<1>

 剣を習ったことなどなかった。
 学を受けたことなどなかった。
 路地裏に生まれ落ちて以来、リーフェイは誰にも教えを受けたことはない。知っているのは母の冷たい腕と、数えきれないほどの恨み言だけだった。
 リーフェイの母は、小さな商家の娘だった。容姿にも能力にも秀でたところのないような、ごく平凡な女だ。城下の別の商家の元へ嫁ぐことも決まり、同じく平凡な男の妻となろうとしていた。
 そんな彼女の人生は、先王のほんの気まぐれで一変する。いつ、どこで出会ったのかはリーフェイも知らない。ただ、母は結婚を目前に違う男の子を孕み、そして産んだ。
 婚約は当然破棄された。実家からも勘当され、彼女は行き場を失って、この薄暗い裏通りに流れ着いたのだ。
 ――あなたのお父さんは、この国で一番偉い人なのよ。
 ――あなたは本当は王子様なの。
 ――あなたは王になれるはずなのよ。あの人が言っていたの、いつか私を妻にして、あなたを迎え入れてくれるって。
 ――王子様はあなたなのよ。王になるのは、本当はあなたなのよ。
 母はたった一つ、すがるように一本の剣を抱えていた。王から受け取ったのだと、何度もリーフェイに話した。この剣があなたの証。この剣が、王の証。
 雨の降る寒い日に、リーフェイの母は死んだ。冷たく固くなって動かなくなった。たしかリーフェイが、十になったばかりのときだ。
 リーフェイに残されたのは、数多の母の洗脳めいた言葉と、一振りの剣。そして先王によく似た容姿だけだった。
 以降、リーフェイはひとり剣を振り、学を求めた。裏通りには同じく捨てられ、何かを失った孤独な子供たちが集まってきた。彼らはリーフェイを慕い、リーフェイもまた彼らをかわいがった。
 冷たい地下で身を寄せ合い、雨をしのぎながら誓った。
 ――いつか、俺が救ってやる。
 ――この暗い世界から、温かな場所へ導いてやる。
 ――俺は、王子様なのだから。
 それが、はじまりだったのかもしれない。

 同じ地下に、剣戟が響く。一度、二度と剣を交えるたびにリーフェイは理解する。
 マオの剣は流れるように隙がない。定められた、能率の良い太刀筋を知っているのだ。
 ――怠惰な王のくせに……!
 何もしないくせに、ただ王と言うだけで一流の剣を習った。それがリーフェイにはたまらなく憎い。
「ユーリンを返せ!」
 咆哮とともに振り下ろされる剣を、リーフェイは強く歯を食いしばりながら止める。
「返せと言われて返すものか!」
 力任せに剣を弾き返すと、リーフェイは叫んだ。
「お前は、シャルを返せと言われて返せるのか!」
「返す!」
 マオの即答に、リーフェイの剣がびくりと震えた。毒に倒れたシャルは、どう考えても助からないというのに。
「私が王である限り、誰も死なせない。ネイとシーリィが応えたのだ。必ずシャルは助ける!」
「……できもしないことを!」
「できる! そう信じることも私の役目だ!」
 ――ふざけたことを!
 リーフェイは両手で剣を握りしめた。怒りと憎しみで、前すらも見えない気がした。
 苦労知らないマオの言葉を、誰が信じられるものか。
 華やかな温室で育った男の戯言に耳を貸すことはできない。
 この剣で。
 次こそ殺してやる!

 リーフェイは体中から声を張り上げると、力任せに剣を振り上げた。
 負けるものか負けるものか負けるものか!
 俺は王になるのだ。
 そのために生まれて来たのだ。
 何を犠牲にしても、シャルを犠牲にしてまでも!
「王は……!」
 マオがリーフェイの剣を待ち構える。
「王とは、みなを守る者だ!」
 二人の剣が交差する。打たれ、打ち返し、地下中に響き渡る金属の叫び、耳鳴りのようなその音は、いつまでも止まない。
 ――どうしてこんな男が、自分と同じだけの力を持てるのだ。
 リーフェイはマオの剣を受けながら考えた。疲れが出はじめたのかもしれない。息が上がり、余計な思考ばかりが巡る。
 ――雨風に打たれながら、憎みながら、何度もこの剣を握ったのに。
 無意味だったのだろうか。所詮は、庶民の女が産み捨てた子供。何かを望むだけ、絶望が返ってくるのか。
 何も望まなければよかったのか。ここでただ、のたれ死ねば。
 ――シャルが死ぬことも、なかったのに。
 思考が途切れたのは、正面からのマオの剣に気付いたからだ。両手で握りしめ、芯から力を込めた剣を、リーフェイはとっさに防いだ。だが高い金属音が響いたとき、その剣ごと打ち砕かれるような、そんな気がした。
 はっと我に返ると、リーフェイは自分の手に剣がないことに気がついた。
 マオに弾き飛ばされたのだ。リーフェイの剣は床を転がり、壁際に落ちていた。
「…………おう、さま」
 見れば、マオはリーフェイ以上に消耗し、肩で大きく息をしていた。リーフェイは彼に負けたのだ…………意思の力で。
「ユーリンを返せ、リーフェイ」
「…………」
 リーフェイは唇をかむ。悔しい。素直に、ただ悔しい。
 負けたというその事実、言い訳も何もなく、受け入れてしまう自分が悔しいのだ。
 力なくしてうなだれるリーフェイに、マオは少し疲れた瞳を向けた。しかし立ち止まる暇はないとばかりに、剣を携えたままユーリンに向かってゆく。リーフェイは黙ってそれを見送った。
「――動くな!」
 唐突に聞こえたのは、マオでもリーフェイでも、ましてやユーリンでもない者の声。
 部屋の隅で行く末を見守っていたライシィの声だった。
「動くな、変なことをしたらこいつを傷つけるぞ!」
 ライシィはいつのまにかユーリンに短剣を突き付けていた。その手がかすかに震えている。しかし、その瞳の色は強い。
「認めないぞ。兄ちゃんが負けたなんて! 兄ちゃんが負けるもんか!」
「……ライシィ」
 リーフェイは眉をひそめると、咎めるようにライシィをにらんだ。
 確かにリーフェイは負けたのだ。甘っちょろくて情けない、何もできないと思っていた王に。どれほど悔しくとも、認めたくなくとも、それは事実だ。
「ライシィ、やめろ」
「兄ちゃん! だけどこのままだと、兄ちゃんは捕まっちまうんだよ!」
 リーフェイの重罪が咎められないはずがない。少なく見積もっても斬首刑だろう。
「覚悟していたことだ」
 それとも報いだろうか、とリーフェイは思った。シャルに手をかけた報い。刑に処されてシャルを追いかけられるなら、それも悪くはない。
「兄ちゃん。兄ちゃんがなんと言おうと俺は引かないぞ。――おい、王様! こいつを殺されたくなかったら兄ちゃんを逃がすんだ!」
 震えるライシィの短剣が、ユーリンの喉に当たる。冷たい金属の感触と、手元の定まらない剣の揺れ。ライシィの剣先は、すう、と意図せずにユーリンの首に細い傷をつくった。
「ユーリン!」
「やめろライシィ!」
「う、う、動くなあっ!」
 ライシィは、赤く染まった自分の手元に気がついていない。リーフェイの声さえも届かず、がむしゃらな瞳は狂ったようだった。
 ユーリンが怯えた顔でマオを見ている。しかし、うかつに動くこともできなかった。ライシィの剣はユーリンに近すぎる。マオの動きひとつで、すぐにでも切り落としてしまうだろう。
「へ、陛下、私のことは……」
「黙れっ」
 ひっ、とユーリンが喉を震わせる。マオは動けないだろう。単身、自分の命も顧みずにユーリンを助けに来たくらいだ。ライシィが引かないのならば、リーフェイを見逃してもユーリンを助けることを願うはず。
 リーフェイもまた、その場から動けずにいた。そうしてまた逃げて。逃げて、ライシィやここの子供たちはどうなる。大罪人リーフェイを逃した罪で罰せられるのか。
 逃げるわけにはいかない。リーフェイは唇を噛む。立ち竦むマオとリーフェイを、ライシィが涙交じりの目で睨んでいた。張りつめた空気に鳥肌が立つ。せめて剣が奪えれば。せめて、ライシィの瞳を一瞬でも逸らせれば。
 過ぎていくこの時間が、永遠に感じられた。 


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