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 今日もネイを取り逃がしてしまった。

 ユーリンはもぬけの殻となったネイの部屋を見回して、ため息をついた。
 最近、ネイは特に抜け出すのがうまくなった。それにその頻度も、以前よりもずっと多くなっている気がする。ユーリンは後宮に入って以来、女官としてネイに仕えてきた。それなのに、未だにネイのことがわからない。どこで、なにをしているのか、どうして抜け出すのか。

 宮中に賊が出た。
 そう聞いたときにも、ネイは後宮にはいなかった。心配で仕方がなかったユーリンは、無事に戻ってきたネイを見て、気の抜けるような思いだった。それなのにネイは、「どこに行っていたのか」と詰め寄るユーリンに、含み笑いを返すだけだった。

 ――ネイ様。
 ネイはたいがい、親切な主だ。ユーリンの頭の固さも、それに伴う失態も笑って許す。ユーリンはそんな寛容なネイが好きで、自分なりに懸命に仕えてきた。後宮でのこの三年、ネイもまた、ユーリンを気にかけてくれているように思えた。
 ――うぬぼれているのでしょうか……。
 同じ後宮の女とはいえ、ネイは昭魏という高い身分を持つ。一方のユーリンは、ただの位無しの女官だ。道ばたの石と同じ、普通ならばなんの気にもかけない。

 ユーリンはきゅっと唇を噛むと、小さな丸い窓をにらんだ。ネイはおそらく、ここから逃げ出したのだろう。扉の前はしっかり見張っていた。床と擦れるわずかな音だけでも逃さないように、注意を払っていたのだ。
「……こんな場所から」
 力ない足取りでゆるゆると窓辺に近づき、ユーリンは窓の下にある卓子に手をかけた。何気なく手元を見下ろすと、小さな花瓶に差された菫の花がある。
「……あ」
 いつか自分で活けた花だ。濃い紫のみずみずしかった花、今は少ししぼんで、花びらの先が茶色く濁ってしまっている。でも、すぐ枯れてしまうと思ったのに……。
 気づかず、ユーリンはため息をついていた。

 扉を叩く音が聞こえたのは、そのときだ。ためらいがちに数度、木の軽い音が響く。
「はいっ」とユーリンは叩音を跳ね返すような返事をした。ネイだろう、とユーリンはとっさに思った。
「……ユーリン」
 聞こえてきたのは、低い男の声だった。ああ、そうだ。ネイならば、自分の部屋に帰ってくるのに扉など叩かない。
 失念していたのだ。菫の花に見入っていたから。本当なら、声も返すべきではなかった。
 後悔しても遅い。扉がきしむ音がする。
 ユーリンは反射的に菫を背にして、ゆっくりと開く扉を見つめた。

 現れたのは、まだ若い男だった。
 長い黒髪をゆるく背中に垂らし、その召し物もまたゆったりとしている。顔は細く、優男と言う言葉がぴったりと合う。非をつけ難いほど整った容姿をしているが、その表情にはどことなく隙があった。
 男はユーリンを見つけると、菫よりも濃い衣の裾を揺らして、部屋の中へと踏み入った。春の陽に輝く瞳を細めて、とろりとろける甘い笑みを浮かべている。その表情が自分に向けられているのだと気づき、ユーリンは顔を背けた。

 ――この後宮、王の妻たる姫たちの部屋へ訪れるものなんて、一人しかいない。

「……陛下、ご機嫌麗しく」
 この男こそ、国王陛下その人。
 ユーリンが恭しく頭を下げると、男は眉をひそめた。他人行儀な態度が気に食わないらしい。
「ユーリン、私のことはマオと呼べと言っただろう」
 マオは無遠慮に部屋に足を踏み入れると、まっすぐにユーリンに向かってきた。ユーリンは逃れるように後ろに下がったが、すぐに背後にはもう小さな卓子と窓しかない。
 はっと気がついた時には、マオがユーリンの肩をつかんでいた。
「ユーリン、どうしてお前はいつまでも逃げるのだ。私はこの国の王なんだぞ」
「こ、ここは」ユーリンは絞り出すような声で言った。
「ここは私の主であるネイ様のお部屋。私はただの下女にすぎません。本来ならば、ネイ様が陛下のお相手をするはずで」
「そんなもの、いつ来てもいないではないか」
「ネイ様はお忙しい方で……」
 言いつつも、ユーリンにもネイのしていることは知らなかった。今頃、どこで何をしているのか。ネイもまた、ユーリンがこうして王たるマオと会っているなどとは知らないだろう。マオがユーリンの元へ通い始めて、もうひと月もたつなどということは。

 ユーリンがマオと初めて出会ったのは、まだ冬の色が濃い日。きっかけはわからない。寒さをこらえつつ、ユーリンはネイの茶会の用意をするため、厨房から茶葉と菓子をもらって走っていた。そのときたまたま――本当に何の前触れもなく、後宮に来ていたマオが声をかけた。「大変だな」「手伝おうか」そんな言葉だったと思う。ユーリンははじめ、マオを後宮の宦官だと思っていた。細身で女性的なものが多い宦官の中で、めずらしく背が高く体格も良い。変わった宦官だな、と思ったことしか覚えていない。
 まさか、それが国王陛下だとは露とも思わなかった。ましてやその出会いから、マオが部屋へ通いだすなどと、想像がつくはずなどなかった。

 ユーリンが顔を伏せると、マオはさらに不機嫌になる。マオは片手でユーリンのあごをつかみ、無理やり目を合せた。
「どうせ、好き勝手に茶会でもしているのだろう。都合がいい。私はユーリンに会いに来たのだ」
「陛下、私は身分あるものではございません。どうか、こんなことは」
「だまれ」
 マオの濃い瞳の色に、ユーリンは息をのんだ。有無を言わせぬ力を持ったその輝きは、たしかに王のものだ。
 ――けれど。
 ユーリンには、ネイを差し置いてこんな真似ができるはずもない。ユーリンは強く目をつむると、体を固くして拒絶の意を示した。
「ユーリン……」
 マオは傷ついたように細い声を出したあと、すぐにユーリンをにらみつけた。あごをつかんでいた手を離し、代わりにユーリンの腕を引く。思わぬ行動にユーリンは体勢を崩すが、狙っていたとばかりにマオに肩を支えられた。
 マオはユーリンの顔を見下ろすと、そのまま背後にある小さな卓子をにらんだ。マオの視線の先には、窓際にゆれる菫の花があった。
「私が以前、お前に送った花だな」
 マオは花瓶に差された、色あせた花を見てつぶやいた。淡々とした声とは裏腹に、ユーリンをつかむ手の力は強い。痛みにユーリンが顔をしかめると、マオはちらとそれを見下ろしてから、さらに力を込めて――自らの元へ引っ張った。
 ユーリンの体は、急なしぐさに抵抗もできずマオの胸に収まる。あわてて離れようとしたユーリンを、マオは抱きおさえた。
「こうして、花は大切にしているというのに、私を拒むというのか」
「へ、陛下。おやめください。ここはネイ様のお部屋です」
「知ったことか」
「おやめください!」
 ユーリンは精一杯の力でマオを押し返すが、びくりともしなかった。まるで無遠慮に、すがりつくようなマオに、ユーリンはなぜだか不安を覚えた。
「……陛下」
「私はお前を大切にするぞ、ユーリン」
 ユーリンの耳元でマオが囁いた。言葉とは裏腹に、ユーリンに寄りかかるような、縋るような声だ。
 ――ネイ様、ネイ様……!
 切なげな声に、流されてしまいそうな心をユーリンは押さえつける。自分の慕う主人は、きっとこの不義を許さない。ネイはこの後宮の姫であり、王の妻なのだから。
 首を振り、マオから離れようとするユーリンに、柔らかな響きを持った言葉が降る。
「いとしい、私のユーリン……」

 なにも聞くまいと、ユーリンは強く唇を噛んだ。



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