<2>

 ユーリンの強い意思が、もしかしたら呼んだのかもしれない。

 強引に作り上げられた、艶やかな空気を壊したのは、あまりにも不意すぎる扉の開く音。叩音などはもちろんない。自らの場所とばかりに入ってくる闖入者(ちんにゅうしゃ)の姿が、ユーリンの瞳に映った。
 その飾り気のない姿。今日もまた、髪さえも結わせてくれなかった自分の主人が、そこにいた。

「……ネイ様!」
 あわててマオから離れようとするが、あくまでもその手はユーリンをつかんだままだった。マオは不機嫌をあらわにした顔を、ちらりとネイに向ける。
「出て行け」
「……そうおっしゃられましても」
 ネイはのぞき込むようにマオとユーリンを見比べてから、指で頭を小突いた。特にマオを見る瞳は、いぶかしさを隠そうともしない。
「まさか……陛下?」
「わかったなのならば邪魔をするな」
 マオの態度は、なつかない犬のようだった。表情すら変えないものの、ネイに向けて牙を剥いている。普段の甘ったるいマオしか知らないユーリンは、思わぬ冷たい声色に肩を小さくする。
 それに対する、ネイの態度もまた固かった。王に臆することなく、大股で部屋の中に入り込むと、一礼をしてから口を開く。
「そんなわけにはまいりません」
 毅然とした声だった。一瞬、ネイと視線が合う。
「ここは私の部屋。ユーリンは私の女官でございます」
「もともとユーリンは、後宮の女官だろう」
 その通りだ。ネイが頷き、ユーリンも心の中で肯定する。
 ユーリンもまたネイたちと同様、三年前に後宮に連れてこられた。違うのは、ユーリンはもとより庶民の出であり、後宮に入っても身分を得なかったこと。そして身分なき者は、花園で茶会を楽しむ姫たちの傍らで、必死に走り回って仕事をする、単なる女官にすぎないのだ。
 しかし、後宮にいる限り、王の妻であるということだけは等しく共通している。ユーリンはネイの僕である以前に、後宮の女であるのだ。
「ユーリンは確かに、後宮の――ひいては、陛下のものでございます。本来ならば、私が口出しをするなどおこがましく、野暮なこと」
 ですが、と言ってネイはわずかに目を伏せて、すぐにさらに強い視線をマオに送る。背筋を伸ばし、わずかに眉間にしわを寄せる。怒っているようだ、とユーリンは思った。ネイは、声も荒げず凛とした態度で、静かに怒っている。
「ユーリンがいやがっております。いくら陛下のものとはいえ、ユーリンは私の友人でもあります。ユーリンにとって不本意なことをするのなら、私は止めなければなりません。相手が、誰であろうと」
「ネ、ネイ様……」
 ネイの態度、言葉、行動、どれをとっても首をはねるには十分だった。仮にも相手はこの国の王。ネイのあまりの不遜さに、ユーリンの心臓は縮み上がる。
「私が誰とわかっていて、よくもそんな口が利けるな」
「ユーリンのためでございます」
「自分のためではないのか?」
 ネイの言葉に、マオは鼻で笑った。嘲りをあらわにネイを見下ろす。
「本当は私をユーリンから引き離したいのだろう? 自分が王后になるために、ユーリンが邪魔なのだろう?」
「ご自分に自信を持っていらっしゃるようで……」
 ネイは口元を押さえると、マオに嘲笑を返した。
「私は王であるぞ」
「存じております」
「では、お前の態度はなんだ。王を王とも思わないその態度! わかっているのか、私はお前を死罪にすることくらい、簡単なのだぞ」
 はらはらと不安に震えるユーリンの肩を、マオはいっそう強く握った。マオは怒りに震え、今すぐにでもネイの首を絞めそうだった。この場で危機にさらされているのはネイだ。それなのに、ユーリンはなぜかマオが怯えているように思えた。
「存じております」と、ネイは透き通るほどはっきりとした声で言った。
「しかし友人のためならば、たとえ陛下でも引きはしません。ユーリンが今どんな顔をしているか、おわかりですか?」
 ユーリンは反射的に自分の頬を押さえた。固くなった自分の顔。体中を小さくして、服の裾を握る手。この空気に、対峙するネイとマオに、息をすることさえ苦しかった。
 マオはいまだに抱いていたユーリンの肩を離し、うかがうような瞳で見下ろした。視線を返したまま何も言えないユーリンに、マオはかすかに傷ついた表情を見せたが、すぐにそれ以上の怒りに取って代わる。
「私がユーリンを怖がらせているというのか」
「はじめから、ユーリンは陛下を拒んでいるように見えました」
「この……!」
 マオはネイに向かって足を踏み出すと、両肩を怒らせた。強く握りしめたこぶしが見える。
「私は王であるぞ! 王なんだ!」
「玉座に座っているだけでよいのなら、たしかに誰でも王でございますね」
 この期に及んで口を噤まぬネイに、ユーリンは寒気がした。冗談ではもう済まない。マオがどれほど頭に血をのぼらせているか、その背中を見ただけでわかる。いつも正面から、ユーリンに親しさを見せるマオの背は、何もかもを否定する、癇癪を起した子供のようだった。
 このまま兵を呼ぶのか、それとも力任せに殴る気か、ユーリンにはわからなかった。
「陛下」
 ネイに向かって足を進めるマオに、ユーリンは擦り切れた声を上げた。それでも振り返ろうとしないマオの、ゆるやかな衣の端を必死でつかむ。
「陛下、おやめください。お許しください、どうか」
 両手で、濃い紫の衣にしわを寄せる。泣き出しそうな顔をマオの背中に押し付けると、いつもの優しい匂いがした。
「ユーリン」
 マオはユーリンに頭を向けたまま、囁くように言った。
「私が、お前を恐れさせているのか?」
 マオの声は震えている。背中に流れる髪が波のように揺れ、ユーリンの頬をくすぐった。柔らかい感触は涙を誘うが、言葉はなにも出てこなかった。ユーリンには、唇を噛んで嗚咽をこらえるだけで精一杯だ。
 固くこわばるマオの背中から、力が抜けていく。腕をだらりと垂らすと、最後の熱情まで吐き出すように、長い息を吐いた。
「……わかった」
 ゆるく頭を振ると、マオはそれきり黙った。


 出て行こうとするマオを引きとめたのは、ネイだ。
 ネイはまだ物言いたげな顔で、マオに椅子をすすめる。
 ベッドのそばに置かれた丸い卓子を囲みネイとマオは腰かけた。座ってもいいと言われたが、ユーリンはあくまでも立ったまま、ネイの後ろについた。
 ネイに向かい合うマオは、先ほどの激情とは打って変わって無表情だった。一方のネイは、まるで別のことでも考えているかのように、マオから顔を背けるが、表情は険しい。漂う空気は冷たくも激しく、一触即発という言葉を連想させた。
「お伺いしてもよろしいでしょうか」
 涼やかな声で、ネイが口火を切った。
 全身を針のように尖らせたマオが、ぴくりと反応する。
「なんだ」
「陛下。陛下はユーリンを愛しておられる?」
「当然だ」
 迷わぬ声から逃れるように、ユーリンはうつむいた。愛している、とその言葉は何度も聞いた。何度も逃げ出した。
 マオの即答に、ネイは眉間のしわをさらに深くする。
「ユーリンを、いかがするおつもりで」
 いかが、とは。マオはユーリンを見上げると、すぐさま言葉を継いだ。
「私の妻とする」
「王后に?」
「そうだ」
 マオの答えに、ネイは短く息を吐いた。そっぽを向いたまま、丸い瞳だけをマオに動かす。
 呆れているのだ。ユーリンはおろおろと、ネイのその視線を追った。
 視線の先にはマオがいる。マオはネイではなく、ユーリンを見つめている。
「お判りでしょうか、陛下」
 再び口を開いたネイに、ユーリンは目を戻した。おそらくはマオも同じだろうが、ユーリンはいまだ視線の尾を感じた。
「恐れながらこの太寧の現状、陛下に不満を抱くものも少なくありません。陛下に関するよくない噂も、多々耳に入ってきます。そんな中で、ユーリンを正妃にしてはどうなります?」
 狙われるのは、ユーリンだ。
 思わず自分自身の体を見下ろして、ユーリンは息をのむ。正妃になるつもりはもとよりなかったが、それはネイのためという目先の理由だけだ。万が一にもマオを受け入れたとき、その先のこと。なにも思っていなかった。
「ならば、私は王をやめる。ユーリンを連れて市井に下ろう」
「浅はかなことをおっしゃる」
 ネイはうんざりと頭を振ると、肩の力を落とした。その態度に、一国の王に向けるべき畏敬の念は一握りもない。王を王と思わないネイの率直さに、ユーリンの心臓は縮み上がりっぱなしだった。
「今、無責任に国を放り出すとなれば、民の不満はいっそう陛下へ向かうでしょう。市井に下りても、裏通りで八つ裂きにされることが目に見えております」
「責任など、他のやつらがとる」
 あまりの投げやりな言葉に、そっぽを向いていたネイも、さすがにマオを正面から凝視した。顔を強張らせているせいか、マオの表情に暗い影が見えた。
「どうせ掃いて捨てるほどいる兄弟たちが、争って王の座につくだろう。玉座も責任も、奴らに押し付けて構わぬ。私はなりたくて王になったわけでもない」
「聞き及んではおりますが……」
 現国王であるマオが、多くの兄弟たちを踏みつけて今の地位にいるということは、誰もが知っていることだ。
「投げ出そうとして、投げ出せるのが王ではございません」
 それは、マオ自身もよくわかっているだろう。答えずに、強く歯噛みする。
「望む、望まない以前にあるのが王。陛下のお立場にございます。それは生まれついてのもの、捨てることも失うことも許されず、ありえません」
「傷つけるばかりの王など……」
 マオは静かにつぶやくと、長い息を吐いた。深い思考に沈んでいくように、重たげにまぶたを落としていく。こんな時マオがなにを考えているのか、ユーリンにはわからない。何度も愛をささやいてくれたマオも、その陰りをユーリンに伝えてはくれなかった。

「代われるなら、私だって代わりたいものです」
 目を閉じかけたマオに、ネイが声をかけた。
「私は生まれながらに、ただの田舎娘。王になろうと思うならば、なにもかも変えなければなりません」
 声には自嘲の響きと、底知れない強さがあった。思考の淵につこうとしたマオを、呼びさますほど。
「お前――ネイ、か」
 不意に、マオがネイの名を呼んだ。訝しさと不快感を混ぜたような声色だが、とげとげしさはない。珍妙な生物を見るような目だった。
「ネイ、私が王と知っていて、よくもここまで口が聞けたものだな。たいていの者はみな、恐れて口をつぐむものだ。誰に対しても態度を変えぬのか、お前は……」
「いいえ、陛下。いいえ」
 感嘆のこもったマオの言葉を、ネイは強引に遮る。
「私の陛下に対する無礼な振る舞いは、喜ぶべきものではございません」
 固い殻を崩しかけたマオに対し、ネイの態度は変わらず、嘲笑。
 言葉の先を取られ、否定されたマオは、再び胡乱な顔つきに変わる。
「生まれながらの王に対してこの言動。本来ならば許されるはずもありません。死を覚悟した諫言をしているつもりもございません。――どうせ、殺されやしないだろうと」
 ふ、とネイは鼻で笑う。うぬぼれにも似た、強い自信が垣間見える。
「侮られているのですよ、陛下」
「お前は……っ」
 どうしてそこで挑発をやめないのか。ユーリンはくらりと気を失いそうになった。
 私の主人は、奔放で勝手で――我が強すぎる。わかっていたのに、わかっていなかったのだ。
「ネイ――お前は、私に殺されたいのか!」
 鼻の頭にしわを寄せ、マオは握りこぶしで卓子を強く打ちつけた。
「私がお前を殺せば、満足なのか……!?」
 しかし怒りは続かず、言葉の最後は言いよどむように小さくなっていった。握りこぶしを卓子に置いたまま、マオはうつむき、首を振る。
「態度の一つで命を奪えるほど、王とは偉い身分なのか? 話す言葉もろくに選べぬようなものなのか? 兄弟も友も平伏しなければならぬのか?」
 うめき声を一つもらすと、マオは最後にひとつ、こぼれるように言葉を垂らした。
「そんな王になど、私はなりたくない」
「なりたくない、ではありません。陛下はすでに、お立場として王でございます」
 ネイはうつむいたままのマオの頭に向けてそう言った。事実であり、それ以上の何ものでもない言葉だが、マオにとっては身にのしかかる厳しい響きだろう。
 顔を上げる気配のないマオをしばらく見つめてから、ネイは付け加えるように一言、もう一度口を開いた。
「王だからと、頭を垂れるのではありません。真に尊敬したときに、頭を下げるのですよ、私は」
 立場など関係ない。敬えばこそ頭を垂れる。
 それに足りなければ、ネイの態度はどこまでも不快なのだ。



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