1−1

「おはようございます」 

 低くて優しい、耳触りの良い声がする。誰だろう。薄く目を開いてみたけど、まだ眠くて、上手くいかない。ぼんやりと、誰かがいるのが分かる。 

「おはようございます、舞。起きて下さい」 

 体を揺すられて、ようやく頭が起きだした。閉じたがる目をこじ開けて、私の部屋にいる違和感を探す。 
 顔が見える。綺麗な人。下を向いて、柔らかい微笑を浮かべている。黒い瞳は透き通っていて、光を反射して輝いている。作り物みたい。 
 ……て、あれ。 

「は、ははは、はやとさん!?」 

 眠気なんて完全にどこかへ行ってしまった。私は慌てて布団から這い出た。ちょっとだけ、隼人さんと距離を取る。あからさまに避けてしまったけれど、隼人さんは気にせずに、相変わらず微笑みを浮かべている。 
「は、はやとさん。どうして。今日は」 
「朝、六時半に起こすように頼まれたでしょう?」 
「た、頼みましたけど……」 
 頼んだのは、隼人さんではなくて、別の人だったはず。それに、隼人さんは人気があるから、一か月前に予約入れておかないといけないくらいなのに。 
「悠斗は左腕のメンテナンスで動けなくなってしまったんですよ。その代りに、私が」 
 信じられない気持ちで、私は隼人さんを見上げた。多忙な人だから、遠めから見ることだって珍しいのに、会話を交わすなんて、一体何年ぶりだろう。緊張で、耳の端が赤くなる。他の人は大分慣れたのに、隼人さんは未だに駄目だ。話し慣れていないせいもあるけど、あまりにも滑らかなせいもある。 
「舞、時間はいいのですか? 六時四十分を過ぎましたよ」 
 隼人さんは几帳面に時間を告げる。本当は、そこまで急いでいないのだけれど、これ以上隼人さんが部屋にいる事に耐えられず、慌てたふりをしてしまった。 
「あ、はやとさん、ありがとうございました。もう目が覚めたので大丈夫です」 
 隼人さんはそれを聞くと、今度は先ほどとはまた違う笑みを見せた。 
「舞は偉いですね。私達にも礼を言ってくれる」 
 そう言って、軽く会釈をすると部屋から出て行った。隼人さんの滑らか過ぎる動きは、やっぱり慣れない。 


 私は全寮制の学校へ、もう五年ほど通っている。幼稚舎から大学まである女学校で、私は中学の時から通い始めた。この学校は教師も事務員もみんな女性で、男の人の立ち入りを一切禁止している。だから、幼稚舎から入った人は自分の家族以外に男の人を知らない。 
 だけど、やっぱり年頃の女の子は、男の人に憧れるわけで、周りに異性がいないのはおかしい事だと、そう言う人もいる。男の人を入れないのは、この学校の決して破ってはいけない規則だけど、生徒達に自分とは違う人に触れてもらいたい。ここの学長は、そう思ったらしい。だから――だからどういう理論かは分からないけれど――この学校には隼人さん達がいる。 
 きちんと男の人として認められるのは、隼人さん、悠斗さん、一都さんの三人だけ。あとの人達は、まだ単純な会話のパターンしかなくて、難しい注文や、どんどん移る会話についていけない。 
 隼人さん達は、学長が買った機械人形だ。噂で聞いたところによると、軍事兵器として開発されていたものと同じ型で、そこから攻撃性と軍隊からの通信回路を切ったものらしい。本来なら、生身の人間の振りをして戦う人たちを、女の子を満足させるためのほとんど雑用係の様な役にまわせるのだから、学長はすごいと思う。すごい発想力だ。そして、これが好評なのだ。特に、隼人さんは。 


 朝早く起きたのは、食事当番だったからだ。中等部では寮母さんが作ってくれていたけれど、高等部の一般過程は、もうそこまで面倒を見てもらえない。特に別費支払っている人や、特進過程の人は食事も貰えるらしいけど、私みたいに外部から来た生徒はお金がない人が多くて、みんなでお金を出し合って自炊している。 
 外部生で、自炊している生徒はもちろん多くない。だけど、それでも二十人分は作らないとだめだ。夕食の当番は流石にもう一人いるけど、朝の当番は一人だから、結構大変だ。 

「舞って真面目だよね。朝なんて作る人の方が少なくない?」 
 一番初めに自炊所に顔を出したのは、同じ外部生で一つ年上の橘さんだ。先輩だから「さん」をつけているけど、寮の中では一番仲がいい。言い方が少しきつくて、目つきが怖いけど、親切で面倒見の良いとてもいい人だ。だけど、それを橘さんの前で言うと、その怖い目つきで睨みつけてくる。 
「料理するの、嫌いじゃないですから。それに、朝早く起きられますし」 
 何かプレッシャーがあった方が、寝起きがいい。起きなくてはいけない、と思うと起きられるのだけど、普段は二度寝も三度寝もしてしまう。橘さんは真面目と言ったけれど、私は遅刻の常習者だった。 
 橘さんは欠伸をしながら、近くの席に座った。 
「朝、何? 舞はパン派だっけ」 
「実家が朝はパンでしたからね。楽ですし、ご飯作るより」 
「あたし今日は味噌汁飲みたかったけど」 
「残念です、紅茶なら入れますよ」 
 橘さんが何と言おうと、もうほとんど出来上がってしまったのだから変えようがない。パンとバターとジャムをテーブルの真ん中に置く。こうすれば、適当に欲しい分だけ取っていくだろう。あとは、サラダと卵と他のちょっとしたものを大皿に入れておけばいい。朝食は食べる人が少ないから、人数分取り分けずに、バイキングみたいにする。 

 作り終わる頃には、もう結構人が来ていた。朝は人が少ないと言っても、夜との比較の問題であって、客観的に見れば少なくはない。早々に食べ終わった橘さんも手伝ってくれたけど、やっぱり忙しかった。人が少なくなってきたところで、やっと私も自分でご飯を食べる。 
「今日、マスクしてる人多かったね」 
 橘さんが、私が入れた二杯目の紅茶を飲みながら言った。私は周りなんて見る余裕もなく忙しかったから、マスクがなんだとかは一切気がつかなかった。 
「そうでしたっけ? 風邪、流行ってるんですかね?」 
「さーあ、インフルエンザには早過ぎるしね」 
「授業、休みになったりしたらいいですよね」 
 私は人事のように言った。小さい頃から、風邪なんて滅多にひかなかったから、学級閉鎖のときは大喜びだった。みんな寝込んでいる中で、一人元気に遊んでいて楽しい、なんて、嫌な性格してるなあ。 
 案の定、橘さんに背中を叩かれた。 
「ばーか、そう言ってる奴ほど風邪引くんだって。舞も気を付けなよ」 
 橘さんの遠慮ない張り手は、文化系の私には辛い。忘れていたけど、橘さんはレスリング部のエースなのだ。


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