<2>

 昔から、マオは弱かった。
 兄弟にいじめられたとき、父の後宮の女たちに蔑まれたとき、泣いて母親の元へ逃げたものだ。母もまた、そんなマオを優しく受け止めて、叱咤するようなことは決してなかった。
 マオが弱いのと同様、母も弱かったのだ。
 マオの母は、その身分だけで先王の正妃となっていた。先王はひたすらに節操なく、女たちを渡り歩く。一人に愛情を傾けることもなければ、誰かを気に掛けることさえなかった。
 自分が正妃でないことが、女たちは面白くなかったのだろう。正妃の息子であるというだけで、マオが王になるということが、兄弟たちも面白くなかったようだ。
 後宮の女たちは、母に陰湿ないじめを繰り返していたらしい。気に入りの衣が裂かれたこと、大事にしていた茶器が割られたこと、あからさまな無視と、聞えよがしの罵り言葉を、マオは幾度となく垣間見た。母は何も言わない人だったから、このときのマオは気がつかなかった。これがいじめの、ほんの片鱗にすぎなかったこと。
 そうでなければ、ああも狂うものか。
 マオにとっての救いは、シィ丞相だった。のちの王になるだろうマオの教育係となったシィ丞相は、何も言わない母の代わりに叱って、咎めて、ほめてくれた。父親などいないに等しいマオにとっては、シィ丞相が父だ。
 シーリィに会ったのも、そのころだ。細身で背も低く、剣の腕もからっきしだったシィ丞相に対して、シーリィはがっしりとした武人の体つきをしていた。当時はまだ、十五にも満たなかっただろうが、その腕も大人には負けることがない。マオはシーリィを兄のように慕い、後を追いかけては剣を教えてもらっていた。
 マオにとっての父はシィ丞相、兄はシーリィ。本当の父も、たくさんいる腹違いの兄弟も、すべては有象無象に過ぎない。
 こうして、ただ慕っていられた頃が、一番幸せだったかもしれない。

 父が死んだ。
 町の娼婦と遊んでいたときだったらしい。それを聞いても、マオには何の感慨もわかなかった。やはり、とそのくらいは思ったかもしれない。
 だが、母は違ったようだ。
「次はあなたが王になるのよ、マオ」
「……母上?」
「あなたが太寧の名を継ぐの。マオ、マオ・タイニン。素敵ね」
 微笑んだ母は、死人のように白い顔つきで、欠けていく月に似た美しさだった。
 後継者として、様々な名が挙がった。兄弟と自分の名前も挙がった。その中に、シーリィがいた。
 ――シーリィ?
 王の子として、シーリィの名が呼ばれていたのだ。
 これは事実を知った後、人づてに聞いた話だ。睦まじい夫婦として評判の、シィ丞相とその夫人。すでに三人の子をなしていたが、夫人の麗しさは衰えず、母としても女としても凛とした美貌を誇っていた。そこに目を付けたのは、獣のような父だった。側近であるシィ丞相の妻であるにも関わらず、その寝所に忍び込み強引にことをなす。夫人はその後、心を病んだと聞いていたから、おそらく相当に乱暴だったのだろう。
 そしてできた子が、シーリィだという。
 聞いたとき、マオは底なしの闇に落ちていく気分だった。足元が何もかも消えていく。あのとき慕ったシィ丞相は、夢中で追いかけたシーリィの背中はなんだったのか。全部、うつろな夢のような気がした。
 呆けたまま、マオの王位継承が決まった。正妃の子として、シィ丞相があくまでもマオを推したのだ。自分の子――いや、自分の育てた子を置いて、マオを王に据えた。
 母が死んだのはその日だった。母は床の上にその肢体を投げ出し、まるで笑っているかのような表情だった。
 嬲り殺されていた。体中を傷つけられ、首を絞められていた。よくよく見れば、その体には古い傷跡がいくつも残っていた。治りかけの傷と、ふさがったまま消えない傷が無数に、衣の下に隠されていたのだ。
 後宮の女たちの仕業であることは、すぐに分かった。ついに殺したのは、自分が王位についたからだろう。
 マオは王として初めての命令をした。後宮から、すべての女を追い出すように。
 そして逃れられない王座でやさぐれ、気づけば父のまねをしていた。王座を厭い、憎みながらも執着する。王でありたくなどないと言いながら、私は王だと叫んでいた。シィ丞相にも、シーリィにも、どんな顔で会えばいいのかわからなかった。



 ため息を吐くと、マオは頭を振った。こびりついた記憶は、いくらふるっても落ちない。
「母は、いつか私を王にするためだけに生きていたのだろうな」
 だから離れられない。王座は母の墓標だ。そして、罪のありかだ。
 シィ丞相とシーリィへの罪は、玉座に座るマオに受け継がれた。父と母から受け継がれた、唯一のものだ。
「陛下」
「唯一母に優しくしてくれたのは、女官たちだったんだ」
 不安げに瞬くユーリンに、マオは微笑んだ。
「あの人たちに、ユーリンは少し似ている。目つきは、ちょっと母に似ている」
 だから、見かけたときに思わず声をかけた。懐かしい面影を見た気がした。優しい人たちと、母たちの姿を。
「へ、陛下」
 ユーリンは腕の中で首を振ると、悲しげな声を上げた。マオの思考を遮ろうというようだった。
「私は、陛下のお母上様ではありません。もしかして、陛下に優しい言葉をかけることもできないかもしれません」
「ユーリン?」
「陛下のお話を聞けて、私は大変うれしく思います。陛下のお気持ち、少しでも触れることができた気がして」
 饒舌なユーリンは珍しい。うまい言葉を考えることもできぬまま、思った様を口に出しているように見えた。
「私では、陛下の心の奥底をくみ取ることはできないかもしれません。ですが、でも……シィ丞相様と、シーリィ様お二人を思う陛下のお心は……」
 ああ、とユーリンはうめいた。言いたくても伝える言葉がわからないらしい。ユーリンは泣きそうな瞳でマオを見つめると、言葉の代わりに両腕を伸ばし、マオの体を抱き返した。
「陛下、陛下のお慕いするお二人を、信じてください。愛しているのなら、目を背けないでください。よく考えて、お二人は陛下を裏切るような方でしたか?」
「私は、恨まれても仕方がないと……」
「では、では陛下は今、裏切られた今、お二人を恨んでいますか?」
 マオは少し悩んだ。このまま殺されるかもしれない。シーリィが王座に就いたとき、マオはなにを思いながら死んでいるだろうか。
「……恨めない」
 身を裂くような悲しみはあれども、そうしてまた恨み返すことはできないのだ。シーリィはマオにとって、今でも兄のような存在なのだから。
「シィ丞相様もシーリィ様も、同じです、きっと。そんなふうに陛下を育てたお人なんですから」
「ユーリン」
「戻りましょう、陛下。私はお母上様のように、優しく受け入れることはできませんけれど、一緒について行くことならできます」
 ユーリンは抱きしめていた腕を離し、再びマオの胸を叩いた。それに押されるようにして、マオもユーリンを離す。
 目の前に立つのは、小さなユーリンだ。母にも誰にも似ていない、強い光を瞳に宿していた。

 部屋を出ようと扉を開けた瞬間、二人はこちらへ飛び込んでくる一人の女に気がついた。きらめく黒い髪と、光沢のある白い衣をまとった、目を見張るような美貌の女だ。ユーリンはその顔を見て、高い声を上げた。
「シャル様!」
「ユーリン、ああ、ネイを知らない?」
 シャルと呼ばれた女は、両肩で息を吐くと、ユーリンを見た。次いで、隣のマオを見て目を見開く。
「……リーフェイ?」
「なに?」
 自分のことを指して呼んだのだとは分かった。しかし、誰の名だ。
「リーフェイじゃ、ない?」
「私はマオだ」
 言い切ったマオに、ユーリンが付け加えるように言う。
「シャル様、この方は国王陛下にございます」
「陛下!?」
 シャルは甲高い叫び声をあげると、無遠慮にマオを見回した。上から下まで、探るように眺められれば、気分もあまりよくない。不機嫌な思いでシャルを睨むが、シャルは自分の考えに夢中らしく、気がつかない。
「……似てるわ」
「シャル様? ネイ様にご用事があったのでは?」
 ユーリンが首を傾げながら、シャルに問いかけた。言われてようやく、シャルは「ああ」と思い出したように言う。
「そうなの、大変なのよ! ああ、ネイはどこ?」
「ネイ様は今、出かけていらして……何かあったのですか?」
「あったのよ!」
 シャルはユーリンに顔を突き出すと、興奮した様子で叫んだ。
「反乱がおきたって、王宮に兵が攻め込んだって噂なの! 王宮には今、陛下が政務をとっていらして……」
 シャルの言葉は最後まで続かなかった。はっとしたように、マオを見上げる。
「……へい、か」
「その、王宮にいるという私は何者だ?」
 マオのつぶやきを拾うように、シャルは小さく息を吐いた。
「……リーフェイ、まさか」
「シャル様、心当たりが……?」
 ユーリンが恐る恐る尋ねるが、シャルはそれに応えなかった。口元を強く結び、眉を怒らせる。誰かに対するふつふつとした怒りを湧き上がらせているようだった。
 マオはシャルの様子に、少しためらってから声をかけた。
「私たちは王宮に向かうところだ」
 ネイの言うとおり、すぐにも事が起こってしまった。今はもう、危険な王宮へ。
「お前も来るか?」
 シャルは迷わずにうなずいた。その様子が、どことなくネイに似ている気がした。



inserted by FC2 system