因果応報といっても理不尽


 人気のない講義室に、夕陽差す頃。
 無粋な蛍光灯は消え、赤い光だけが部屋を染めていた。窓の外からは、遠く学生たちの声が聞こえてくる。開け放された窓からは、夏の風のにおいがした。
 いつもはうるさいこの講義室も、今はたった二人きりだ。まるで見知った場所ではないような違和感が、二人を緊張させているのだろう。静けさにふと、お互いの顔を合わせれば、はにかんだ笑みが浮かんでくる。言葉はなく、どちらともなく相手の手をとり、指を絡ませる。
 赤い陽に照らされて、頬には朱が差したようだった。いや、もしかして夕陽なんてなくても、真っ赤なのかもしれない。
 彼女の手を引き抱き寄せると、二人の影が一つになった。誰もいない。人目をはばかる必要もない。彼女の頬に手を当て、一度視線を交わすと、あとはためらいもなく口づけた。

 とでも思っているのだろうが残念だ。ひとつ思い違いをしている。
 どだい大学の講義室なんて、人の出入りが激しい場所なのだ。そもそも大学自体、人が多くてかなわない。どこにいたって壁に耳あり障子に目あり。うっかり誰かに見つかることも往々にしてあるだろう。人目をはばかる必要がないのは、トイレか修羅場の研究室くらいなものなのだ。
 二人きり、誰もいない。この大学において、それは儚い幻想だ。
 すでにお分かりの通り、私はこの一部始終を目撃してしまっている。
 置き忘れた教科書を取りに、講義室へ戻ってみれば、いかにも親しげな男女が二人立っていた。はいはいリア充リア充、夕日にあたって浸っていやがるちっくしょう、などと思っていたらこのありさまだ。慌てて机の影にしゃがみ込み、身を潜めたはいいものの、出て行くタイミングを完全に失ってしまった。
 いまさらおもむろに立ち上がり、すみませんお気になさらずに、と出て行く勇気はない。相手もお気になさらないはずがないだろう。そう大きくない講義室だと言うのも都合が悪い。静けさも相まって、脱出しようと扉を開ければ部屋中に音が響くはずだ。
 進退窮まる。私は頭を抱えた。
「ちくしょう妬ましい」
 そして本音は口からもれ出る。幸せそうではないか。くそう、これが世に聞く薔薇色の学園生活か。そんなもの都市伝説だとばっかり思っていた。現に大学生活二年目にして、すでに薔薇色からは程遠い、灰色生活を送る私がいるのに。
「うらやましいんだ?」
「断じてそんなことはない」
 私は唇を噛みつつ言った。うらやましいわけではない。妬ましいだけだ。断じて。
「ねーちゃんでも、一応はああいうの憧れるんだなあ」
「一応ってなんだ」
「彼氏とか、作んないからさ。作ろうとしても、俺が許さないけど」
 作ろうと思ってできるというのなら、すぐに製作に取り掛かろう。原材料は炭素と水素で十分だろうか。
 遠い気持ちで考えながら、私は隣を見やった。そこには劉生がいて、私と並んで座っている。夏も近い季節、半袖姿が涼しげだった。
「…………いつからいたの」
「え、今さら?」
 そうとも、今さらながら私は胡乱な瞳を劉生に向ける。鋭角に差し込む夕陽の下、穏やかな劉生の顔にも影が落ちている。ぼんやりしていると、弟ということも忘れて見惚れてしまいそうだった。彼の瞳が、赤い光を返してきらめいていた。「ずっとそばにいたのになあ」と劉生は、私の視線を受けながら目を細めた。
「やってみたい?」
「は?」
「誰もいない教室でさ。高校生みたいだけど、俺らもそんなに歳は変わんないし」
 言うや否や、劉生は私に顔を寄せてきた。ぎょっとして逃げようとするも、その前に劉生の腕が伸びてくる。気が付けば私は、劉生に抱きすくめられていた。
「り、劉生、なに」
 劉生は答えない。代わりに私の首筋に頭を押し付ける。少し色づいた劉生の髪が、私の頬をくすぐった。
「劉生」
 焦りと不安から、私は劉生の肩を押した。押しのけようとした。だけどぴくりとも動かない。劉生の服越しに、骨ばった固い体を感じた。男性の体だ。
「りゅう」
「高校生でさ、誰もいない放課後、手を繋いだり、抱きしめたり、ちょっとキスしたりさ」
 私の言葉を遮って、劉生が言った。相変わらず私に頭を擦りつけ、顔は見えない。
 淡々とした声とは裏腹に、私を抱く手に力がこもる。手のひらが私の背を撫でた。ぞくりとした。
「当たり前のようにそうして、付き合って、幸せでさ。そんな風にできたのかな、俺たち、……姉弟じゃなければ」
 劉生が言葉を切るのと、ほとんど同時に首筋に痛みが走る。一瞬の思考の空白、のち、劉生が噛みついたのだとわかった。
 痛みのあとは、ぬるい感触があった。傷を慰めるように、劉生が舐めているのだ。舌が、私の肌の上に撫でる。耐え切れず、私は劉生の頭を叩いた。
 劉生は、驚くほどあっさりと離れた。笑みを浮かべた顔に、深い影が落ちている。
「……ごめん。なんでもないよ、ねーちゃん」
「なんでもないって……」
「傷あと残っちゃうかも、ごめん」
「自分でやっておいて……!」
「うん」
 謝る割に、反省する気配はなかった。私を拘束する腕もそのまま、正面から顔を突き合わせることになる。劉生の熱が伝わって、私の頭も熱に浮かされたように混乱していた。
 なんで弟と、なんでこんな場所で、なんでこんなことを。
 なんで劉生は、目を逸らすことなく私を見つめたままなのだ。彼はゆるく目を細めたままだけど、少しも笑っているようには見えなかった。
 息をのみ、痛みを覚えるような空気のまま、時間が停滞する。


「ほら、早く、そこでキスしろ!」
 時間を動かしたのは、やけに無粋な男の声だった。
「じれったい! 高校生じゃないんだから」
「黙ってなさい、こら」
 次いで聞こえたのは、小声で嗜める女の声。
 重たい首を回して声を見れば、見知らぬ男女と視線がかち合う。いや、実際には見知らぬではなく、見るには見たけど知らない男女だ。つまりは、私が不本意ながら覗き見していたカップルがいたのだ。そりゃあ考えてみれば、この静かで小さな講義室で、会話なんてしたら聞こえるに決まっている。あっはは。
 あっはっはっは…………。
 私は目の前がまっくらになった。

 ○

 結局、お互いさまと言うことで解散と相成った。
 寿命が二百年は縮んだので、来世と来々世の私には割を食っていただくことになるだろう。

 それもこれもなにもかも劉生がすべて悪いのだ。おのれ劉生。



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