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 確かに、教室でも体調の悪そうな人が何人かいた。隣の席に座る英理子ちゃんも頬を赤くして、何度も咳をしていた。いつもの綺麗な長い髪も、今日はなんだか萎れている。 
「大丈夫? 風邪?」 
 大丈夫ではない事くらい、見て分かった。英理子ちゃんは痛々しいくらい咳をしながら、しゃがれた声を絞り出した。 
「ちょっと、熱があるけど、平気」 
 熱で潤んだ瞳を私に向けて、英理子ちゃんは笑った。だけど、熱のせいか引き攣っている。全然平気じゃない。 
「休んだ方がいいよ、辛そうだよ」 
「大丈夫、すぐに、治るから」 
 こんなに信用の出来ない大丈夫は初めてだ。だけど、勧めても英理子ちゃんは保健室に行くことも認めない。それに、返事をさせる度に激しく咳きこまれたら、声をかけるのも躊躇ってしまう。 
 私がどうしようもなく役立たずに英理子ちゃんを見ている内に、先生が入ってきた。砂川玲奈という、雲みたいに柔らかい髪を持つ、お姫様の外見をした人だ。実際にお金持ちのお嬢様で、喋り方も性格もおっとりしている。但し、先生の受け持つ現代国語の授業は、恐ろしく厳しい。 
 砂川先生は、教壇の前で視線を一巡りさせると、頬に手を当てて小首を傾げながら言った。 
「まあ、今日は随分と少ないのね」 
 教室の三分の一は席が開いていた。もちろん遅刻してくる人も居るのだけれど、今日はそれにしても少ない。本当に、風邪が流行っているようだ。昨日まで、そんな気配はなかったのに。 
「具合の悪そうな人も多いのね。他のクラスもそうなのかしら」 
 砂川先生は、両手を胸の前で絡ませると、口元を緩めた。いい事を思いついた時の癖、らしいが、先生の良い事はいつも変な事だ。 
「ちょっと待っていてね、見てくるから」 
 そう言って、先生は生徒を放って出て行ってしまった。 

「他のところもそうみたいねえ。元気なのは、特進クラスと芸能クラスくらいね。あと、スポーツ組も元気みたい。流石ね」 
 先生によると、どうやら普通科のクラスが全滅しているらしい。特進も芸能も、スポーツも相対的に見て人数はほとんどいないから、学校の生徒の大部分が風邪にかかったと言える。なんだか、元気な私の方がおかしいみたい。 
 先生はもう一度教室を見回すと、また両手を胸の前で絡めた。 
「休みにしちゃいましょうか。これじゃあ、授業にならないものね」 
 え、と声が出そうになった。喜びの声だ、もちろん。だけど、私は嬉しさを押さえて口を閉じた。代わりに顔がにやけてしまうけど、それは仕方無い。この学校に通う生徒の大部分はお嬢様で、学校が休めるから声を上げて喜ぶ、などというはしたない真似はしないのだ。 
「じゃあ、今日はもうおしまい。一日休んで、ゆっくり治してきてね。休みの子にも、そう伝えてね」 
 そして、誰よりも早く先生が出ていく。砂川先生の変わり者っぷりは、学校中のだれもが認めるところだ。先生が出て行ってから、クラスのみんなも動き始める。 
 私は隣に座る英理子ちゃんに、もう一度声をかけた。英理子ちゃんは机にうつ伏せて、苦しそうに息をしている。 
「英理子ちゃん、大丈夫? 部屋まで戻れる?」 
 英理子ちゃんは机に伏したまま、片手で親指を立てる。どう考えても、大丈夫ではない。 
「英理子ちゃん、A棟南だっけ。何階何号室?」 
 萎れた花の様な英理子ちゃんを、私は背中に無理矢理負ぶさった。全く抵抗がなかった。背負った後で英理子ちゃんの鞄と私の鞄を持ったら流石に重かったけれど、そんな事言えるはずない。 
「三階、三〇四号室」 
 英理子ちゃんは背中で、息も絶え絶えに答えた。こんなに体調が悪くて、よく大丈夫だ、とか、平気、などと言えたものだ。私は大急ぎで、A棟へ向かった。 


 A棟は、私の住むB棟とは違って、綺麗だし改装しているし、何より個室が広い。ここは、お嬢様が住む棟なのだ。その中でも、南側にある部屋は最高級だ。英理子ちゃんは、南条家の一人娘だとかで、ようするに物凄い上流階級の人だと聞いたことがある。お金持ちは貧乏人を馬鹿にする傾向があるけど、このレベルまで来るともう何も気にしないみたいだ。英理子ちゃんも、砂川先生も、誰に接する態度も分け隔てない。 
 英理子ちゃんを背負ったまま、エレベーターで三階へ上がる。そこからすぐに三〇四号室に入ると、英理子ちゃんを大きなベッドの上に寝かせた。流石A棟、ベッドの柔らかさも格が違う。なんて言う事は、どうでもいい。 
「英理子ちゃん、ちょっと勝手に部屋を漁るけど、いい?」 
 横になった英理子ちゃんが、薄眼で私を見ると、また親指を立てた。前に私が庶民の挨拶だ、などと吹き込んだのだけど、随分お気に召したようだ。 
 お墨付きも貰ったことだし、とりあえず水と英理子ちゃんの着替えを探す。この広い個室はバス、トイレ付。おまけに台所もあるから、食堂まで水を取りに行かなくていいのだ。すごい。 
 パジャマらしい服とコップに一杯の水と、多分風邪薬と思われる薬を携え、英理子ちゃんの枕元に寄った。そこで、薬と水を飲み、一息ついたようだ。掠れた小さな声で、私に告げる。 
「着替える、から、後ろ、向いてて」 
 息をつくたびに咳き込んでいる。大丈夫かなあ、と思いつつも、振り返るわけにもいかない。英理子ちゃんは衣擦れの音をさせながら、さっきよりもさらに小さい声で言った。 
「あの、ね、舞ちゃん。誰か、呼んで、きて、ほしいの。看病、してくれる、男の、人。……誰か、じゃ、なくて、隼人を」 
「隼人さん?」 
「一階に、事務室が、あるから、そこで。あたしの、学生証、鞄の、右ポケットに、あるから」 
 看病なら、私でも出来るけど。でもそういう問題じゃないんだろうな、もちろん。隼人さんなんて、予約に予約待ちだから、本当に呼べるか自信無い。A棟の人は優遇されるらしいと聞いた事もあるけど、A棟、風邪引き、南条家。これで、どのくらい優遇されるんだろう。今日中に呼べなかったらどうしよう。行くしかないけど。 
「じゃあ、学生証借りるね。……なんていうか、あんまり期待しないでね」 
「うん、お願い」 
「駄目だったら、悠斗さんか一都さんにするから」 
「うん」 
 弱々しい返事を背中に聞きながら、私は事務室へ走った。 

 この時間でも事務室には結構人がいた。同じように具合の悪そうな人が、ロボット関連の機械の前に並んでいた。考える事は、みんな同じみたいだ。大丈夫かなあ、借りられるかな? 
 私の順番になった。画面が切り替わり、メニューを選択してください、と声が出る。まず、貸し出しから。機械が言い終わる前に、選択。貸出、用途は看病、隼人さん。駄目なら悠斗さんか一都さん。日付、今日の今この時間。緊急。それから学生証を通す。しばらくすると、機械下の取り出し口から何時に誰が来るかが書かれた紙が出てきた。 
 貸出、隼人。十一時二十七分から、十二時二分まで。その後は、別生徒二人と兼用。 
 十一時半……って、あと三時間も先だ。英理子ちゃん大丈夫かな。ああ、でも借りられるだけすごい。これがB棟なら、兼用でも隼人さんは借りれない。A棟生徒の力って、すごいなあ。 
 とりあえず、報告と隼人さんが来る前までの看病のために、三〇四号室に戻ろう。 

「という事で、十一時半ごろから三十分くらい隼人さんが来るらしいから」 
 英理子ちゃんに印刷された用紙を見せながら、私はそう告げた。英理子ちゃんは嬉しそうに微笑みながら、相変わらず激しく咳きこんでいる。 
「それまで寝てるといいよ、時間になったら起こすから」 
「うん、ありがと」 
 しばらくして、英理子ちゃんは本当に眠ったみたいだ。冷えたタオルを英理子ちゃんの額に置きながら、私も半分くらい夢を見ていた。今朝、早く起きたせいだろうか。気付かない内に、瞼が落ちてくる。 

 扉の開く音がして、はっと目を覚ました。扉を見ると、隼人さんが既に立っていた。無遠慮なくらい堂々と、部屋の中に入ってくる。時計は、ちょうど十一時二十七分。流石。目が合うと、お互い軽く会釈をした。眠気は、もう無くなっていた。 
「英理子ちゃん、隼人さん来たよ」 
 ベッドで眠り続ける英理子ちゃんの体を軽く揺すった。英理子ちゃんはすぐに目覚めて、半目で私を見た。 
「なに、何時?」 
「十一時半だよ、隼人さんが来てる」 
「隼人……?」 
 英理子ちゃんが隼人さんに目を向けた。熱で潤んだ瞳が、嬉しそうに歪む。頬が赤くなっているのは、風邪のせいだけじゃないのだろう。 
 隼人さんは、英理子ちゃんの傍に向かって来る。邪魔なので、私は英理子ちゃんから離れて立った。 
「英理子、大丈夫か? 俺が付いているからな」 
 私は思わず声を出しそうになった。話し方が全然違う。いつも敬語で物腰柔らかな隼人さんが、今は随分とフランクだ。なんで? 
「英理子、腹は減っていないか? 薬は飲んだか?」 
 甲斐甲斐しく世話をする隼人さんは、普段と同じ事をしているだけなのに、まるで英理子ちゃんの恋人のようだった。正直、居心地が悪い。どう考えても邪魔だ。私はそっと自分の鞄を手にすると、英理子ちゃんには聞こえないように小声で、隼人さんに伝えた。 
「すみません、じゃあ、もう帰ります。英理子ちゃんのこと頼みます」 
 隼人さんは英理子ちゃんを向いたまま、首だけ小さく動かした。 



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