<1>

 ネイが向かうのは、賢老人の詰所だ。そこにあの狸どもがいるとは、もう思っていない。だけど何かあるはずだ、なにか。
 後宮の抜け道から、賢老人の詰所まではほど近い。雑多な木々に隠れたこの道は、どうやら城下の裏通りまで通じているらしい、と賢老人から聞いたことがあった。しかしあの老人たちが、はいつくばって壁を抜け、藪と木々に肌を刺されるこんな抜け道をなぜ知っているのか。自分たちで使うはずはない、となると、この抜け道は彼らによって作られたものではないだろうか。
 なんのために、とはネイは思わない。享楽主義の老人たちが、ほんの気まぐれにでも作ったのだろう。
 狭い藪の中からはい出ると、詰所の裏の桃の木林に出る。木々の合間から詰所の姿を確認すると、体中にまとわりつく枝葉にも気を払わず、ネイは駆け出した。
 詰所の様相は一変していた。あの気だるく呑気な気配はない。茶の香りもなければ、談笑もない。床一面に広がるがらくたたちは踏み荒らされ――そして、血のにおいに満ちていた。
 あまりに濃い血の気配に、ネイはよろめいた。しかし、これは惨劇の後ではない。人の気配がする、物音はなく、荒い息遣いが聞こえる。
 ネイは頭を押さえつつ、奥の間へ向かった。いつも、老人たちが茶会をしていた、ネイ自身が何度もそこに足を運んだ場所である。
 血のにおいは、そこから来ていた。

 奥の間の戸を開けたが、ネイには中に踏み入ることができなかった。息をのみ、吐き気を押さえながら、しかし目をそらすこともできずにその有様を眺めた。
 足の踏み場もない、いくつもの死体と流れ出る血。もとの床の色は見えない。そこに倒れた死体は、まるで赤い湖に浮かんでいるかのようだった。
 死体は一様に、黒い装束をまとっていた。見えるのはうつろな瞳だけ。流れ出る血の跡さえ、黒に紛れて分からなかった。
 この者たちを、いつか見たことがあった。あのとき、彼らを地に伏したのも同じ。部屋の中央でただ一人立ち、息を整える男。
「シーリィ……」
 ネイが呼びかけると、シーリィはちらりと視線をよこした。その横顔も、血をかぶって赤い。
「……ネイ、俺にはよくわからない」
 疲れた様子のシーリィは、血まみれの剣を重たげに持つ。あれで、ここに転がる者たちをすべて切ったのだ。しかし、そんな鬼神のようなシーリィの声は、なにかに縋るように弱い。
「賢老人に久しぶりに呼び出された。近頃は、用事があるからと追い返されるばかりだったのに。大事な話があると聞いた。だが、来てみれば誰もいなかった」
 緩慢なしぐさで、シーリィは自分の衣で剣の血をぬぐおうとした。しかし、どこも血まみれでぬぐい取れない。息を一つ吐くと、シーリィはそのまま剣を鞘に収めた。
「この部屋へ入ると、黒装束の奴らがいた。待ち伏せをしていたのだろう。倒しても、何人も現れた」
 以前、賢老人たちを襲った者たちと同じ集団だろう。どうして彼らが再び現れたのか。まるで賢老人が、シーリィを誘い込んだような形なのはなぜだろう。考えるほど、ネイには彼らと賢老人がもとより手を結んでいたのだと、思わざるを得なかった。
「賢老人はどこへ行った? どうして俺はここに呼び出された? 俺の頭では、考え付かない」
「シーリィ」
 ネイは少しためらってから、血に浸された部屋へ足を踏み入れた。
 水たまりを踏み歩く感触に、ネイは足元から震えあがる。そうしてシーリィの前まで来ると、安堵の息とともにその姿を見上げた。
「シーリィ、あなた、陛下に謀反を企てたことはありますか?」
「ない」
 一寸の躊躇も、質問への疑問もない。シーリィの返答に、ネイは苦笑する。
「やはり、老人たちの虚言ですね。ならば、目的は別のところに」
 シーリィを王位につけようとしていたわけではないだろう。逆にこの様子では、シーリィを邪魔者と見ていたに違いない。シーリィを弑し、マオを王宮から追い出し、その隙に別の者を王位に据えようとしたのか。
「ネイ、どういうことだ?」
「ツォエン太保から、あなたが謀反を企てていると進言があったそうです」
「…………まさか」
 シーリィは顔をしかめたが、血まみれのままではその表情がわからない。なんとなく歯がゆくて、ネイは自分の衣の裾をつかみ、シーリィの顔へ手を伸ばす。
「ネイ?」
「そんな顔では、外も歩けないでしょう」
 シーリィの顔をぬぐいながら、ネイは言った。袖が血を含み、少し重みを増す。服も変えさせたいが、そんな余裕はさすがにないだろう。
「シーリィ、私は王宮に行って確かめたいのです。あの人たちが、なにを考えているのか」
 そして、できれば止めたい。師の不始末は、弟子の責任でもあるのだ。
「案内してください、シーリィ。私は後宮の外を知らないのです」
「…………わかった」
 シーリィはネイを見つめながら、深くうなずいた。

「聞いても良いですか?」
 詰所を出ると、ネイは足早に王宮に向かうシーリィを追いかけながら言った。シーリィにこびりついた血の跡は黒く変色を始めていた。普段なら悪目立ちするであろうシーリィの姿だが、しかし今は呼び止めるものはなかった。
 城に人の気配がない。文官や武官、侍従たちはもちろんのこと、反乱軍の気配さえもない。争った痕跡も見えない。
 賢老人の策略だろうか、それとも王の武人ともあろうものが、蜘蛛の子を散らすように逃げ出したのだろうか。マオの軟弱さでは、どちらもありうると思ってしまう。
「陛下とあなたの関係について。陛下は、まるであなたを恐れているようでした」
 返事のないシーリィに、ネイはさらに言葉を継ぐ。シーリィは振り返らず、ぴくりとも反応せず、淡々と足を進めた。
「王である限り、あなたへの罪を感じる、と」
「陛下の罪ではない」
 シーリィは断ち切るように言った。
「俺が罪なのだ」
「言ってよいですか? シーリィ」
 傷つける言葉だろうか、とネイは考えた。しかし口を開いた以上、黙っていることは不可能だ。尋ねておきながらも、ネイはシーリィの許可を得ないまま言葉を続ける。
「あなたは、シィ丞相の子ではありませんね」
 シーリィの歩みが、少し早くなった気がした。
「先王の子なのでしょう? だからあなたが謀反を起こしたと虚言を吐ける。陛下も恐れられる」
「……俺は、一族の恥だ」
 恐らく、シーリィは先王と丞相の夫人との、不義の子なのだろう。だからこそ、自分自身を恥と思う。生まれたこと、存在自体を罪と思うのだ。
「そんな話がしたいのか?」
 続けざまに、シーリィが吐き捨てるように言った。ネイの好奇心を満たすために、半ば勘付いていた事実を突き付けたのか、と。
「いいえ」
 ネイは振り返らぬシーリィに、首を振った。
「私が知りたいのは、その先です。――シーリィ、私には、先生たちはあなたを王位につけようとしているように思えたのです」
 ここしばらくの悪巧みは、このことだったのだろう。マオを廃して、新たな都合の良い王を立てよう、と。唐突になにを思ったのか、それとも昔から計画していたのか。つかみどころのない老人たちの考えは、ネイには想像つかなかった。
「以前、あの黒い者たちが襲ってきたとき。先生たちはあなたの力を探ろうとしていたのではないかと思います。あの者たちなら、先生たちの首など簡単に刎ねられるでしょう。けれどあなたが来るのを待っていた」
 初めから、彼らは老人たちの手の者であった。そうなると、毒の出どころもあの老人たちだろうか。ネイはうんざりとする。
「あなたは彼らの目に適った。そう思っていました」
 しかし事実は違う。シーリィは罠に誘われ、王宮にはおそらく、別の誰かがいる。
「ネイ、俺には事情が全く分からない」
 シーリィは前を向いたまま、あきらめにも似た声を出した。考えることは放棄したのだろう。いかにもシーリィらしい。
「だけど一つだけ、お前より知っていることがある」
 シーリィは、そこでようやくネイを振り返った。ほんの一瞬、ちらりと鋭い瞳を向けると、再び前を向く。
「俺を王位につけたかったのはシェン太傅だけだ。三人、全員が同じ考えではない」
「……ああ」
 そうか、とネイはつぶやいた。
 だから混乱させられているのだ。今回のことは、決まった流れに沿って動いているわけではない。計画性も、あまりないのだろう。
 これはきっと、遊戯なのだ。三人の老人たちが、太寧を盤に見立てて駒を動かす象棋(将棋)。自分たちはそれに振り回され、泣き笑い、うろたえているに過ぎない。
「あの、老害ども……!」
 無意識に口から出た言葉は、なによりも正しく老人たちを表しているだろう。



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