1−5
目が覚めた。いつものように、いつもの朝に目が覚めたはずなのに、どこか違和感があった。私は横になったまま頭を動かし、ナイトテーブルの上にある時計を探す。体をひねらせ、全身を逸らしながら時計の針を確認した。
六時十二分。これが違和感の正体だ。いつもよりも、二時間近く早い時間に目覚めたのだ。
八時まで寝ていよう。私はもう一度ベッドに入ったが、上手く寝付けなかった。なぜだろうと思いながら息をつくと、それと共に咳が出た。奇妙だと思った瞬間に、また咳が出る。今度は止まらない。
咳に疲れて何気なく額に手を置いて、私はようやく気がついた。熱がある。全身がだるくて、頭がしみるように痛い。
うつされた……。
ずっと病人たちの看病をしていたのだ。学校中に蔓延するような感染力のある菌を相手にしていた。今まで健康であった方が、むしろ不思議なくらいだ。だけど、今更という感が抜けきらない。
誰かに連絡をしなければ。私は枕元にある自分の携帯電話を取ると、無意識のうちに橘さんの番号を押していた。数回のコールの後に、橘さんの声がした。
「舞? 何か用? 朝っぱらから……」
あまり機嫌がいいとはいい難かった。橘さんは、私以上に朝が苦手だ。だが、仕方無い。
「橘さん、今日、先生に、休むって言っておいて貰えますか。砂川先生。何か、風邪引いたみたいで」
「風邪? 今更?」
疑うような声だが、言葉の合間あいまに咳が挟まっているのは聞こえるだろう。しばらくすると、橘さんは眠気による不機嫌な声を止めた。
「本当に風邪引いたんだね。分かった」
それだけ聞こえて、電話が切れた。私は通話終了と書かれた画面を確認すると、安心して目を閉じた。
「舞、生きてる? 具合はどう?」
目を開けると、橘さんがベッドの横に立っていた。この人は、いつも勝手に部屋に入ってくる。
「熱は測った? お腹空いてない?」
「平気」
「平気じゃないっしょ。薬は。水飲む? あ、舞のクラスどこ、普通科二−D?」
色々な事を一度に言うので、私の熱で呆けた頭では上手く理解できなかった。私の心配をして、色々世話を焼こうとする橘さんを、私はただ眺めていた。
「橘さん、もう平気ですよ。あとは寝てるから」
言っておいて何だが、自分でも驚くほど弱々しい声が出た。
「そろそろ時間だし」
私は目線で時計を示した。八時過ぎ。ホームルームは八時半なので、まだ寝間着の橘さんは今から出かける準備をしないと間に合わないはずだ。
「いや、ちょっとくらい遅れてもいいよ」
「でも、もう、あと寝るだけですし。もう、することも、あまりないですし」
「……まあ、ね」
橘さんは何か考えるように目を伏せると、呟くように答えた。それから、しばらく黙っている。何を考えているのだろう。
「うん、じゃあもう行くわ。舞、ゆっくり寝てなよ。あ、それと学生証借りるから」
「学生証」
「じゃね」
そう言うと、橘さんはあっという間に出ていった。思い立つままに行動する人だ。学生証を何に使うのか聞くこともできなかった。
橘さんがいなくなると、私は自然と目を閉じた。頭の痛みも、全身の気だるさも、眠ってしまえばきっと忘れられる。
浅い眠りから覚めた。今日は、寝ては起きてを繰り返してばかりだ。これでは、かえって疲れてしまう。薄く目を開け、私は時計を確認しようと視線をさまよわせる。
あれ。
見間違いかと思い、もう一度目を瞬かせてから、同じ場所を見た。部屋の隅に、誰かいたような……?
「舞、目が覚めましたか?」
私が確認するよりも先に、隅の人影が動いた。低く落ち着いた声と共に、近付いてくる。
「……は、はやとさん?」
黒い瞳が細められる。隼人さんはベッドの横に膝立ちになり、私の顔を覗いた。近い距離に、私は息が詰まりそうになる。心臓の音が聞こえる。風邪の所為ではなく、汗が出てきた。
「あなたの看病のために来ました。何でも言って下さい」
返事の代わりに咳が出た。咳き込みながら、橘さんがなぜ学生証を持って行ったのかを理解した。だけど、まさか橘さん自身も、隼人さんが来るとは思わなかっただろう。
「何でもって、でも、寝るだけですから」
「では、ごゆっくりお休みください。傍にいますから」
「他に、誰か、受け持っているんじゃ、ないんですか?」
風邪のせいで喉の奥が痛い。掠れた声で、私は捻り出すように聞いた。
「いいえ、今日は舞だけです」
「私?」
そんな事ってあるのだろうか。隼人さんはロボットの中でも一番人気なのだ。特にA棟の人達は、どんな細かい用事でもとりあえず隼人さんを頼むのに。そう思っていると、隼人さんは相変わらず微笑みを浮かべたまま答えた。
「緊急で入れてくれたのは、舞だけです。特に看病は、私が一番適任であると」
確かに、隼人さんは誰よりも高性能だ。微妙な力加減も、機転の利いた行動も、看病には向いているかもしれない。人よりも遅れて風邪を引いたというのが、運が良かったのだろう。
隼人さんと話すうちに、段々と疲れと眠気を感じてきた。また、浅い眠りにつくのだろう。隼人さんがいるのにもったいない、と誰かが言うかも知れない。だけどもう、限界だった。
「すみません、隼人さん。ちょっと寝ます。隼人さんも、休んで居て下さい」
「休む」
隼人さんが私の言葉を反芻した。まるで不思議な言葉を聞いたように、私を見つめている。その後、隼人さんは何か言おうと口を開いていたが、それを聞く前に私は眠りに落ちた。
「休む、私が。機械である私が……?」
「舞、起きてる?」
声と共に扉が開く。制服姿の橘さんが部屋の中へ入ってきた。
このとき私はまだベッドの中に居て、隼人さんはその傍で私の様子を窺ながらい、時々話しかけてくれていた。まだ熱は引かないし、喉の奥は痛むし、全身は重いけど、眠り過ぎてもう目が冴えてしまっていた。
橘さんは隼人さんがベッドの端に座っているのを見ると、驚いていた。
「うわ、隼人? うっそ、隼人来たんだ」
「何ですか、それ、自分でやったんじゃないんですか?」
「そうだけど、本当に来るとは思わなかったから」
普通は、隼人さんは何か月も前に予約を入れなければ借りられない。いくら緊急にしたって、隼人さんを借りられることは稀だった。
「舞が指名したのではないのですね」
今まで黙っていた隼人さんが、ふと声を出した。私を横目で見てから、橘さんに振り返る。
「橘さんが、舞のためにしたのですね」
「ん、まあね」
「そうですか」
隼人さんにしては珍しく、表情が無かった。大抵はにこやかに笑っているのに。橘さんを向いたままの、横顔の隼人さんを見ながら私は不思議に思った。
「では、そろそろ行きます」
不意に隼人さんが立ち上がり、小さく会釈をした。
「え、もう時間ですか」
「いえ、ですが、橘さんがいれば私はもういらないでしょう」
そんな事はない、と言いかけて、私は口を噤んだ。緊急で入れたのは私だけだと言っていたが、それ以外の注文はたくさん受けているのだろう。これ以上隼人さんを占有するような真似は、他の女の子達が許さない。
私は少し躊躇ってから返事をした。
「それじゃあ、隼人さん、今日はありがとうございました」
「いえ、また呼んでください」
隼人さんはそう言うと、今度はいつものように笑った。
隼人さんが出て言ったあと、橘さんは隼人さんがいた場所に腰を下ろした。私の具合を見て、思った以上に悪くなさそうだ、と安心したように言った。確かに、朝に比べれば無駄口を叩くくらいには回復した。
「橘さんって、隼人さんに、橘さん、って呼ばせてるんですね」
「何さ」
「いや、だからどうという事はないですけど」
設定をしないと、下の名前で呼ばれるらしい。橘さんの性格から、ロボットに自分好みの性格設定をするとは思い難かった。だから意外で、興味を惹いた。
「舞、あたしの名前知ってるでしょ」
「ああ、さり――」
「言うな」
機嫌を悪くしたらしい。唇を尖らせて、橘さんは言い捨てる。
橘沙梨佐。橘さんは自分の名前が嫌いだ。可愛い名前だと思うが、それが気に喰わないらしい。
「あいつら、下の名前にさん付けで呼ぶじゃない。そうすると、あたしなんて呼ばれると思う?」
さりささん。口に出すと怒られるので、私は心の中で答えた。
「五文字の中に、同じ音が三つも入ってるって明らかにおかしいでしょ。一つ多いっての」
言われてみれば、ちょっと気になるかも知れない。だけど普通は気にしないし、気が付かないだろう。
憤慨する橘さんを見ながら、私は気付かれないように笑った。
翌朝は完全復帰した。もうどこも辛くないし、咳も出ない。眠り過ぎて背中が痛い程度だった。
「舞ちゃん、元気になったんだね。昨日風邪で休んだって聞いたよ」
英理子ちゃんと会うのは久しぶりの気がする。しばらく風邪で休校だった上、授業の始まった昨日は、私が一日中寝込んでいたからだ。
「もう、ぜんっぜん平気だよ。今回の風邪は、来るときは一気に来るけど、すぐに治るみたい」
「……うん、そっか。舞ちゃん、昨日休んでいたから知らないんだね」
英理子ちゃんの表情が曇った。口元に手を当てて、何か言い出しかねている。その態度から、いい話ではないことが分かった。
「何があったの」
促すと、英理子ちゃんは躊躇いがちに答えた。
「A棟で、風邪をこじらせた子がいたの。なかなか治らなくて、お医者さんも来たんだけどね、昨日……」
「昨日?」
「亡くなった、みたいなの。西側で、クラスも特進の子だから、よく分からないんだけど、ホームルームで砂川先生が言ってて」
私は息を吸い込んだが、上手く吐きだすことが出来なかった。何か言おうと思ったのだが、何を言うべきか分からない。だから私は、間抜けの様に同じ言葉を繰り返した。
「昨日……?」
何か引っかかるものがあった。昨日、私が一日中寝ていた時に、何か無かっただろうか。大したことではない。ほんの些細な取っ掛かりに過ぎないのだけれど、何か。酷くもどかしかった。
隼人さん。そうだ、隼人さんが言っていた。緊急の用事で、看病のために隼人さんを必要としたのは、私だけだと。あのとき私は、今更風邪をひいたのは自分だけだと思っていた。だけど、そんな事は無かった。
嘘を吐いた? いや、必ずしもそうとは限らない。ロボットよりも人間の手の方が確実な事もある。具合が悪いのであれば、医者に任せた方が、きっといい。それに、ロボットが嘘をつくなんて、そんな事あるとは思えない。だけど……。
「お葬式は、外で家族の人がするみたい。仲の良かった子も、だから参加させてもらえないんだって」
英理子ちゃんの言葉に適当な相槌を打ちながら、私は考えていた。喉の奥に刺さった小骨のように、鬱陶しく、どうしても気になるのだ。
A棟の人たちが、どれほど隼人さんに執着しているか、この学校で知らない人はいない。