月と十日ほど前に、いったい世の夫婦を盛り立てる何があったというのだろうか。
「あたしがやってユッコがやらないわけいかないじゃん。ねえ成瀬」
「え、あ、うん。おめでとう」
 下世話な妄想に浸っていた私に、不意打ちは卑怯である。ろくな返事などできるはずもない。実際に出てきた言葉もなんだか噛み合っていないようだった。
「ありがとう。二十歳になっちゃったよ」
 ユッコは笑って答えた。律儀なものである。
「なんかプレゼントでも……あ、ガムしかない」
 ここで思慮深い人間ならば、常に誕生日を警戒し、予備のプレゼントを携帯することだろう。しかし日々の備えを怠った私の鞄には、残念ながら勉強道具の他にキシリトール入りのガムしかない。勉強道具よりはマシと言う判断で差し出したガム一粒を、ユッコは黙って受け取った。素直なものである。
「とまあ、こんなしょぼい物じゃなくてさ」
 先ほどまでユッコに話しかけていた友人の一人が、私のガムを指して言った。私がようやく見つけたプレゼントに対してしょぼい物とはなんという言い草。まったく私も同意見だ。
「どうせ、昼の講義終わったらみんな暇でしょ? ユッコの誕生日会やらない? 今いない子たちにもあとで連絡してさ」
 かくして私たちは、学科の女子を集めてユッコの誕生日会を開くことになった。

 ○

 そして何事もなく誕生日会は閉会した。

 ○

 アパートに入る前から、すでに違和感はあったのだ。
「ただいま」
 鍵を開け、誰ともなしにそう呟く。習慣のようなもので、返事など期待はしていない。
「おかえり」
 しかし期待していないと返ってくるのが返事というやつだ。無人の家に帰ってきたはずなのに、なぜ返事があるのか、私には到底理解できない。
 扉を開けると、中から暖房の暖かい空気がもれ出てきた。部屋の電気がついている。人の気配がする。しかもこちらに向かって来る、見慣れた姿がある。
「成瀬! 遅い! おそーい!!」
「…………藤野?」
「今日は講義が早く終わるんじゃなかったの? ずっと待ってたのに!」
「いや、あの」
「せっかく成瀬にレポート教えてもらおうと思ったのに、もうやる気でないよ!」
 しかもなぜか怒っている。実に理不尽な怒りである。
「外にいないで、早く入りなよ。寒いでしょ」
 藤野は不機嫌そうに唇を曲げながら、私の手を引っ張った。完全に家主の対応だ。私は間違えて藤野の下宿先に来てしまったのだろうか。
 いや、確かに私は自分のアパートに入ったはずだ。外から自分の窓を眺め、消したはずの電気がなぜついているのだろうかと考えていたことを覚えている。
「……なんで藤野がいるの?」
「なんでって、成瀬に会いに」
 私は藤野に引き込まれ、困惑しつつ靴を脱いだ。部屋の空気が暖かい。節約のためにほとんど入れない暖房が入っているのだろう。電気代は後々藤野に請求しておこう。
「会いにって、鍵は」
 私と藤野は短い廊下を抜け、六畳間に続く扉を開けた。そこで、先の質問の答えを見つけた。
「おかえり」
「…………劉生」
「藤野さん遊びに来たから、部屋に入ってもらったけどいいよね?」
 にこやかに、こたつに入って体を丸くしている劉生がいた。なるほど、全ての元凶はこの男だ。
 扉を閉めると、藤野は吸い込まれるようにこたつに戻っていった。逆に劉生は立ち上がり、私の前に部屋着らしい、洒落っ気のないトレーナー姿を披露する。もう長くこの部屋に住んでいるような、妙に馴染んだ格好であるが、私が知る限り劉生を住まわせた覚えはない。部屋着を置かせた覚えもないが、残念ながら泥棒も逃げ出す我が部屋の惨状では、劉生の服が紛れ込んでいても気づかない。
「外は寒かっただろうし、ねーちゃんは温まって。なんか飲み物でも入れるよ。紅茶? コーヒー?」
「……紅茶」
 呆然としつつも、答えるときは答える。劉生は鼻歌を歌いながらキッチンに消えて行った。キッチンだって、私が見ている限りは、ほとんど劉生に触らせた記憶がない。というのに、我が狭き城は私の知らぬ間に、劉生によって掌握されているようだ。
「ねー、成瀬。なんで今日遅かったの」
 藤野はこたつに潜り込み、立ったままの私を見上げて言った。
「なにって、ユッコの誕生日だったじゃん」
「ん? ユッコの?」
「今朝話してたでしょ。ユッコの家で、みんなで誕生日会するって。それで遅くなったんだよ」
 学科の女子全員。すなわち藤野も自然と含まれている、と私は当然のように思っていた。
「……今朝って」
「一限の講義の……」
 言いかけた私の言葉が途切れる。目の前の藤野の表情が、みるみる哀れに歪んでいく。
「一限出てない…………」
「え、でも一限いなくて来てた人もいたはず」
 朝一番の講義というものは、遅刻八割欠席一割で構成されている。無論、藤野が定刻通りに来ていたなど私は思っていなかったし、藤野の他にも遅刻や欠席をした人間はいた。しかし、そんな彼女たちも誕生日会には顔を見せていたのだ。
 藤野は黙って、私を見上げていた。おそるおそるというように口を開く。
「ぜ、全員いたの?」
 声が震えている。
「私だけ誘われなかったの……?」
「……用事があるって、断ってた人もいたけど」
 思い出しつつ、私は答えた。サークルやバイトで、みんながみんな来たわけではない。藤野の姿がないときも、私は「何か用事があったのかな?」くらいにしか思わなかった。
 藤野はぷるぷると震えている。自分だけが呼ばれなかったことが、相当ショックだったらしい。グループ内で、一人だけ。想像するに余りある。
 哀れ、と思いながら、私は藤野の横に腰を下ろした。足をこたつに放り込み、なんとか慰めの言葉を考える。
「まあ、なんだ……運が悪かったんだよ」
「私、存在感ないの? 忘れられたの? うそだ……」
 藤野は重たげに頭をもたげ、こたつに額を押し付けた。唇を噛み、なんとも言い難い渋い顔をしている。
「そんなことはないと思うけど……ユッコの家についてからも、『藤野いないの?』って言われたし」
 しかも、なぜか私に藤野の行方を聞く。いつも一緒にいるとでも思われているらしいが、私はそれほど藤野の動向を把握していない。私は「知らない」と答える他になかった。
「『いないの?』じゃなくて誘ってようう……。なんで声かけてくれなかったの……」
「……その場にいなかった人には、みんな声をかけたはずだったんだけど」
 たしか、と私は早くも忘れかけている自分の記憶を探る。
「その場にいなかった子には、後で誰か連絡しておいてね、って話になって。……なんとなく分担が、そのいない子と仲が良い人って決まって」
「仲が良い人?」
 額をこたつにこすり付け、震え声で藤野が言った。
「……私に連絡する人って、誰のはずだったの?」
 藤野と一番つるんでいるのは、不本意ながら――。
「なぜか私…………あっ」
「成瀬」
「心の底から忘れてた」
 私は思わず手を打った。ああ、どうりで私に藤野の出欠について聞いてくるわけだ。連絡係だったのだ。そして、私の答えは「知らない」と。連絡がつかなかったのか、それとも明確な理由なく断られたのか、と周りの人間は思うだろう。結果、藤野は理由不明のまま欠席。なんで来なかったのか、みんな「知らない」。なるほどすっきり。
「なるせええええ!!」
 藤野が急に顔を上げ、顔を赤くして私のことをぽこぽこと叩き出した。なんという暴力。しかし痛くはない。
「なんだよ、へこんだ。損した、へこんで損した!」
 絶え間なく私の頭を叩きながら、藤野は叫んだ。
「他の人に忘れられるのはショックだけど、成瀬に忘れられるのは腹が立つ!」
「理不尽!」
「どう考えても成瀬が悪い!」
「たしかに」
 藤野の怒りは理に適っていた。忘れたのは私だ。うっかりうっかり。
「もー許せん。実家に帰る!」
「あ、うんもう夜遅いし。明日も一限あるし。帰り気を付けてね」
「普通に答えるなよ!」
 なにがなにやら、藤野は機嫌悪く荷物をまとめて立ち上がった。私は玄関まで彼女を見送る。
 三和土の上で靴をつっかけた藤野の背中を見つつ、私はまだ、彼女に言ってない言葉があることに気が付いた。
「藤野」
「んー」
 玄関の扉を開けながら、藤野が返事ともつかない声で応えた。冷たい風が吹き込んで、私は思わず目を細めた。
「ごめんね」
 わずかな沈黙ののち、藤野は首を微かに回して、私に目を向けた。
「悪いと思っているならレポートやっといてよ」
「やらないけど」
 藤野は無言で、またひとしきり私の頭をぽこぽこと叩いた。

 ○

 部屋に戻ると、藤野に代わって劉生がこたつに収まっていた。
「紅茶、ちょっと冷めちゃったかも」
 先ほどまで私が座っていた場所に、使い慣れたコップがあった。冷めたと言うが、まだあわく湯気が立ち上っている。
「なんかこう、出て行き辛くて」
 劉生は苦笑し、私を見上げて言った。私と藤野の会話中、キッチンでずっと待機していたようだ。
「ねーちゃん、藤野さんとほんとに仲良いよね。妬けるなあ。ほら、ねーちゃん立ってないで、こたつ入りなよ、寒いでしょ。あ、疲れたなら先寝ててもいいよ。後のことは俺が――」
「いや、お前も帰れよ」
 いい加減、当たり前のように劉生がいる状態をなんとかしてもらいたい。その都度私は、当たり前のように劉生を放り出すのだ。
 寒中? 知ったことではない。


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