<2>

 少年はリーフェイと名乗った。王都の裏通りをねぐらとする浮浪児らしい。
 リーフェイは、シャルの部屋で着替えをさせられていた。水差しで顔を洗わせて、汚れた服を捨てると、シャルが見繕った女物の衣を不器用に身に着けていく。灰色と深い青を基調とした、ゆったりと余裕のある服だ。リーフェイの体つきを隠すための配慮だが、シャルよりも長身の彼には体にぴたりと合ってしまう。
 シャルはその間、ずっとリーフェイに背を向けていた。顔も見ないままに無遠慮な質問をぶつけ、リーフェイは言葉を選んで慎重に答えた。それでも、ずいぶんとリーフェイは自分のことを話した、とシャルは思う。
 リーフェイは王都外れにある、裏通りに住み着いている。表通りであれば中心から外れの方でも、商店や住居の立ち並ぶにぎやかな場所だ。対照的に裏は廃墟にも似た、薄暗くさびれた場所だという。
 そこには、親に捨てられた子供たちが、まるで物のように詰め込まれている。誰が始めたのか知らないが、町の女たちは決まってそこに子供を捨てるのだ。子供たちは裏通りの影で、家族のように寄り添って暮らしている。
 リーフェイはそんな子供たちの中の一人だ。やっと歩けるようになったばかりのリーフェイを、曇り空の日に彼の母親が捨てた。今のリーフェイには母の顔も思い出せないが、その時言った言葉だけは覚えているという。
 ――自分には兄がいて、きっとこの王宮にいるはずだ。
「兄がいるって、お母様が言ったの?」
 シャルは椅子の上で足を揺らしながら、いまだもぞもぞと着替えているリーフェイに問いかけた。
「兄かは知らない。兄弟がいるって聞いたんだ」
「後宮に?」
「いいや」とリーフェイは即答する。「わからない」
 それどころか、顔すらも知らないのだろう。たった一人の身寄りを探してここまで来たことには感嘆するが、その後のことをどうするべきか、シャルには当然のように想像もつかない。
「お兄様を見つけたらどうするの?」
 シャルは尋ねるが、返事はない。代わりにもぞもぞとした気配が消え、こちらに近づいてくる足音がした。
「シャルこそ、どうするの」
 知ったばかりの名前を舌に乗せて、リーフェイが逆に問うた。足音はシャルの真横で止まった。
「俺みたいなわけのわからないやつを入れて。もしかして俺が逆賊で、王様を暗殺しようと考えているかもしれないんだよ」
「そのときは私が止めるわよ」
 無根拠ではあるが、シャルは自信を持って言いきった。そして横に立つリーフェイに顔を向ける。
 広く裾の流れる、灰と藍の衣をまとい、リーフェイは照れたように目を伏せた。女らしさは感じられず、かといって男のようにも思えない。中性的で未成熟な色香が、服の中に押し込められているようだった。
「似合ってるじゃない」
 シャルは賞賛の意味も込めて、リーフェイに満面の笑みを浮かべて見せた。


 ○

 リーフェイの探す兄がどんな人物だか、シャルは聞かない。もしや聞いた方がいいかもしれないと、心で思うがやはり聞かないじまいだ。なぜと言われても理由はない。問題は、起きたときに解決すればいいのだ。
 今日の天気は快晴至極。雲はひとかけらも見えないし、空は色がこぼれるほどに青い。
「シャル、シャル」
 紫香宮との名の通り、庭園には紫の花が咲き乱れる。王の色をした花は、目に見えるのではないかと思うほどの芳香をただよわせるのだ。
 庭を歩き、花を愛でつつ退屈を紛らわしていると、リーフェイの声が追いかけてきた。
「リーフェイ、どうしたの」
 振り返ると、可憐な少女と見紛うリーフェイがいた。シャルが塗りつぶすほどに化粧を施したせいで、どこをとっても男とは見えない。リーフェイが後宮に来て数日経つが、相変わらず女姿には慣れないらしい。時折照れくさそうにうつむいたり、不安げに裾を引いたりする。その様子がまた初々しい女子らしいとは、本人は全く気がついていない。
「こんな時間にいるなんて、珍しいわね」
 昼の日差しが差し込む時間、リーフェイはいつもいない。どこに行っているのかも、特には聞かない。おそらく兄を探しに、王宮に忍び込んでいるのではないかと思う。
「俺だって、たまには後宮にいるさ」
 そう言って、リーフェイはシャルに並び歩いた。リーフェイの背はシャルより少し高い。可憐な容姿に彼の身長は不釣り合いだ。
「……ねえ」
「なに?」
 シャルの行く先は、本当にふらふらとあてがない。艶やかな百合の園へ行くのか、降るように咲く藤の屋根の下に入るのか、どちらにも行きかけて、結局野草の咲く後宮の端に迷いながら足を進める。
「シャルは王様を見たことがある?」
「ないわ」
「一度も?」
 シャルはリーフェイをちらりと見る。返事を待つリーフェイは、なかなかに険しい顔をしていた。
「陛下はめったに後宮には来てくださらないそうよ。私も、誰も見たことがないわ」
 来たとしても、もはや誰も気がつかないだろう。三年の間、王の顔を見たというものは後宮にいないのだ。
「何のためにこんな場所を作ったんだ」
 リーフェイが非難がましい声で言う。ねえ、とシャルも笑った。千人の女は、いったい何の意味があったのか。王の威厳を保つため、という理由自体は知っていても、納得はいかない。
「私を見つけていただければ、正妃になる自信はあるのよ」
 足を止め、草むらにぽつりぽつりと咲く菫を見ながらシャルが言った。容姿には自信がある。正妃になる、とは田舎を出るときから意気込んでいた。
「シャル」と少し低い声がした。リーフェイが目を伏せて、足元の草を足で踏みつぶす。
「正妃になりたいの? シャルは、王様の寵愛が欲しいの?」
「そうねえ」
 どうだろう、とシャルは自分に問いかけた。なぜ正妃となりたい? なぜ後宮に入ろうと思った? なぜ、王という存在に惹かれる?
 思い出すように目をつぶると、幼い日が浮かぶ。
「私に幼馴染がいてね、ネイと言うのだけれど」
 まだネイも自分も、ころころと可愛らしかったころ。ネイは生意気な口がまだ少なく、シャルの気性をまだわがままと呼んでもらえていた。
 そのころから、すでに国は危うい方を向いていたと記憶している。王は国政などなにもしないで遊び歩いている。王は自分の子供と家臣の仕事を増やすばかりだ。そんな話を聞いた。
「ネイがねえ、馬鹿なのよ。まだほんの子供なの、女の子。その子が『王になりたい』と言ったのよ」
 自分が王になれば、もっといい国にする。自分ならああする、こうする、そんなことばかり言っていた。ネイはシャルの後ろをくっついて歩くばかりだったのに、妙なところで我が強かったのを覚えている。
 ――ネイが王様になるのなら、私は?
 あるとき、ふと尋ねたシャルにネイがこともなげに答えた。
「ネイが王様になったら、私をお妃様にしてくれるなんて言ったのよ。それから、ネイとずっとそんな話をしていたから」
 なんとなく、思い込んでいたのだ。ネイはいつか王になる。自分はいつか、王の妻になる。
 口に出してみると、ずいぶんとくだらない。それで自分は、正妃になりたかったのだろうか。それとも、ネイと離れたくなかっただけだろうか。
「女が王様にはなれないよ。女が女を娶ることもできないよ」
「子供のころの話よ」
 生真面目なリーフェイの感想に、シャルは笑い声をあげた。今、本気でそんなこと思っているはずはない。後宮に来たからには、正妃になろうというくらいの野望はあるが、それは子供のころ考えていたものとは全然違う。大きくなったシャルの考えだ。
「俺なら娶れるよ」
「は」
「俺が王様になれば、シャルは正妃になれるよ」
 シャルはまるく口を開けたまま、大きく瞬きをした。リーフェイをまじまじと見つめるが、彼の瞳には一点の曇りもない。まるで本気。まさに本気。
「あんた……だってまだ子供じゃない」
「シャルが思ってるほど幼くはないよ」
 鋭い瞳でシャルを一瞥してから、リーフェイは目を伏せた。頬が微かに赤い。シャルは短く息を吸って、吐いた。こんなまっすぐで純な告白は初めてだ。シャル自身の方が照れてしまいそうだった。 
「えっと……」
 答えるべき言葉が見つからず、シャルは両手で頬を押さえた。
 尖った子猫みたいだったのに、いつの間に懐かれていたのだろう。とんだことになった。リーフェイの伏せられた瞳にかかる、長いまつげを見つめながら、シャルは心の中で苦笑いした。


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