<1>

 ネイは、後宮の誰よりも早く目覚めている自信がある。女官や後宮を守る女武官にも負けることはない。
 朝、日が昇り切る前には身支度を整え、ろくに髪を結うことも化粧もせずに飛び出すのだ。斜めに差し込む日は淡く眩しく、張りつめた空気が頬を撫でる。退屈で平和な後宮で、最も緊張の高まる時間だ。
「ネイ様!」
 足音を忍ばせつつ、後宮の中庭を横切っていたネイに、背後から鋭い声がかかる。
 見れば、ネイ付きの女官であるユーリンが小さな肩を怒らせていた。長い黒髪はきっちりと結わえられ、白い衣にはしわの一つもない。鳥さえも起き抜けと言う時間だが、几帳面なほどに身だしなみは整えられていて、やけに落ち着いた顔つきをしている。十五の歳らしくもない、隙のない出で立ちだ。
 これは待ち伏せされていたな、とネイは息をはいた。
「今日はまた、どちらへお出かけですか。いつもいつも黙って抜け出しては、品位を疑われてしまいますわ」
 疑われるような品位なんてあっただろうか、とネイは苦笑いを返しつつ思った。今でこそ取り繕ってはいるものの、田舎貴族なんて平民とほとんど変わらない。身の回りのことはすべて自分でしたし、自らの手で働いた。ろくな教育も作法も習わず、後宮に入る直前に無理やり教え込まされたものだ。王都の金持ちな庶民のほうが、よほど貴族らしい品格を持っているだろう。
 ユーリンは後宮に来てからついた女官だが、もうネイと顔を合わせて三年たつ。ネイの性格は重々承知しているはずだ。それでもいまだ、日課のように叱りに来る。
「私がいなくて困ることもないでしょう?」
「そういう問題ではありません。周りの者たちに知られたら、なんと言われるとお思いです」
 さあ、と首をかしげると、ユーリンは渋い顔で口を開いた。
「情夫のもとにでも通っているのではないかと、そう勘ぐられるのは必定。あなたは後宮の姫であり、陛下の妻であるのですよ」
「情夫なんてつくれるはずもない」
「周りはそうは思いません。それに陛下がお越しになられた際、ネイ様がいなくてどうなさいます」
 そもそも後宮にすらやってこない陛下が、よりによってネイを選ぶことはないだろう。そう思いつつ、ネイはからかうように、ユーリンに肩をすくめて見せた。
「そうしたら、ユーリンが相手をすればいいでしょう。私よりも美人なのだし、きっと陛下も満足なさるはず」
「な……っ!」
 ユーリンは一瞬にして体を固くし、わかりやすすぎるほど驚いた。半ば青ざめているようであり、その割に頬は赤い。感情を押さえようと歯を食いしばっても、ユーリンの照れと否定の混ざった表情はおさえきれなかった。
 女官という地位であろうと、後宮にいる限りは陛下に見初められることもあり得るだろう。しかしユーリンはあくまでも自分は仕える立場であり、主であるネイが后妃の座を得るべきだと考えているのだ。
 その固さこそが厄介で、そして扱いやすくもある。
「夜までには戻るよ。よろしくね、ユーリン」
 とっさに言葉の出ないユーリンにそう言い残して、ネイは中庭から逃げていった。

 ネイの行き先は、王宮のはずれにある賢老人(けんろうじん)たちの詰所だ。王室の意見係であり、影の権力者と噂される賢老人の集まるこの詰所は――実のところ、ただの茶会の会場である。
 ネイがひそかに見つけた後宮の抜け道から、詰所まではそう遠くない。しかし辺りは、優雅な藤や百合の咲く後宮と違い、野草のような菫に囲まれている。少し離れれば、桃と梅の小さな林がささやかに配置され、まるで王城とは思えないほどにのどかだった。
 詰所は一見、質素な庵に見える。仙人が住んでも違和感のないような、俗世離れした雰囲気があった。小さいとは言い難いが、そう大きくもない。扉は無防備に開け放されていた。
 ネイは一度辺りの様子を窺ってから、素早く詰所の中に忍び込んだ。
 内部は薄暗く、老人らしい枯れたにおいがする。扉から入ってすぐの両脇に、古い本が無造作に積まれ、奥に進むにしたがって増えていく。足元には何とも言い難い珍奇なものが散らばっていて踏み場もない。あのやけに古臭い、金の鎧はなんだろう。床に転がされている子供ぐらいの大きさの人形は、もしや以前より髪が伸びてはいまいか。壁際には、心を不安にさせるような半笑いの女の絵が斜めにかけられている。
 ――前よりも増えている。
 また国の金で無駄遣いをしたのか。賢老人とは聞いてあきれる。意見係と言いながら、実際には文句を言うばかり、金を使うばかり。それどころか、ひそかに私兵まで組織しているというのだから、国に対する負荷も甚だしい。
 それでいて、本人たちは大真面目に、自分たちが国を支えていると思っているのだ。
 ネイは肩をすくめて、足元に転がっていた陶磁の壺を蹴り飛ばそうとした。
「待て待て待て、それは遠き南方の島国から取り寄せたものでな」
 ネイがつま先で蹴り上げる直前、詰所の奥の扉が開き、あわてた声が止めに入った。
 飛び出してきたのは、白い豊かなひげを蓄えた老人だ。彼はネイの前で壺を拾い上げ、大事そうに抱きしめる。
「エンジ先生、今日もまた奇妙な格好でいらっしゃる」
 ネイは眉間にしわを寄せ、やけに窮屈な服を着た老人をにらんだ。裾のたゆまない固い生地の上衣に、袖から胸元から湧きだすような布のひだ。片手では杖を付き、頭には帽子と見紛うような白い巻き毛の鬘をかぶっていた。
 上から下まで眺めるネイに、老人はなぜか自慢げに胸を張る。瞳は子供の様に輝いていた。
「これははるか西にある国から取り寄せた衣装だ。なかなか面白い着心地でな」
「ははあ、またおかしなものに入れ込まれて……」
 ため息交じりにネイは言った。この怪人物こそが、賢老人がひとり、エンジ太師とはいまだ信じがたい。
「全くお前は、わしの弟子というのに生意気な態度だ」
「先生の悪癖にはほとほとうんざりですよ。むしろいまだに弟子であることに感謝していただきたい」
「お前は本当に素直で憎らしい」
 エンジはそう吐き捨てると、顔のしわをなおさら深くした。
「お前が後宮に来てから三年、女ということに目をつぶって弟子にしてきたがな、少しの感謝もしないとは」
 思うような反応が得られぬと、エンジはすぐさま機嫌を悪くした。年を取ると子供に帰ると言うが、エンジは格別である。彼の精神は、おそらく十歳児のまま成長を止めたのだろう。帰るどころか、成長すらしていない。
 ネイとて、エンジに感謝をしていないわけではない。ネイはどこをひっくり返しても、女という事実から免れられぬ。勉強をすることも、政治に携わることもできない。そんなネイに手を差し伸べ、思う様に政治学を教えてくれたエンジへの大恩はいくら薄情な性格といえども忘れられるものではなかった。
 しかし、ネイは黙っている。余計なことを言うと、この老人はどこまでもつけあがるのだ。
「後宮を抜け出し、勝手にこんな場所に入りびたりおったお前を受け入れてやったのだ。多少は恩を返そうとも思うべきだろう」
 エンジは壺を抱えたまま、ゆっくりと奥の扉まで歩く。そして扉の前に立つと、ネイに含み笑いを見せた。いやな予感しかしない。ネイはこうして、よく雑用を押し付けられるのだ。
「ここで一つ、わしへの恩を返してみないか?」
 エンジに招かれた部屋は、白い石壁と大きな窓のひときわ広い場所だった。窓のそばには、茶と菓子が無造作に置かれた長い卓子(テーブル)が置かれ、二人の老人が渋い顔で向かい合っている。象棋(将棋)をする賢老人たちだ。入口手前側に、すべての髪と別れて、つるりとした頭のシェン太傅(たいはく)。彼と向かい合うのは、対照的に豊かすぎる白髪を、結びもせずに床まで垂らしたツォエン太保(たいほ)だ。風と花びらとがらくたにあふれた詰所の、いつもの風景である。
 そこに、見覚えのない人物が一人いた。
 壁に背をつき、腰に一本の剣を携えた若い男だ。動きやすそうな飾り気のない服装をしているが、その生地と繊細な刺繍は王侯にも劣らぬ見事なものだった。色素の薄い髪は頭の後ろで無造作にまとめられ、鋭く隙のない瞳をエンジとネイに向ける。
 美しい男だ、とネイは思った。剣の切っ先のように美しく、油断ならない。見ている間に切り捨てられてしまいそうだ。 
「あれは、シーリィ。シィ丞相(じょうそう)の末子だ。実は先日、丞相にやつの教育を任されてしまってな」 
「教育?」
 壁にもたれる男を見て、ネイは顔をしかめた。丞相といえば、皇帝とともに政をとる、文官の最上位だ。男の年齢はおそらく二十前後。丞相の息子ともなれば、もうとっくに官吏として高い地位を得ている年ごろだろう。いまいち状況の呑み込めないネイの耳元で、エンジが男に聞こえないようにささやいた。
「シィ丞相は知っているだろう? あそこはずっと文官の家系だ。というのに、あやつだけは武官になると剣を振るい、政治を学ばなかった。それでついに痺れを切らして、わしのもとに送ってきたというわけだな」
「なれど、それと私とどういう関係が?」
 背の低いエンジを見下ろして、ネイが低くささやき返した。エンジは上目でネイを見つつ、長いため息を吐く。
「それが、まったくどうしようもない。お前が来る前に少し問答してみたんだがな」
 ろくな知識もなければ、やる気も見えない。相手にするのもばかばかしい、とエンジは嫌悪感をあらわに吐き出した。このエンジという老人は、向上心さえあれば女でも受け入れる一方で、誠意のないものには見向きもしない。それがどんな身分であろうとも、自ら関わりを持とうとさえしないのだ。
「そこでお前だ」
 エンジはネイの衣の裾を踏みつけて、猿のように黄ばんだ歯を見せつけた。裾を引いても足はぴくりとも動かない。逃さないと口よりもはっきりと言っている。
「恩返しとして、わしの代わりにあやつを教育しろ。さもなければ、二度と貴様をこの詰所には入れん」
「そんな横暴な」
「人に教えるというのも勉強だ。それにどうせ暇なのだろう? 陛下がお前の部屋に訪ねるわけもない」
 ネイは顔をゆがめ、自分よりも頭一つ小さな老人を見下ろす。老人はしてやったり、と壺を抱きしめながら笑った。
「不出来な弟子は二人もいらんのだ」
 壁際の男は黙ったまま、ずっと二人をにらみつけていた。


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