<2>

 さて。
 エンジが空気を断ち切るようにそう言うと、シェンとツォエンが頷いた。彼ら三人の賢老人たちの前には、大ぶりの杯が置かれている。中にそそがれるのは、遠い西方の国から取り寄せた、紫の酒だ。太寧の王の色、この国を丸ごと飲み干すようで面白い。
「今頃若い者どもは、右往左往しているのだろうな」
「なにが起こっているのやら、ここにいるわしらにはちいともわからんがな」
「誰が生き残り、誰が死ぬのやら。次の御代は荒れるぞ」
「わしらの腕の見せ所だな」
「ふふん。わしらとな」
 シェンの言葉にエンジが微笑む。
「そうとも。わしらは先代のまた先代まで、この国を支えた賢老人だ。次代の皇帝が誰になろうがそれだけはかわらぬ」
「うむ」とツォエンが同意した。
「誰が王となろうと、恨みっこなし。それがこの遊びの前提だった」
「そうだったな」とシェンがようやく固い頬を緩めた。
「わしら三人、互いに意見が合わず、反発することもあった。それほど仲が良いとも言えなかったが――意外に似た者同士だったな」
 老人たちは互いに顔を見合わせると、にっとしわだらけの顔をゆがめた。
「さあ、結末は高みの見物といこう。あとはわしらが、この酒を飲み干すだけ。太寧を飲むのだ」
 所詮、国など手のひらの上にある。そこに暮らす、人も王もみな、自分の思う様に操るのだ。
 傲慢な老人たちは、よく似た笑みを浮かべながら、一斉に杯をあおった。

 ○

 慣れたはずの宮殿が、まるで誰か別の人間のものになってしまった気がした。
 マオはユーリンとシャルを連れ、人気のない王宮を歩いていた。三人の足音が石の床に響く。
 城を流れる空気は、刺すように冷たい。大きな門は開け放されたまま、衛士も立っていなかったのだ。入口の門から、まっすぐに伸びる通路の奥まで、風が吹き抜ける。
 とりあえずは、執務室に向かおうと思っていた。謀反の話はもともと、マオが政務に手を出すわけでもなく、ただ罪悪感に打ちひしがれながら座っていた執務室で、シェン太保から聞いたのだ。
 執務室は王宮の二階にある。通路の奥を抜けて、階段を上った先だ。マオたちはそこを目指して、両脇に赤い柱の並ぶ広すぎる通路を歩いていた。
 どうして、これほど静かなのか。
 柱の影にも、左右に並ぶ文官たちの部屋にも、人の気配はなかった。衛士も官吏も、侍従の一人だってない。
 ――謀反と聞いて、逃げたか。
 仕方がない、とマオは思う。王としての自分に、命を懸けるだけの価値はない。逃げたのなら、それはそれで致し方ないことだ。
 ことが収まっても、逃げ出した家臣たちの罪は不問にしよう。そう考えて、マオは苦笑した。
 ――私はそれでも、王でいるつもりなのか。
 長くはないため息をついたとき、マオの耳に剣戟の音が響いた。同時に高い叫び声が、空虚な宮殿に響く。
「陛下……!」
 ユーリンが音を探してあたりを見回した。反響する音は、宮殿の奥から聞こえてくる。
「謁見室か!」
 いったいこの先で何が起こっているのか、マオにはまだわかっていなかった。自分の城で、誰が、何の理由で、何をしているのか。
 わからないからこそ、マオは駆け出した。

 謁見室は、この建物では一番大きな部屋だ。意味のない扉と小部屋をいくつも抜けた最奥にある。謁見室への道のりの長さと、部屋の大きさこそが王の威信を表すのだ。と言っても、今のマオにはもどかしいだけだった。
 部屋の前にたどり着いたときも、まだ悲鳴と剣の音は止まなかった。マオはついてきた二人の女に振り返ると、声を潜めた。
「この先には、私一人でいい」
「……へ、陛下、いいえ、私も」
「私は、そなたたちを守りぬける自信はない」
 今のマオは、身一つ。剣の一本さえもない。よしんば持っていたとしても、幼いころにシーリィから習ったのちは、ろくろく振るったこともない。
「そなたたちを危険に遭わすわけにはいかない。いくら頼りない王とはいえ、女たちを見殺しにするわけにはいかぬ」
「それなら、どうして連れて来たのよ」
 この状況においても、シャルは背筋を伸ばし、よく響く声を高らかにあげた。マオはぎょっとして口をふさごうとするが、シャルはそれをするりと避け、謁見室の戸に手をかける。
「私の身は、私自身が守りますわ。なんであれば、陛下の身もお守りします」
 シャルはつんと澄ました笑みを浮かべると、迷うことなく扉を開けた。
 いまだマオ自身の覚悟さえできていないのに、なんと豪胆な女だろうか。
 感嘆と呆れの念は、しかし今はすぐさま消した。開かれた扉から、一層の悲鳴が聞こえてきた。

 地に伏すのが、数少ない自分の忠臣であることに、マオはすぐに気がついた。扉のすぐそばで、うずくまるようにして倒れているのはシィ丞相だ。
 マオはすぐさまひざまずいて、丞相の体をゆすった。反応は返ってこない。ただ、微かに聞こえる呼吸の音から、死んではいないことだけが確認できた。
「シィ丞相……」
 ぼやけた自分の声をかき消すように、剣戟が響いた。
 マオはふらりと立ち上がる。やけに自分の衣が重いと、目を落としてみると、膝が赤く濡れていた。それが血であると理解するのに、マオは少し時間がかかった。
 謁見室は血に彩られていた。石床に、まだ鮮やかな血の色がぬらりと光っている。その上を踏み荒らす黒装束の男たちと、彼らと剣を打ち合う臣下たち。逃げているのは、剣を振るえない文官だろうか。黒装束の男たちは、ただ逃げる者にさえ剣を振り上げる。目をそむける間もなく、マオの前で肉が切られ、血が飛び散った。
 玉座には一人の少年がいた。謁見室を見渡せる、一段高い場所に置かれた、金で装飾された王座。マオが座るはずの場所に、足を組み、深く腰を掛けている。まるで自分が王であると言うように。
「リーフェイ!」
 シャルが叫んだ。横目で見やると、シャルはマオと同じく玉座を注視していた。横顔に、驚きと怒りが滲んでいる。
「なにやってるのよ! 馬鹿じゃないの! あんた馬鹿じゃないの!?」
 シャルは玉座に向かって、大股に足を踏み出した。彼女の足が血の溜まりを踏み、赤い飛沫を上げた。しかし彼女は構わず、玉座に顔を上げたまま唇を噛む。
「シャル、どうしてここに」
 少年――リーフェイは驚いた様子で口を開き、すぐに首を振った。
「いや……卑怯だね。君を連れてくるなんて、本当に卑怯だね、王様」
 黒い男が一人、武官を切った。別の武官が一人、黒い男の剣をはじいた。そうして互いに減っていく。しかし、黒い男たちの方が、まだ多い。
「あんた、自分だけ助かろうと思ったの? それでシャルを連れて来たの? あんたが逃げ出したから、こうしてたくさんの部下が死んだっていうのに」
「どういうことだ……?」
 全容が見えない。マオには、リーフェイの言う言葉が理解できずにいた。
 どうして臣下たちが倒れている。どうして戦っている。黒衣の男たちは何者で、リーフェイと言う少年は何者?
「わからないのか」
 リーフェイはあざ笑うようにそう言うと、玉座から立ち上がった。まだ少年らしい、伸びかけの体つき。服装は質素で、ともすればみすぼらしいともいえる。腰には不釣り合いな剣を差す。その顔つきは――。
「同じ男の子供でも、母親の身分だけでこうも違うものなんだな。王になれる奴もいれば、ごみの中で生きなければならないやつもいる」
「…………お前」
 顔つきは――まるで昔の自分を見ているようだった。母を亡くしたころの、自分と同じ姿、同じ顔。髪の長さと日焼けした肌の黒さだけが、自分とリーフェイの違いだった。
「私の、弟……?」
 マオの微かなつぶやきに、リーフェイがにこりと笑う。そこからうかがえる苛烈な感情に、マオは背筋を寒くした。自分自身に向けられた、深い深い憎悪が見える。
「王様、そろそろ代わってくれよ」
 リーフェイの声は軽く、その分だけ凄みがあった。
「あんた、王様なんていやなんだろ? やる気ないんだろ? なら、俺に代わってくれよ。大丈夫、こんなに似ているんだからばれないよ」
「なに…………?」
「入れ替わるんだよ。今度は俺が王様になる。――あんたと、あんたと俺の両方を知っている奴さえいなくなれば、誰も気がつかないよ」
 それは――。
「陛下を弑して、自分が成り済まそうというのですね」
 唐突に、別の声が割り込んできた。
 背後に現れたのは、ようやく追いついて来たらしい、ネイ。それと。
「シーリィ……」
 マオは、長いこと逃げ続けてきた、慕い上げる兄の姿を見つけた。
「シーリィ、私は……」
「余計なことは後で考えろ」
 シーリィは叩き落とすように言うと、正面から王座を見据えた。手は剣の柄に当てられる。その手、頭からつま先まで、剣の鞘までも血にぬれていた。
 ――何があったのか。
 いや、今は考えるまい。ただ、シーリィが今は味方として傍にいる。それが何よりも心強い。
「賢老人にそそのかされたのですね」
 ネイは離れた王座を見上げて、強い口調で言った。
「シーリィを逆賊に仕立てるつもりだったのでしょう。謀反を企てたシーリィと、シーリィの側についたシィ丞相や、その部下たち。今この場で亡き者にしてしまえば、誰にもわかりませんからね」
 そして、マオ自身も殺して、何食わぬ顔で玉座に座るのか。
 おそらく、自分の名前を使って家臣たちを呼び出したのだ。王として、呼び出す方法などいくらでもある。こと、忠臣だけを集めることは簡単だ。シィ丞相を通せば、信頼できる者たちだけに声がかかる。
 マオにとって信頼できる者。それは、リーフェイにとってはもっとも危険な者だ。
 あのとき。
 ツォエン太保から話を聞いたとき。
 逃げ出しさえしなければ、この惨状を防ぐことができたのだ。
 シィ丞相は、剣の腕はからきしだった。年ももうずいぶんと取っていた。きっと逃げることしかできず、扉の前で切られたのだ。
 シーリィは自分の父が倒れていることに気づいているだろう。内心は、ひどく焦っているに違いない。それでも前を向くことができるのだ。
「そうだね、よくわかったね、すごいよ」
 リーフェイが笑いながら、ネイに拍手を送った。
「だけど無意味だ。だってあんたたちはここで死ぬんだから!」
 剣戟の音は止んでいた。黒い男たちが、マオの家臣をすべて切り捨てたのだ。
 黒い男――賢老人と聞いて、マオにはかすかに思い当たるものがあった。
 私兵を組織している、と遠く耳にしたことがある。大昔、物語の中で聞かされたのだろうか。心のない、感情のない人形のような者たちで集めた軍がある。かつて太寧を平定したときに、王が使役したと言われる伝説の軍だ。賢老人はその残りを集め、自分の兵として使っている、と。
 彼らがそうであるかはわからない。しかしそのうつろな瞳には、微かな感情さえ見えなかった。はたして、マオたちを人として捉えているのかそれすらも危うい。
 男たちは十人ほど、今度はマオたちに一斉に体を向けた。マオは男たちの冷たい視線から目をそらさず、傍に落ちていた誰かの剣を拾った。懐かしい感触に緊張しながらも、女たちをかばおうと前に出る。
「死ねよ、王様!」
 リーフェイの叫び声を合図に、男たちは一斉に襲い掛かってきた。
 四方から攻める男たちを、マオは必死に剣でかわした。傍ではシーリィが、ともに戦ってくれている。シーリィの剣捌きは相変わらず見事なものだったが、マオには見とれている余裕もなかった。
 背後に誰かをかばったまま、剣を振るうのは初めてだ。大きく振り回してはいけない。後ろに逃げてはいけない。正面から落ちてくる剣は、自分の体で防がなくてはいけない。
 誰かを守るために、剣を握るのは初めてだった。
 男たちの剣は素早く、いくらも打ちこまれる。防いでも次は、別の一撃が来る。反撃のいとまが見えない。動きの流れが見えない。
 右手から伸びてくる男の細い剣を、マオは使い慣れない剣でなんとか弾いた。次の瞬間、正面から、左手から、同時に二人の剣が振るわれた。
 右には、体勢を直した先ほどの男がいる。ユーリンのいる背後には、逃げるわけにはいかない。同時には――防ぎきれない。
 息をのむマオの前で、左手の男が切り落とされた。
 横から剣が伸びてきた――いや、シーリィだ。それだけを確認すると、マオは両手で正面の男の剣を受け止めた。思い切り弾くと、男の手から剣が飛んだ。
「シーリィ!」
 助かった、そう言おうとして、シーリィの様子がおかしいことに気付く。
 舌打ちをすると、シーリィは黙って剣を収めたのだ。
 その視線の先は、マオの背後に。マオは恐る恐る、その先を見た。
「……ユーリン」
 黒い男の一人が、ユーリンの首に腕を回し、剣を突き付けていた。
 先ほどの一瞬、シーリィがマオの助けに入った。そのわずかな間に抜かれていたのだ。
 男たちは動きを止め、シーリィは顔をしかめたまま、ユーリンを捕える男を睨む。ユーリンは愕然と目を見開き、それから次第に瞳を潤ませた。
 マオもまた、構えていた剣を力なく垂らした。自分は、どれほど無力なのか。シーリィに守られて、守るべきユーリンは守れずに。
「大人しくしろよ、王様。大人しく殺されるんだ」
 玉座で嘲笑うリーフェイを、シーリィがにらんだ。意識的にか無意識にか、その手は再び剣の柄に伸ばされる。
 殺意のこもったシーリィの視線に、リーフェイは顔を強張らせた。
「その女が、どうなってもいいのか」
 ユーリンを締め上げる黒い男に、リーフェイは手招きした。男は黙ったまま、ユーリンを引きずってリーフェイの傍にゆく。うう、と微かにユーリンがうめいた。
「シーリィ……ユーリンが」
 マオは顔をしかめると、力なく首を振った。連れてくるべきではなかった。そうとわかっていたのに。
 シーリィはマオを見、ネイにちらりと視線をやった。ネイもまた厳しい表情で首を振る。
 シーリィは短く息を吐き、肩の力を抜いた。今のシーリィは、まったくの無抵抗だ。
「本当に、あんたは馬鹿だよ。女一人のために、この国は終わるかもしれないんだ」
 ――ユーリンのために、この国は終わる。
 もはや、マオには抵抗のすべはなかった。たとえこの身を貫かれようと、ユーリンを見殺しにすることだけはできない。
 どうしてこうなってしまったのか。
 答えは一つ、すべて自分のせいだ。
 何もできない、何もしない、ただ恨まれるだけの王だったからだ。
 ――王になどなりたくなかったのに。
 望む望まないにかかわらず、いつだって、王であるという事実がマオの前に大きく現れるのだ。
「馬鹿はあんたよ!」
 煩悶するマオの霧を払うかのように、ひときわ高く、鋭い声が上がった。
「黙って聞いてれば、おかしなことばっかり言って。リーフェイ!」
 シャルが、あらわな感情をそのままに叫んでいる。彼女の言葉には、恐れや不安よりもまず先に、怒りがある。
「王になるって? あんたが? こんなことをして、いったいどんな王になれるっていうのよ」
「シャル……」
 リーフェイは面食らったように目を丸くしてから、わずかに目元を緩めた。笑顔と言うには、やけに歪みすぎていた。
「女を人質にして、無為に人を殺しているのよ。それで、陛下を攻める言葉があるつもりなの? あんたに王になる資格があるっていうの?」
「シャル、あいつだってたくさん人を殺した。あいつが何もしないせいで、たくさん人が死んだよ」
「あんたが人を殺さない王になるって、誰がわかるのよ」
 シャルは大きくかぶりを振ると、強く両手を握った。おさえきれない怒りに混ざって、悲しみが顔をのぞく。悲しい。理由はおそらく、リーフェイのことが理解できないからだ。
「少なくとも陛下は、目の前のユーリンを殺したりはしないわ」
 リーフェイも同じように、シャルに理解されないことが悲しい。作り損ねた笑顔で、肩をすくめて見せた。
「もしもここにいるのがシャルでも、見捨てないと思うの?」
 マオははっとして、シャルに目を向けた。
 もしもこの場で、ユーリンではなくシャルが捉えられていたら?
 ついさっき出会って、ほんのわずかだけ行動を共にしたシャルが、今この場で捕えられていたら。自分は同じように無抵抗に、殺されるのを待つことができるだろうか。
 この国と、王と、シャル。天秤にかけたとき、どちらに傾くのだろうか。
「見捨てないわ!」
 マオの悩みなど馬鹿らしいほど、シャルははっきりと叫んだ。
「陛下は私を見捨てない。私はそう信じているわ。信じられるから、陛下は私にとっての陛下なのよ」
「……シャル」
 ああ、とマオは喘ぐ。
 こんな人がいるから。自分を見捨てない人間が、まだたくさんいるから。
 マオはまだ、捨てられない。諦めきれないのだ。
「シャル」
 リーフェイはもう一度だけ、ひどく優しくつぶやいた。
「こればっかりは、君とはわかりあえないんだね」
 ふ、と息を吐くと、リーフェイは重たげに剣を引きながら歩き始めた。動かないシーリィの脇を素通りし、まっすぐにマオの元へ向かう。濡れた石床の上で、リーフェイはぴちゃりと気味の悪い足音を立てた。
 振り上げれば剣の届く位置で、リーフェイは立ち止った。そしてマオと視線を合わせると、氷のように冷たい表情を見せる。
 表情を否定することは、マオにはできない。自分はできの悪い王だった。
「死んでもらうよ」
 剣の切っ先がきらめく。それはマオの首を裂こうと、鋭く滑らかに走った。
 死を覚悟した。だけど、まだ死にたくないと思った。
「陛下っ!」
 視線の脇で、ネイとシーリィがこちらへ飛び込んでくるのがわかった。自分をかばおうというのだ。
 しかし、それよりも早く、真珠のような黒髪が目の前に広がった。衣をはためかせ、マオの前にシャルが躍り出る。
「シャル――!!」
 声を上げたのは、もはや誰かもわからなかった。
 リーフェイは反射的に剣を引こうとするも、勢いは止められない。その剣は重みをそのままに地面に振り下ろされ、シャルを胸から腹にかけて裂いた。シャルの白い衣が破れ、切り口から血がにじみ出す。まるで花開くかのように、シャルは赤く染め上げられていった。
 シャルの体が崩れ落ちる。マオの目の前で、中空に血の滴りを残しながら、赤い床に伏した。
「シャル!」
 ネイが真っ先に駆け寄って、シャルの肩を抱き上げた。
 傷はそう深くない。跡は残るかもしれないが、すぐに治療をすれば、命にはかかわりないだろう。
「シャル、シャル……ああ、なんで!」
 泣き出しそうなうめき声は、リーフェイから出たものだった。逃れるように数歩後じさり、青ざめた顔でシャルを見下ろしている。
 シャルの傷は、浅い。
 ――なのに、リーフェイのこの表情はなんだ。
「毒か!」
 シャルを抱きかかえたまま、ネイが叫んだ。
 毒?
 ネイの言葉に、リーフェイは肩を震わせる。それが肯定の証だ。おそらく、剣に毒が塗られていたのだろう。リーフェイの様子を見る限り、それは確実に死に至らしめるもの。
 ――ならば、ここで伏している家臣たちも、まだ息のあるシィ丞相も。
「シャル……どうしてこんな男をかばったんだ……!」
 リーフェイが大きくかぶりを振り、非難がましく叫んだ。逃げたい、否定したい思いが、マオにも伝わってくる。
「…………あんたが」
 苦しげなうめき声が、静まり返った広間に響いた。ネイに抱かれたシャルが、微かに身じろぎする。
 シャルは痛みに顔をしかめながら、リーフェイをにらみつけていた。毒の効果はまだ出ていないようだが、とくとくと流れ続ける血は、シャルの命を削り出していた。
「あんたが馬鹿だからよ」
「…………あいつが王様だからか?」
「違うわ。たとえ陛下が陛下でなくとも」
「王だから守ったんだ。そうでなければ、かばう必要なんかないだろう?」
「違う! リーフェイ、聞いて」
「そうでなくとも!」
 シャルの声を断ち切るように、リーフェイは声を荒げた。
「あいつが王でなければ、シャルがここにいることもなかった。シャルが俺に切られることもない。俺が王なら、シャルにかばわれるようなまねはしない!」
「リーフェイ!」
 叫んだ拍子に、シャルの喉から咳が出る。ひどく乾いた、不自然な咳だった。息苦しさに口を押さえると、シャルはそれ以上言葉を発することができなくなった。
「シャル、喋るな」
 ネイが顔をしかめながらシャルをのぞき込んだ。
「傷口から直接毒が入ったんだ。毒の回りがはやい」
 それはつまり、シャルの命がもう短いということだ。なによりもそのことを理解しているリーフェイは、ぐっと唇をかんだ。
「王様」
 冷ややかな声だったが、その顔には自嘲気味な笑みを浮かべていた。
「少しだけあんたの気持ちがわかったよ。……少しだけね」
 わずかに視線を落とすと、リーフェイは剣を収めた。そして黒い男たちに顔を向けると、短い命令を発した。
「俺はその女を連れて戻る。お前らは手を出すな」
 黒い男たちは黙ってうなずくと、それぞれが武器を収めて足を引いた。リーフェイは捕えられたユーリンの元へ行き、男から奪う。
「ユーリン!」
 マオの声に、ユーリンが泣きそうな目をむける。不安に震えて、言葉もないようだった。
「女に弱いのは俺も同じだ……それほどこの女が大事なら、あんたに機会をやる」
 リーフェイはユーリンを抱えながら、低い声で言った。
「あんたがたった一人でこの女を助けに来るなら、他のやつらは生かしておいてやる。もしも誰かを連れてきたり、余計なことをしようものなら、すぐさまこの女を殺す」
 ユーリンのうるんだ瞳が、マオの目に映る。その怯えた表情に、マオの全身が震える。恐れではない――今すぐにでも助けに行きたい、それができない。今マオが動けば、リーフェイはユーリンを殺すだろう。それがわかっているからこそ、何もできない。この感情は、焦りと悔しさと――怒りだ。
「俺が王になる資格はないとシャルは言った。……それなら、あんたが王である資格があるかどうか、俺が試してやる」
「リーフェイ」
「たった一人で追いかけて来い。――あんたが少しでも、王の自覚があるのなら」



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