<2>

「シーリィ?」
 ためらいがちに呼びかけたネイに、男は無造作に視線を投げた。男の瞳は冷たくも無感情で、平和な茶会場である賢老人の詰所が、ここだけ戦場になったような気分がした。春風さえも極寒の地に吹く風のように感じる。
 なんだこいつは、と思いつつも、ネイは男の前に立ち、両腕を前に合わせて礼をした。仮にも丞相の息子、礼を尽くさねば首が飛ぶ。というよりも、今すぐに男の剣で切り捨てられる気がした。
 しかし恐れてばかりもいられない。仮にも師であるエンジから言いつけられたのだ。いや、押し付けられたのだ。
「私はネイ。賢老人エンジの弟子です」
 男は――シーリィは相変わらず冷徹な無表情だったが、さすがに次の言葉で表情を変えた。
「師の命で、あなたに学を教えることとなりました。この先、私のことは先生と」
「……なんだって?」
 目を見開き、確認するようにシーリィはネイの姿を眺めた。乱れた長髪にろくに整えていない簡素な袍という、女にあるまじき姿ではあるが、性別の上では確かに女だ。
「女がいったい何を教えるというのだ」
 吐き捨てるように言うと、渋面をつくる。うむたしかに、とネイは心の中でうなずいた。一般的に女というものは、男よりも教養がないものだ。女がするべきことは、炊事洗濯裁縫など。それすらも、ある程度の身分があれば覚える必要もない。下女たちがすべてこなしてくれてしまう。
 しかしネイは違う。身についた知恵も知識も、そこらの男たちよりも豊かだという自負がある。そう、少なくとも――。
「あなたよりは、多くのことを知っているのではないかと」
 親に反発して武官になりたいと思うような、不出来な二世の男よりは。ネイは嘲笑を押し隠しつつも、隠しきれない笑みを伴いそう言った。
 直後、後悔した。
 シーリィはネイの表情を無感情な瞳でうかがいつつ、ゆっくりと剣の柄に手をかけた。あまりに自然な、何気ない動きだったために、ネイはその剣が鞘から半身抜かれるまで気がつかなかったほどだ。
「ま、待て待て待て。待ちなさい」
 春の陽光に反射して、白い刃がきらめく。その不穏な光に、ネイはあわてて声を上げた。
「そんな簡単に剣を抜いていいのですか。あなたは女一人に剣を振るうのですか」
「構わん」
「構わないわけないでしょう。私を剣の錆として、不名誉となるのはいったい誰だと思います」
 無表情のままシーリィの動きが止まる。剣の柄に掛けた手は離さず、わずかに眉間にしわを寄せてネイを見下ろした。
 自分の言葉に反応したのか、しないのか。わからないが、ネイは今度は慎重に言葉を選ぶ。
「その剣は誰のために振るうのか。何のために振るうのか」
 抜きかけた剣に怯えつつ、表面上はあくまでも冷静を装いながらネイは言った。
「生意気な女を切るためのものなのか、それとも自らの主に捧げるのか。あなたはいまだ、それすらもわからない」
 シーリィは顔をしかめるだけで、それ以上剣を抜こうとはしなかった。意外にも、ネイの言葉を聞いていたらしい。口先八寸、身を守るのは剣の腕だけではないな。ネイは安堵の息を吐く。
 この男、想像以上に単純である。
 だからこそネイも命の危険にさらされたわけだが、一方で操りやすくもある。とにもかくにも運が良かった。
「あなたの剣が誰のものであるか。私が知る限りのことを教えましょう」
「……しかし」
 さすがに納得しかねるシーリィに、ネイは衣の裾を引き、自分でも寒々しいほど女性的な笑みを浮かべて見せた。
「無為に剣を抜いた、その非礼の詫びとして、話を聞くこともできないのですか?」
「…………」
 シーリィはついに黙って剣を収めた。不気味に光る剣身が視界からなくなり、どれほどネイがほっとしたかをシーリィは知らない。
 ネイが感情を隠した薄ら笑いを浮かべていると、そそそとエンジが寄ってきた。そして相変わらず衣の裾を踏みつけて、ネイの顔を見上げて口の端をゆがめる。ネイの荒ぶる内心は、この食えない老人にはお見通しなのだ。
「よくやったぞ。詰所の奥の間で、みっちりと教え込んでくるがよい」
 はあ、とネイは曖昧模糊とした声のみで返答とした。一つの失言で剣を抜く男。生きて教育を終えられる気がしなかった。


 〇


 詰所から出たネイは、一生分の体力を使い果たしたような心地でいた。
 ――まるきり、自分の勉強もできなかった。エンジ先生からも教えを受けることができなかった。
 その代わり、あの武人まがいの男のために、必死になって知識を植え付けた。それというのに、どれほどやつの頭に入ったのかは想像もできない。明日になったら、すべてを忘れているのではないだろうか。
 シーリィという男、あれほど単純な思考回路をしているだけあって、頭の中も単純だった。知識という知識を、いったいどこに置き忘れて来たのか。言葉を介することができるのが不思議なほど、ものを知らない。これがかの有名な賢人、シィ宰相の倅だとはいったい誰が信じられようか。
 明日、とネイはつぶやいた。明日も来るように、とエンジはネイに言い含めた。これから毎日、シーリィは賢老人の詰所に教えを受けに来るのだという。
 いったいいつまで。一人前になるまで? そんな日は、永遠に来ない。
 とぼとぼとした足取りで、ネイは後宮奥へと帰っていく。空は太陽の赤い尾が残り、東の端からは黒い夜がのぼって来ていた。
 春の夜は、存外に寒い。
 ネイの心は、なおも落ち込むのだった。

 出ていった時と同様に、ネイはそっと自室に忍び込む。慣れ親しんだ自分の部屋の空気を感じると、ネイはようやく息をはいた。西日が射しこむ飾り気のないネイの部屋、どこからともなく、菫の香りがする。
「ネイ様……」
 部屋の奥から、とろとろとふやけたような声が聞こえた。自室の気配に安心していたネイは、不意の声に飛び上がるほど驚いた。
 あたりを見回すと、窓の下で卓子にうつぶせる人影が見える。夕日が、質素な衣とつやのある黒髪を照らし出す。いったいどのような侵入者であろうかと、近づいてよくよく眺めれば、頭をもたげたユーリンだった。どうやら寝ぼけているらしい。
「ネイ様……今日はどちらに行かれて……」
「ユーリン」
 うなされるユーリンの肩に手を当て、ネイは優しく声をかけた。
「心配かけてごめんなさい。帰ったよ」
「ネイ様」
 そうとだけつぶやくと、ユーリンは穏やかな寝息を立てた。それを見てネイは苦笑いを浮かべる。まったく、ユーリンはネイの帰りをずっと待っていたらしい。
 本当に融通の利かない娘だ。そのくせ主人の部屋で無防備に眠るなどと、間が抜けている。これがネイの部屋でなければ、うかつな女官はあっという間に後宮を追い出されているだろう。
 ネイは毛布を取ってきて、ユーリンの肩にかけた。そこで初めて、ユーリンがうずくまる卓子の上に、菫の花が活けてあることに気がついた。
「これは……ユーリンが?」
 ネイは頬を緩めて、菫の花を見下ろした。きっとユーリンが摘んできたのだろう。が、よりによってこの花とは。
 菫。
 濃い紫の高貴な花びらを広げて、菫は風に揺れる。
 ――紫は、王家の色。紫の花は、王の花。
 摘み取ることは禁忌。王家に連なる者たちと、許可を得た医者だけがその紫を摘むことができる。もちろん厳密にそんな命令を守る者はほとんどいないが、少なくとも王城にほど近い紫香宮では、誰に見られているかもわからぬために、決して手を伸ばすことはない。
 ――うかつすぎよ。
 ネイは菫から目を離すと、ユーリンの頭を少し撫でた。



inserted by FC2 system