寝苦しい夜


<十年前>

 夏だと言うのに、劉生は寝転がって私の布団に入って来る。横に並べた布団から、ころころころ、こつん。私の肩に劉生の頭が当たる。
「ねーちゃーん」
 寝ぼけた声で、劉生は私の肩に頭を擦りつけてくる。熱帯夜。私も劉生も、寝ているだけなのに汗まみれだ。
「あついー……」
 私が言うと、劉生がうわ言のように「あついー」と繰り返した。
「離れてよー」
「やだー」
「離れてってば」
 私は腕で劉生の体を押し返した。半分寝ている劉生は、すぐにまたころころと転がるが、自分の布団まで戻ったところではたと止まる。そしてまたにじり寄ってくる。
「あーつーいー……」
「あついー」
「なんで寄ってくるの」
「あついんだもん」
 意味の分からないことを劉生は言う。暑さのせいもあって、いらいらしながら私は劉生を小突いた。それがいけなかった。
 寝ぼけていた劉生は、それで目が覚めたようだった。押し返そうとする私の腕に、渋い顔でしがみついた。今までしなびた朝顔みたいに、ほとんど無抵抗だったのに、今度は押しても引いても離れない。
「離れて」
「やだ」
「暑いじゃん」
「暑くない」
「汗かいてんじゃん」
「かいてないもん」
「はーなーれーろー」
 両手でいっぱいに突っぱねても、劉生は引きはがせない。ぎゅっと目を閉じて寝たふりでもしているつもりだろうか。だけど、豆電球の下でうかがえる劉生の顔は、少し赤くなっているようだった。
 しばらく、そうして押し合いしていると、不意にぽーんと音が鳴った。部屋に掛けられた時計が、十二時を告げていた。もう真夜中だ。
「明日も学校なのにー……」
「ねむい」
 劉生が思い出したように言うと、重たげな瞬きをした。だけど瞬きは数回だけで、そのうち閉じたまま開かなくなった。
「つかれた……」
 そう言って、劉生は抱きしめていた私の腕を離し、代わりに私のお腹を枕代わりに、頭を乗せる。そして動かなくなった。劉生の寝息が、ゆるく薄暗い部屋の中に響く。聞いているうちに、私も眠くなってきた。
「りゅうせーい……」
 お腹に劉生の重みと熱を感じながら、私は言った。返事はない。
「もう……私も疲れた……」
 寝転がりながらも散々暴れたせいか、額にじっとりと汗をかいていた。私はそれを拭うと、長い息を吐いてから目を閉じた。劉生を追い払う気力もなくなっていた。
「あついー……」
「あついー」
 私の言葉に、劉生の声が返ってくる。「はなれろー」と言うと「やだー」と言う。起きてんじゃん。
 劉生の頭の重みをじわじわと感じながら、私はいつの間にか眠りに落ちていった。やっぱり一人部屋が欲しいと考えながら。
 暑さと寝苦しさで、見た夢は悪夢だった。

――――――

<現在>

 違和感で目を覚ましたら、劉生が私の布団にもぐりこんでいた。
「ギャ――――――……むぐっ」
 悲鳴を上げかけた口は、大きな手のひらでふさがれた。
 深夜四時。夜ではなく朝である、という意見は受け付けない。大学生にもなれば、十二時など宵の口。繰り上がりで、四時頃が夜中になるものなのだ。
 とにかく四時。私は一人暮らしのアパートで、万年布団に潜り込んでいたのだ。それがなにやら人の気配で目を開けてみれば、隣に劉生がいるではないか。しかも今の状況。布団の上で大の男に押さえつけられている。危機的状況だ。薄い本ならこのまま濡れ場に発展する。いやいや、発展させてたまるか。
 私は口を押さえる手に噛みついた。「うわっ」と声が上がり、私の体は俄かに自由になる。
 すぐさま布団を飛び出し、私は布団の上で手をさする劉生を見下ろした。劉生は、吐く息も白くなるような寒い夜に似つかわしくない、薄い寝巻を身に着けていた。叱られた犬のようにしょぼくれて、そして少し恨みがましい顔つきをしている。
 部屋の明かりはつける必要がなかった。なぜなら、うっかり電気をつけっぱなしで寝ていたからだ。おかげで眠りも浅く、劉生の気配にも気が付いたのだろう。
「ねーちゃん、ひどい!」
 なぜか劉生が言った。こっちのセリフだ。
「まるで俺を変質者か何かみたいに。そんな目で!」
「変質者以外の何者だと?」
「家族だよ、弟だよ。ちょっと寝付けないから、子供の時みたいに一緒に寝たいって思っただけだよ」
 ふむ、と私は腕を組んだ。
「いつ家に来た?」
「家の前に来たのは、二時間くらい前かな」
 その時間帯は、絶賛レポート中であった。明日の提出期限に間に合わせるために、三時過ぎまで必死でこなしていたのだ。
「部屋に入ったのは?」
「明かりが消えて二十分くらいしてからかな。物音もしなくなったし、眠ったんだろうなって」
「鍵は?」
「窓が開いてた」
「変態!」
「誤解だよ!」
「誤解の要素がどこに!?」
 ストーカー。不法侵入。そして今回の暴行未遂。役満である。劉生が変態であることは確定的に明らかだ。
「違うって、ねーちゃん。俺は何もする気がなかったんだって!」
「ほう、それならなぜここに?」
「だから! ちょっと寝付けないから添い寝したいなーと」
 ちょっと寝付けないから、二時間前に私の部屋の前でスタンバイ。なるほどなるほど。
「本当に、昔を思い出しただけだよ。一緒に寝たかっただけで、手を出すつもりなんて……!」
「こっち見て言え!」
 私の視線をふいと避け、劉生は形容しがたい表情を浮かべた。笑みが一番近いだろうが、頬が引きつっている。顔だけ見れば悪くない男なのに、どうしてこうなった。
「……ついに家族から犯罪者が…………」
「違うって! ねーちゃん、怖いこと言わないでよ!」
「私は劉生の方がよっぽど怖いわ。確実に道を踏み外してる」
「外してないよ! だいたい、好きな女の子の傍にいたいのは、男としての性だよ」
「あ、もうその発言でアウト」
 好きな女の子、と。私が劉生の姉でなければ、多少ときめくこともありえたかもしれないが――いやいや、考えてみればストーカーの時点でときめきは無理だ。
「全然セーフだよ。ほら、昔だって夜這いとか通い婚とか」
「アウトじゃん!」
「そりゃあ、現代だとちょっとアレだけど……じゃあ、間を取ってセウトで」
「セーフの要素がないって言ってるんだよ!!」
 思わず激昂し、私は深夜であることも忘れて声を張り上げた。瞬間。隣の部屋から鈍い音が響く。苛立ち交じりのその音は、隣人が壁を叩く音だった。
 喉の奥、溜まっていた劉生への罵倒は消え失せ、代わりに「ひゅっ」と怯えにも似た息がもれ出る。頭にのぼっていた血が一気に地に落ちた。劉生に向けた怒りは行き所がなく、胸の中で悶々とした塊となる。
「あんまりうるさくしたら駄目だよ」
「ぐ……ぐう……」
 お前にだけは言われたくない。
 私は唇を噛み、力なく腕を垂らした。
「……もう、わかった。警察には突き出さない。寝る」
「あ、じゃあ俺隣で」
「帰れ」

 劉生を追い出したあと、私はようやく床に就いた。
 布団には不本意ながら、劉生の熱が少し残っていた。布団の熱が完全に私の体温に置き換わるまで、私は眠れずに昔を思い出していた。
 一人部屋が与えられる前。私と劉生は一つの部屋で、布団を並べて眠っていた。夏でも冬でも構わず劉生は潜り込んできて、私は鬱陶しいと思いつつも、嫌ではなかったのだ。
 人の肌は温かい。体に耳を当てれば、心臓の音、体の動く気配がした。劉生と眠りながら、私はそんな音を聞くのが好きだった。
 二人で眠る冬の夜は、冷たさを知らなかった。
 ――ああ、くそう。
 きっと今日見る夢は悪夢だろう。




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