<3>

 マオが退出したのは、それからあまり時間の経たないうちだった。
 崩しかけたネイへの態度は、出て行くときにはさらに硬化していた。去り際、視線を合わせたときのあからさまな嫌悪に、ネイは苦笑いをしていていた。
「また来ても良いか?」
 ユーリンに対して、マオは少し恥ずかしそうに、そしてどことなく悲しげに言った。ユーリンはなんと答えてよいかわからず、困惑しながらマオを見返すだけだった。しかしそれもいつものこと。構わない、と答えるわけにいかないユーリンは、黙ってマオを送り出すのが通例だった。
「構いません」
 誰が言ったのかと思った。ユーリン自身が気づかず、自分で言葉を発していたのかとさえ思った。
 口を開いたのはネイだった。もじもじと別れる二人を眺めるネイは、どことなく他人事のような顔をしている。
「またいらしてくださるのをお待ちしています。私もユーリンも」
「……あ、ああ」
 マオは戸惑いながら返事をし、そのままの表情でユーリンを見つめた。
 マオの瞳の中に、ユーリンは自分の姿を見つけることができた。ああ、マオは肯定の言葉を自分から欲しいのだ。期待するように、諦めるように、マオの黒い瞳が揺れている。
 どうして、マオはこれほど愛してくれるのだろう。
 ユーリンには見当もつかなかった。ほんの些細な出会い。ひと月ばかりの短いやり取り。ほとんど拒むだけのユーリンに、なぜマオが執着を見せるのか。
「ユーリン……」
 催促するようなマオの声に、ユーリンは少しの間ためらった。口元をに手を当て、迷いの中で深呼吸を繰り返す。息が整ったところで、ユーリンはようやく口を開いた。
「お待ちしております……私も」
 短くて小さな声だった。だけどユーリンにとってはその一言が、堤防の堰を切るように、重くて苦しい。押さえつけていたものをあふれさせる、最初の言葉だった。
 ユーリンの傍では、ネイが穏やかに微笑んでいた。


 空の陽はいつの間にか天頂を過ぎていた。昼の強い日差しと同時に、ユーリンは空腹に気づく。早朝にマオが来てから、ずいぶんな時間がたっていたらしい。
「ネイ様、今日は早いお戻りですね」
 ユーリンは隣に立つネイをぼんやりと見上げ、そんなことを言った。疲れたせいか、ろくに気の利いたことも考えられず、意味のないことしか口からでない。
「また、日暮れまで帰ってくださらないと思いましたのに。あんな、恥ずかしいところを……」
「ああ、今日は先生たちに追い出されたんだ。梅の花を見に行く、と計画を立てているそうだが。あれはたぶん悪だくみをしている」
「悪だくみ? ネイ様、いつもどこへ行かれているんですか?」
「いや、私のことはいいんだよ」
 ユーリンの問いに、ネイは苦笑いをした。ネイの行き先が気にならないわけではない。しかし今は問い詰める気力もわかず、ユーリンはその笑みにごまかされることにした。
「それより、ユーリンと陛下のこと」
「はい」
 聞かれるとは思っていた。問い詰められるのだろう、罵られて、もう傍に置いてはくれないかもしれない。
 さらわれるようにやって来て、不安におののきながら暮らした後宮で出会ったネイを、ユーリンは姉のように慕っていた。いつだって、ユーリンを広い心で受け止めてくれる。だけどいくら寛容なネイだって、こればかりは許さないだろう。
「申し訳ございませんでした」
 震える声でそれだけ言うと、ユーリンは唇を噛んだ。全身は力み、両手はこらえるように衣の端を握る。みっともなくしわの寄った衣を直すことも、ユーリンの頭には浮かばなかった。
「ユーリン」
 聞こえてきたのは、諌めるようなネイの声だ。ネイがユーリンを見下ろして、呆れたように息を吐く。
「あなたは、私のことを考えながら陛下に会っていたの?」
 そう、ネイのことを必死で思っていた。そうやって耐えていたのだ。
「菫の花だって捨てられないのに、私のことを考えていたから拒んでいたの?」
 ちらりと、ネイが窓際の花瓶を眺める。そこには光を浴びて、束の間元気を取り戻したかのように花びらを広げる、淡い紫の菫が差さっていた。
 いつかマオが、ユーリンに摘んだものだ。王家の色、王である自分をささげる、と。
「でも……ネイ様のためにも……」
「ユーリンが陛下のお相手をすればいい、っていつか言ったこと、覚えている?」
 ああ、とユーリンは喉の奥から声を漏らす。覚えている、ネイの脱走を追いかけていたとき。あのときには、すでに何度かマオと顔を合わせていた。見透かされてしまったようで、逃げるネイを追いかけることもできなかったのだ。――そして、とぼとぼと戻ったネイの部屋で、マオから菫をもらった日でもある。
「冗談のつもりで言った言葉だったけど、嘘ではないよ。ユーリン、私は構わないんだ」
 けれど……、けれど。
「ユーリン」
 不意に、両肩をネイに掴まれた。真正面から自分を見る、真摯なネイの姿がある。
「いらないことは考えなくていい。ただ、ユーリンは陛下をどう思っているのか、それだけを聞かせて」
「……ネイ様」
 ――私は。
 マオが王であることも、他の後宮の姫のことも、自分の立場のことも、ユーリンの頭の中でぐるぐるとまわる。考えないことは不可能だ。
 不可能だけれど――回り続ける思考の底に、厚く溜まったものがある。ぎゅうぎゅうと押し込まれて、今にもあふれたがっているその感情を、言葉にしていいものだろうか。
 見守るネイの瞳を見上げる。目があった瞬間、ネイが肩をすくめた。普段通りの、脱走の間際に見せる、ネイの飄々としたしぐさだった。
「ネイ様」
 一言、喉の奥から声を出した。それをきっかけに、腹の底から、湧き上がるような思いがあふれ出て、止まらない。
「私は、陛下にお会いしたいです。また会いたいです」
 思いはろくろく言葉にならず、ただの嗚咽に変わる。知らず涙が出てきて、おさえようと手で顔を覆った。目をつむっても、嗚咽をこらえても、こみ上げるものは次々と涙になって落ちた。
 会いたい。
 会いたい、それだけ。
 何度も何度も拒みながら、また来てくれることを期待していたのだ。
 気づけばユーリンの体を覆うように、ネイが抱きしめていた。マオと違う、柔らかな女性の体。ユーリンはネイの胸に顔を押し付け、細い声を上げて泣いた。
「ユーリン」
 ネイがユーリンの傍でささやく。
「泣き終わったら食事にしよう? おなか減ったでしょう」
 くすりと笑う。
 ネイはよどみなく寛容で、優しくて、ユーリンの気持ちを楽にしてくれる。



inserted by FC2 system