<1>
三年前のことを、マオは今も鮮明に覚えている。
兄弟たちを蹴散らして、自分が王となった日。後宮の女たちを、すべて追い出した日。母の死んだ日。
母の死にざまは、呪いのようにマオの記憶に焼き付いている。弱く、はかなく、優しかった母。あの人がどうして自分を王座に持ち上げたのか、マオはわかるようで、未だに理解できなかった。
今日の天気は、あいにくの曇り空だ。ここしばらく晴天が続いていたため、薄い雲に覆われた空は寂しい。太寧の王城に流れる空気もまた、現金なほどに寒々しかった。
寒い。
マオは外の世界から、自分を守るように体を抱きながら走っていた。たまらなく寒い、こんな日はユーリンに会いたい。
後宮を駆け抜ける、視線が痛かった。女たちが奇異の目で自分を見ている。滑稽だと思っているのだろう。まるで怯えた子供のような自分が。マオ自身でさえも思うのだ、自分がまだ幼かった頃に戻ってしまったように。
――ユーリン。
あの頃、なにかあるたびに母の元へ逃げ帰っていた。今はもういない。代わりに、ユーリンの元へ駆ける。
代わりに。
不意に出てきた思考に、マオは嫌悪感を覚えた。
――助けてくれ、ユーリン。
私は呪われているのだ、父と母の亡霊に。
弱り切ったマオが部屋に飛び込んだとき、ネイとユーリンは二人して、温かい茶を飲んでいた。外は暗く、肌寒い。梅の花まで色あせてしまったようだった。
「ユーリン」
声もかけずに入り込んだマオは、ユーリンの姿を見つけてつぶやいた。
「お願いだ、ユーリン。私の傍にいてくれ……」
「陛下!」
叫びながら、ユーリンは跳ねるように立ち上がる。マオの顔色を見たためか、逆に心配になるほどユーリンの血の気まで引いていく。
「陛下、いかがいたしたのですか!?」
ユーリンはすぐさまマオの元へ駆けよってきた。目の前でおろおろと心配するユーリンを、マオは迷わず頭から抱きしめた。
小さくて細い、母とは違う感触がした。
「へ、陛下……」
「私は」
マオは苦しみを吐こうと、絞り出すように声を上げた。かすれた小さい声だが、ユーリンが聞いてくれるなら十分だ。
「これでも三年間、王の座にいた。謀反の話も何度か聞いた。私の兄弟たちだ」
実際に、実行に移されることは、しかしほとんどなかった。無能な百公子についたところで、利益などほとんどない。束の間の頂点を味わったのち、国とともに倒れるのが運命である。ならば有能なシィ丞相の仕えるマオの方が、幾分かましというものだった。
「どうでもよかった。どうせくだらない女たちが産んだ、くだらない奴らだ。そんな兄弟なら、ひねりつぶしたって後悔もない。負けるはずもない」
しかし、とマオは首を振る。
「あの人だけは別だ。あの人は、父によって狂わされた。あれは王の罪だ、私が王である限り、絶対にのしかかってくる……」
「陛下、なにがあったのですか。なにが」
ユーリンは必死な声で、マオの胸を叩いた。か細い感触が、マオの全身に伝わってくる。
マオは喘ぐように息を吐くと、そのまま言葉を吐いた。
「シーリィが、私に謀反を企てていると」
「うそです」
切り裂くように、予想外の声が割り込んだ。少し離れた場所で様子をうかがっていたネイが、今は立ち上がってマオを凝視している。
「あれがそんなことできるはずありません。そんな頭もない」
「シーリィを知っているのか?」
マオは想定外のネイの反応に目を見張った。いつ、どこで知り合う機会などあったのだろうか。ネイは後宮から、気軽に出て行ける身ではないというのに。
いや、そんなものどうでもいい。ネイが誰を知っていようが、事実は覆らない。
「誰がそんなこと言っていたのです」
目を逸らし、再び暗い思考に落ちていくマオを、ネイは呼び止めるように尋ねた。
「エンジ太師ですか」
「なぜ知っている」
いったいこの女は何者なのか。心底驚いたマオだが、一方でネイもまた驚愕の表情を浮かべていた。
「……あのジジイ」
ぽつりとネイが、口汚くつぶやく。クソジジイ、とマオも心の中で罵る。
「知らせたのは、ツォエン太保だった」
マオは背の低い、憎らしい笑みを浮かべた老人を思い返していた。
ツォエン、シェン、エンジ。賢老人はどれもこれも、いやらしい含み笑いを浮かべた姿で思い出される。いつだって腹に一物を抱えつつ、のらりくらりと言葉を募る。母が死んだときもそうだった。
「シーリィが謀反を企てている。シィ丞相も、忠臣達も、みなそちら側についたのだと。武力を整えたら、いつ攻め込んでくるかもわからぬと」
「それで、逃げてきたのですか!」
否定する言葉はなかった。
ネイの言うとおり、逃げて来たのだ。ほんの短い、ツォエンの言葉から。シーリィの謀反という事実から。
「いつ攻め込んでくるかわからないというのに、投げ出してきたのですか!」
激昂するネイは珍しかった。どこか焦っているふうにも見える。マオは他人事のように、ぼんやりと思った。
「シーリィが謀反をするはずがない。それはツォエン太保の虚言です――ならば、陛下がここへ逃げ込むことこそが、目的のはず」
ネイは女性らしくもなく、乱雑に頭をかいた。
「先生たちはなにをするおつもりで? シーリィはなぜ利用されたのです。わからない……先生たちはどこに……」
声を荒げた分、気持ちはわずかにも整理がついたのだろうか。ネイは長い息を吐くと、マオもユーリンも見ないまま、扉の前まで歩いて行った。
「どこに行くおつもりです?」
ユーリンがマオの腕の中で、もがきながら言った。必死で縋り付くマオの腕からは、抜け出そうにも抜け出せないのだろう。
「心当たりの場所に」
ネイは言いよどむようにあいまいに答えた。
「陛下、できればすぐに城へお戻りください。あの人たちのことです、たぶんすぐにでも、行動に移してしまっている」
そういうと、ネイはそのまま早足で部屋を出て行った。
本当は、後を追うべきだったのかもしれない。自分の立場を顧みれば、こうして部屋に残されて、呆然としているわけにはいかないのだ。自分は王なのだ。なりたくもない王なのだ。
「陛下」
抱きしめられたままのユーリンが、また胸を叩いた。動かない自分を急かしているのだろう。臆病で、弱くて、情けない。ユーリンはそう思っているはずだ。
「陛下。私には、なにがあったのか全然わかりません」
マオの腕の中で、ユーリンは悲しげに言った。見上げる瞳は、マオの心までものぞき込もうとする、真摯なものだった。
「どうか私に、教えてください。陛下はどうして、そんなに苦しんでおられるのですか? 私も知りたいのです。陛下のその、泣き出しそうなお顔の原因を」
ユーリンは窮屈そうに体を動かして、なんとか片腕を持ち上げた。それを、そのままマオの頬に当てる。
固くこわばった頬に、ユーリンの指先がひやりと冷たい。
本当に、泣いてしまうのではないかと思った。