<序章>

 太寧国(たいねいこく)には千の花が咲き誇る
 美しい花園は固い門に閉ざされて、中を覗くは国王ただ一人。麗しい「花」たちは、国王を迎え、愛でられ、そして抱かれる。他のどこにも見ることもできない、太寧国の至高の園。
 香り立つ麗しき後宮――その名を紫香宮(しこうきゅう)という。

 ○

 とはいえその実、この花園も至高と呼ぶには差し障りがある。
 三年前に先王が急逝し、十四の若き新王のために急遽国中から女たちが集められた。
 身分は問わず美しいもの。というが実のところ容姿も問わず、数集めのために片っ端から若い女が捕まえられた。なにしろひとたび後宮に入れば、死ぬまで出て行くことは叶わぬのだ。年若い娘を持つ家は、固く扉を閉ざして王の使いを拒む。うっかり外を出歩いた愚か者が、人さらいよろしくこの宮へと連れてこられてしまった。
 ネイ・セイエイもその一人だ。人を引き付ける容姿も、たぐいまれなる技も持たない彼女が、こうして後宮の中庭に鎮座し、舶来の茶を飲んでいられるのもそんな事情からである。
 ただし彼女にも、多少誇れる点はある。
 ネイは地方豪族の娘であり、現在の後宮においてはこれでもなかなかの地位にある。位で言えばネイは昭儀。千人を超す後宮の中でも、上から十番くらいの位置にいる。これは未だ若い新王と、不穏な王宮におののいて貴族たちが娘を出さなかった結果だった。
 今のところ、ネイは自分の境遇に満足している。後宮自慢の百合の園で、春風に吹かれながら心地よい午後を過ごすことができるのだ。
「いいえ」
 安らぐネイを否定して、丸い卓子を挟んで目の前に座るシャル・イー・リーがにらんだ。
「わざわざ田舎から出てきたのは、日々を退屈に過ごすためなんかじゃないわ」
 シャルは自分の姿を見せつけるように、椅子の上で胸を反らした。深紅の長衣に彩られ、シャルの美しい顔が映える。
「どうして国王陛下は、後宮に足を踏み入れようともしないの!?」
 またか、とネイは息を吐いた。
 国中の美女を集めた紫香宮、ではないことは先に述べたとおり。噂など所詮はそんなもので、ここは天上世界でも地上の楽園でもない。後宮にいるのは、他より多少見目の優れた女たちだ。
 ならば愛憎あふれる女地獄であるかといえば、そうでもない。ここの女たちはもっぱら愛も憎も溢れるほどに持ちえない。紫香宮ですることといえば、天気の良い日に外へ出て、茶会をしつつ愚痴をこぼし合うことくらいだ。
 目下の愚痴は国王陛下について。
 陛下は連日、政務も妻たちも差し置いて、市井に女を買いに出かけるらしい。はるか昔、至上最強の軍を率いて戦い、この太寧を打ち立てた初代王が聞いたら、なんと思うだろう。偉大な王の血筋は霧散し、平和な世の中で最強の軍隊は伝説となった。
 実のところ、ネイだって王の姿は遠目からしか見たことがない。おそらくは、この後宮の女たちみんながそうであろう。それでもネイに不満はないが、美貌自慢のシャルには耐え難いらしかった。
 シャルの髪はつやのある黒真珠だ。結い上げられた髪は、金の髪飾りよりも麗しい。身にまとう深紅の長衣の下には、豊かで張りのある肢体が隠れている。幼いころから染みひとつなかった体は、成長しても相変わらず当時のように滑らかだ。
 と、なぜネイが知っているのかといえば、シャルとネイが同郷だからである。同じ地方の貴族の娘同士、それなりの交流があった。退屈になると毎日顔を突き合わせ、こうして向かい合って茶を飲むほどに。
 ネイはシャルの一つ下、十七の年になる。その昔は、シャルの年に追いつけばいつかは自分も美しくなれるのだと信じていた。しかしいつまでたってもネイの髪は赤茶けた色のまま。食事に事欠いているわけでもないのに、貧相な体つきのまま。シャルと並び立ち、どれほど比較されてきたかわからぬ。
 どうせネイには、陛下の寵愛を賜ることは叶わぬ。シャルとともに後宮に上がったときから、それはわかっていた。だがシャルは違う。彼女は自分の美貌が、正妃にふさわしいものだと知っているのだ。
「陛下はいったいどこにいらっしゃるの」
 シャルのうなり声が、平和な花園の空気に溶けていく。
「いったい後宮の、なにがお気に召さないというの」
 さて、とネイは肩をすくめてやり過ごす。ネイにだってわからない。陛下は後宮どころか、国さえも顧みずに遊び歩いているのだという。
 太寧始まって以来の愚王。学はなく、武術の腕もなく、秀でているのは先王に似た容姿のみである。
 そんな評判を甘んじて受けるような男のことを、どうやって理解しろというのか。
 このままでは、今に国は滅びるだろう。
 ネイは心ひそかにささやいた。

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