<1>

 父は賢人として高名なシィ丞相。政治手腕はもちろん、人柄にも誉れ高い。先王から継続して腐り続けてきたこの王室が、今もまだ倒れていないのは、ひとえにシィ丞相と彼の人格に引かれた官吏たちの手によると、もっぱらの評判だ。あの傲慢な賢老人さえ、丞相には礼を尽くすという。
 シーリィは、父のなに一つも受け継がなかった。兄たちは父に似て、文官としてつつがなく出世をし始めているというのに、シーリィはいまだ脛をかじっている身だ。引け目がないはずない。生まれたときからずっと、シーリィは父と家族に引け目を感じていた。
 シーリィの本質は武だ。勉学の才はない。それは自分自身が一番よく知っている。
「あなたは本当に学ぶ気があるのですか」
 あきれた声を吐きながら、疲れたように椅子に座り込むのは、ネイ・セイエイだ。相変わらず雑に髪をひとまとめにして、色気の欠片もない。衣がよれてしわになっていても、直そうという気はないらしい。
「もうひと月ほどあなたの師をしていますが、こんなに手ごたえがないとは思いませんでした。エンジ先生が私に押し付けた気持ちもわかります……」
 ネイは女のくせに、無遠慮にもほどがある。妙な因果でネイに教えを受けてはいるが、実のところシーリィは彼女が苦手だ。
 賢老人の詰所の一室で、疲れたネイと、飽き飽きしたシーリィが顔を突き合わせていた。二人の間には長卓子があり、筆が投げ出されている。開かれたままの書物を、ネイは手遊びするように手繰っている。もう何かを教えようという気はなくしてしまったようだ。隣では賢老人たちが、昼間から酒を手に花見をしている。たまに聞こえる笑い声には、やる気もなくなるというものだ。
 シーリィは両腕を組み、ネイの顔をうかがった。黙って目を伏せたネイは、意外に女らしい。瞬きのたびにまつ毛が揺れて、まぶたの下の瞳が光にゆれる。小ぶりな鼻の下では、淡い紅色の唇が閉じられている。普段の生意気な口も、こうしていれば形良いことがわかる。白い衣の中に小さな肩がおさまり、上前を合わせた胸元が、息をするたびに上下する。
 いつの間に視線が下がっていたのか。シーリィはあわてて視線を逸らす。ネイは気づいた様子もないが、なぜだか気まずい。
 軽く頭を振ると、シーリィは頭を切り替えようとする。
 ――あの女は、苦手なんだ。
 話していると、なんとなく居心地が悪い。反発を覚えるのだ。それはなぜだろうか、シーリィはあまり考えたこともなかった。
 聡すぎるからだろうか。
 ネイはシーリィよりも、よほどできる。それは間違いない事実だった。それどころか、そこらの文官でも彼女の知識に対抗できないだろう。女にしておくことが惜しくなる。ネイが男であったならば、後宮ではなく表舞台に立ち、政治に手をかけることもあっただろう。
「シーリィ」
 不意に声をかけられて、シーリィははっと顔を上げた。正面のネイが、いぶかしげな顔をして見ている。
「武人にも学は必要なのですよ」
 ネイはわずかに眉をひそめ、独り言のようにつぶやいた。諦めきった師が、弟子に最後の言葉を残すように。しかしネイは、別れ際に毎回同じようにつぶやいても、次に会うときにはまたシーリィの師となる。賢老人との約束があるネイは、教えを垂れることをやめるわけにはいかないのだ。
「自らの主君を守るために、武人はよく知らなければなりません。主君のこと、そのお立場、そのお考え」
 ほとほとと、抑揚のない声を、シーリィは黙って聞く。政治について教え込もうと躍起になる叫び声には耳も傾けないが、疲れ切ったネイの言葉は、さすがのシーリィの胸にも響く。
「この国のこと、陛下のこと、あなたは何も知らないでしょう。陛下のために振るう剣は、本当に陛下のためになっているのか。自分で考えられる頭が必要なのですよ」
 返事もないが、ネイはもとより期待していないのか、相変わらずの口調で続ける。誰かに聞かせるというよりは、自分自身に語りかけているようだった。
「今のあなたでは、陛下を守ることができるかわかりません。先帝のご崩御から、ずっと不穏なうわさがあるというのに」
「不穏なうわさ?」
 珍しく反応したシーリィに、ネイは「おや」と目を開く。「興味があるんですか」
 それからネイは軽く指で頭を小突いた。考えをまとめるようにゆっくりとした瞬きを繰り返すと、先ほどと同じ調子で再び口を開いた。
「陛下が即位される際に、かなりのいざこざがあったと聞いています」
 先王の崩御は、今から三年前。当時、後継者として候補は無数にいた。容貌と精力の他に優れたものを持たない先王は、少ない自らの能力を使って、あらぬ限りの公子を世に送り出したという。後宮の姫、宮中の女と言う女、果ては市井にまで及ぶその数は、宮中でも未だ把握しきれない。
 先王が残したのは、数多の公子たちだけだった。国政をすべて官に任せたまま、女たちを渡り歩き、女の腰にしがみついたまま死んだという。溢れるほど多くの世継ぎたちを、民は揶揄して百公子と呼んだ。
 今の国王の母親は、先王のいとこにあたる。先王に似て端麗な楚々とした美女だったという。性格は大人しく、口数は少なく、自己主張はほとんどしなかったらしい。しかし現国王が即位できたのは、ひとえに彼女の力によるものだった。正妃としての身分、王家の血、それに彼女自身の、熱心な推挙があった。
 巨大な後ろ盾を背負い、王は十四で即位した。その直後に、王太后となった王の母は亡き人となる。事故とも病気とも、暗殺とさえ言われているが詳細は不明だった。
 当の王はと言えば、その当時から政治を投げ出し、市井に下りては遊び歩いていたらしい。たまに後宮も訪れたと聞くが、誰にも会わずに帰ったのだろう。寵愛の噂も懐妊の噂も、耳ざとい女たちから何一つ聞こえてこないのだ。
 世継ぎを残さぬだけ、むしろ先代よりもたちが悪いかもしれない。そんな王を、必死で支える官吏たちはどう思っただろうか。
「今、この王宮が保っていられるのは、ひとえにシィ丞相――あなたの父のおかげであると聞いています」
 ネイはシーリィとちらりと目を合わせ、すぐにそらした。
「陛下を排して、新しい王を立てようという動きがあるそうですね。幸い、候補には事欠かないようで」
「全員ぼんくらばっかりだ」
 先王に似て、と言う言葉はさすがにつぐんだ。百公子と呼ばれる先王の子たちが、ことごとく無能であることは、口にこそ出さぬが宮中の誰もが思っている。
「どこで誰を担ぎ出すかわかりませんよ」
 ネイは肩をすくめてそう言った。
「私が田舎暮らしをしていたときですら、そんな不穏なうわさが王都から流れてやってきたのです。機会さえあればと、誰がうかがっているかわかりません。そんなのんきな態度ではいられないですよ」
「俺には関係ない」
「あなたの父上が守ってきたお方ですよ」
 ふいと顔を逸らしたシーリィに、ネイはついに強い口調でもらした。
「陛下のことでさえ関係ないと?」
「陛下は……」
 シーリィは足元に視線を落とすと、わずかに言葉を探した。名家の子として、シーリィはまだ幼い王に会ったことがある。昔、何も知らずに自分を慕う、哀れな少年の姿が頭に浮かぶ。
「陛下には、同情している。あの人はなりたくもない地位につけられたんだ」
 だが、と口に出したとき、シーリィは無意識のうちに頭を振っていた。王と自分は似ている。ふとそう思った事実を打ち消したかったのだ。
「だが、それも俺とは関わりのないことだ」
「あまりに不忠義な」
 ネイは少しの間、信じられないものを見るような目でシーリィを映していた。まるまると瞳をひらき、数度またたいたあと、重たげに口を開いた。
「陛下はシィ丞相の主。ならばその子であるあなたの主でもありましょう。あなたの不忠義は、シィ丞相の不忠義とも思われかねません」
「俺は父上とは違う!」
 シーリィは反射的に身を乗り出し、ネイの胸襟をつかんだ。加減のない武人の力で、シーリィはネイを顔の前に引き寄せる。唐突な怒りに、呆然とするネイの顔が目の前にある。
「俺のすることは俺のことだ。俺の恥も、不義も、父上のものではない。二度と父上を引き合いに出すようなまねはするな」
 怒りに任せたシーリィの力は、ネイの体さえ半ば持ち上げるほどだった。襟に首を絞められ、苦しげにうめきながら、ネイは言った。
「父と子のきずなは、なによりも強いものです。あなたの身に流れる血を、否定するのですか」
「血などみな赤いだけだ! 父親が誰であろうが、なんであろうが、俺には俺の信ずるものがある」
 噛みつくつもりで、シーリィはネイに顔を寄せた。額がつくほどにお互いの顔が近づいたとき、苦しみと戸惑いに震えるネイの瞳の焦点が定まっていくのを、シーリィは見た。
「ならば、その剣はなんのために」
 力ないネイの腕が持ち上がり、シーリィの腰を指差した。そこには無味で武骨な剣が差さっている。名のある剣ではないが、父に逆らってもう何年、シーリィが振り続けて来たものだ。
「あなたはその剣を、誰のために振るのですか」
「俺は……」
 口に出してから、シーリィは息をのむ。
 誰のため? いったいなぜ自分は武人を志した? 父に逆らいたかったからか。たまたま自分の剣の才能を見つけたからか。
 違うはずだ。他に何もないから選んだわけではない。導かれるようにして剣を手にした昔の自分は、心の奥に強い願いを抱いていた。
「誰かのために」
 シーリィの口から低い声がもれる。シーリィ自身も苦笑するほど、あいまいな言葉だ。
「俺は、俺を必要とする誰かのために、俺のための主に、この剣をささげる」
「そうですか」
 ネイは息詰まる声で言った。しかしその口元は、笑みに似た形を作っている。
「見つかるといいですね。あなたの主が」
 シーリィは、自分の腕から力が抜けていくのを感じた。なぜだかは自分自身でもよくわからない。あるいはネイの、吹き抜けるようにさらりとした肯定の言葉に、怒っていることがばかばかしくなったのだろうか。
「……そうだな」
 嘆息にも似た声とともに、シーリィはネイの襟から手を離す。すとんと落ちるように再び座り込んだネイは、安心したように目を伏せながら自分の襟元を正した。シーリィはそれを黙って見ていた。沸騰するほど熱くなったことが、冷めてしまった今の状態では、なにがしか気まずさを感じるのだ。ネイのあまり器用そうでない手の動きを見ながら、シーリィは単純すぎる自分を恥じた。父とは別だと言いながら、一番気にしているのは、自分ではないか。
 ネイが服のしわまで伸ばして、手を休めた頃合いに、シーリィは尋ねてみた。
「お前はどうして知恵をつけるんだ」
 ネイははっと顔を上げた。丸々とした瞳を大きくして、シーリィをのぞき込む。
「お前こそ、理由もなく賢老人に師事しているわけではないだろう。女の身でありながら、後宮にいながら、なにをしたいと思っているんだ」
 返事はなかった。ネイは両手を卓子の上で組み合わせ、言葉を探して視線をさまよわせる。
「よくないことでも考えているのか」
「いや」
 即答だ。これにはネイも、少し気分を害したようだった。とげのある声色で、口元をゆがめて言う。
「私は――私が、国をよくしたいから学ぶのです。今のこの国は、あまりの有様ですから」
 確かに、今の太寧はほとんど倒れかけている。市井の不満も大きく、王都でさえも飢え死にする子供が少なくないというのだ。というのに、それを打破すべき陛下その人が、まるで政治に寄り付かない。
「私の力で、国を正したいのです。女である私が、どこまでできるのか」
「それで、賢老人たちに教えを受けるのか?」
 シーリィの声は低い。強い意思と、賢老人への信頼のこもった瞳が、シーリィの気分を落とすのだ。
「お前は知らないのか。やつらのこと――」
 言いかけて、シーリィは唐突に口言葉を切る。いぶかしげに見やるネイも無視して、シーリィは耳を澄ませた。
 人の気配がする。ネイと賢老人たちではない。この詰所に乗り込んでくる、無遠慮な何者かがいる。
 剣を握りしめた瞬間、隣室からしわがれた悲鳴が聞こえてきた。驚くネイを横目に、シーリィは椅子を蹴り飛ばして駆け出した。

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