<4>

 心当たりは、一つだけあった。
 謁見室を出ると、ネイはシーリィを見上げた。
「梅の花を見に行くと言っていたのです。本当か嘘かはわかりませんが」
 だが、嘘ではないだろうとネイは思う。遊び好きで傲慢な老人たちのことだ。こうしてネイに手掛かりを与え、悩むさまを見て楽しもうとでも考えているだろう。
「先生たちなら、きっと一番に梅の花の映える場所にいるでしょう。しかし、私はやはり、後宮以外の場所を知りません。……シーリィ、思い当たる場所はありますか?」
 シーリィはネイをちらりと見ると、少し驚いたように目を見開いた。
「知らないのか」
「はい?」
「一番美しい梅は、賢老人の詰所から見える」
 まさか。
 ネイはシーリィの血に塗れた全身を眺めてから、口の中で呟いた。
 賢老人の詰所は、シーリィが切り捨てた死体に満ちているはずだ。血肉に汚れた地面には、足を踏み入れる場所さえない。
 そんな場所で哄笑する、三人の老人たちの姿を思い浮かべた。彼らの深い皺には、血と欲が刻まれているに違いない。もはや人ではない。化け物か、妖怪の所業だ。
「行きましょう」
 ネイは重たいため息を吐くと、シーリィにそう声をかけた。この場から賢老人の詰所までは、元来た道を戻ればいいだけのことだ。


 詰所からは変わらず、血と死の気配がした。周囲には確かに大きな梅の木が生えていて、濃い紅の花が色づき始めていた。朝から雲が多く、薄暗いこの空の下では、しかし鮮やかなはずの梅の色も重く、どことなく不吉な印象を与えていた。
 中へ足を踏み入れると、血のにおいに混ざって、強い酒の香りが漂ってきた。
 ああ……。
 シーリィとここを出たときには、そんな香はなかった。血まみれの詰所を、ネイとシーリィが二人で出て行った後に、誰かが酒の香とともに入り込んだのだ。
 最悪だ。最低の予想通りだ。
 ネイは心を平静に保とうと、深い呼吸を繰り返すと、意を決して奥の間に向かった。
 ――奥の間、いつもの老人たちの茶会場。珍品を自慢し、象棋を指し、甘い菓子と茶に酔いしれる。世捨て人たちの、あまりにも呑気な空間だった。
「先生」
 ネイは低くささやいた。
 開け放された窓からは、時折風と共に花びらが舞い込む。エンジは窓際の丸机の前に座り、愉快そうにそれを眺めていた。机の上には三つの杯と、倒れた細長い瓶がある。瓶の口からは透き通る赤紫の水が、とくとくと流れ出ていた。強い酒の臭いがする。
 エンジの両隣りには、シェンとツォエンがうつぶせていた。一見、酔いつぶれたようにも見える。
 悪鬼たちの宴だろうか。ネイは目を逸らしたくなる光景に、息をのんだ。
 血だまりの中で、血のような酒を滴らせ、エンジは微笑んでいる。そこだけはいつもと変わらぬ、詰所の日常のようであった。
 風が吹くたび、外から澄んだ空気が入り込む。血のにおいに慣れてしまいそうなネイの鼻を、あまりにも微かな花の香で呼びさます。
 ネイは今日、何度目かわからない眩暈を感じた。
「ネイ」
 エンジは優しい声でネイの名を呼んだ。なぜ笑っていられるのか、ネイには理解できない。
「ネイ、お前は存外、首を突っ込みすぎた」
「先生、お二人は……」
「どうしたのかのう」
 ほほ、と枯れ枝が震えるように、エンジは笑い声をあげた。
 シェンとツォエンが、ただ酔って眠っているだけとはさすがに思えなかった。二人の傍には、同じ杯、同じ酒。血のにおいと、死のにおい。
「毒を盛ったのですね。先生、毒の出どころはあなたか」
 ネイは喘ぐように息を吐いた。
「なぜ、こんなことをしたのです。なぜ」
「わしらはのう、勝負をしていたのだ」
 国を巡る、実に壮大な勝負だった。愉快に笑むエンジに、ネイは嫌悪感を覚えながらも頷いた。
「わしら三人、一人ずつ、王とするべきものを選ぶのだ。邪魔なものを消しながら、探り合いながら、わしらはその者を玉座へ導いていく。そうして誰かが王となり、誰かが勝者となる」
 エンジは目を細めながら、杯を手にした。赤紫の澄んだ酒を、味わうようにちびりと飲む。
「わしは勝つために、邪魔なものを消しただけだ。別に勝負をする側を、排除してはいかぬという規則はあるまい」
 これは賢老人たちの遊戯。互いの知恵を競い、その先にある勝利に酔いしれるための。
 シーリィの力試しをしたシェンと、リーフェイに力を貸したツォエン。どちらも黒い男たちを駒とし、毒を与えていた。三人に与えられた道具は同じ。条件が同じだからこそ、老人たちは夢中になる、勝利を渇望する。
 シェンとツォエンは、あくまでも遊んでいるだけのつもりだった。他人の命を賭けながら、自分たちだけは別の場所に立っているとでも考えていたのだろう。
 だから、毒を盛られるとも思わずに、杯をあおった。そして今、机の上にうつぶせたまま動かない。
「なあ、ネイ。わしが誰を選んだかわかるか?」
 ネイは首を振った。もう聞きたくない。
「先生、解毒をください。持っているのでしょう?」
「まあ聞け、ネイ」
「聞いたら解毒をくれるのですか?」
「さあのう」
 エンジはとぼけたように言った。
「毒と解毒は二つでひとつ。自分でさえも消せない毒は、誰も用いないでしょう?」
 エンジが毒を使っていたのは、おそらく自分だけは死なぬと、絶対の自信を持っていたからだ。賢老人の傲慢さは、弟子のネイ自身よく知っている。自分だけは死なぬ、自分だけは惑わされぬ、自分だけは、他の者と違う。そう思いながら、シェンとツォエンは倒れた。
「ネイ、お前はよく考える。よく頭を巡らせる。そういうところを、わしは気に入っている」
 エンジは数日前までの日々を思い出すように一度目を伏せ、その視線をゆっくりとネイに向ける。意外な熱意のこもった瞳に、ネイはたじろいだ。
「だからこそ選んだのだ、お前を」
「私を――王にしようと?」
「なりたかったのだろう?」
 こともないようにエンジは言う。老人の慧眼は、いったいネイのどこまで見抜いているのだろうか。女でありながら、所詮は田舎貴族の娘で、それ以上の何者でもない身でありながら、密やかに願っていた。
 ――自分が王になれば、どんな国が作れるだろうか。
 誰よりも物事を見通し、最善を尽くす自信があった。どこよりも豊かな国を作れると思った。この傾いた太寧を、再生したいと考えていた。
「お前のために道を切り開いてやろうと思ったのだ。古い王家の血はいらない。凝り固まった垢のような老人たちはいらない。そうしてすべてをなくしてから――お前の作る国を見てみたかった」
「…………先生」
 夢を見る子供のように熱く語るエンジに対し、ネイは静かに口を開いた。
「この国の王は、決まっています」
 ネイの頭には、頼りなかった一人の男の姿が浮かぶ。誰かに守られ、心を支えられ、自分一人では何もできない。そのくせ――誰も死なせたくないなどと無茶を言う。
 その軟弱で、しかし強い願いを叶えてやりたくなる。
「マオ・タイニン陛下のほかに、王となるべき者はいません」
 エンジはほんのわずか、呆けたようにネイの顔を見つめた。言葉を考えるように、繰り返すように口を動かす。声はなく、ただ動かすだけ。
「……なにを言っている」
「私は王になりません。なり得ません」
「あんな者が、王になど」
「陛下は王であり、それ以外の何者でもありません」
 わからぬのならば、いかに優れたエンジの慧眼も、そこまでと言うこと。
「先生」
 ネイは冷ややかにエンジを見下ろした。血の溜まりの中、血のような酒を飲み、仙人にでもなった心地でいたのだろう。エンジも、賢老人たちもみな、年を取った人間に過ぎないというのに。傲慢さは、自分の姿さえ見えなくするのだ。
「あなたもすでに、勝負に負けているのですよ」
 エンジはぽかんと口を開け、理解できぬというように首を振った。
「わしが、誰に負けたと? あれが王だと? ネイ、お前はなにを言っている」
 なぜ負けた。なぜネイは王になろうとしない。なせ、負けなければいけない。なぜ、なぜ、なぜ? エンジの心は、わかりやすいほどに透けて見える。
 年を取りすぎると、子供に戻ってしまうものなのだろうか。ネイにはエンジの姿が、自分の思い通りにいかず、だだをこねる幼子のように見えた。
 これ以上、紡ぐ言葉は見つからなかった。長く師事していたエンジに対し、今もネイは尊敬と感謝の気持ちは忘れない。
 しかしこの瞬間ばかりは、失望を禁じ得なかった。
「ネイ」
 突然、黙っていたシーリィがネイの前に出た。
「こうした方が早い」
 血に満ちた部屋の中で、水音を立てながらエンジの前まで行くと、そこで血まみれの剣を抜いた。
「見苦しい」
 剣はエンジの首の皮を、少し裂いた。シーリィは剣に、新たにエンジの血を垂らしながら言った。
「解毒をよこせ。さもなくばこのまま首を切り落とす」
 明確な殺意に、エンジは喉の奥をひくつかせた。



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