2−3

 西校舎自体、初等部が部活動に使う程度であまり活用されていない、薄暗い寂れた場所である。その校舎裏に夜出歩くというのは、更に不気味さを増す。私は恐ろしさに橘さんの服の裾を握り、愛海は私の腕を離さない。 
「これが物置?」 
 小ぢんまりとした小屋の前で、橘さんは立ち止まった。外灯もない校舎裏で、橘さんの持つ懐中電灯だけしかない状態では、小さな小屋の全容すらも分からない。 
「多分。他にそういう場所無かったはずですし」 
「入口はどれかな。舞、邪魔だから手、離して」 
「嫌です」 
 残念な事に、懐中電灯は一つしかない。うっかり離れたら、私は暗闇の中でさまよう事になってしまう。 
 橘さんはそんな事気にせずに、自分のペースで先頭を行く。壁に手を当てながら小屋を一回りして、扉の取っ手を見つけたようだ。 
「開かないけど。鍵かかってんじゃん」 
 橘さんの握るドアノブは音を立てるばかりで、一向に開こうとしなかった。 
「鍵開かないんじゃ、しょうがないよね。もう帰ろう」 
 愛海は若干上擦った声を出した。愛海は意外と怖がりで、学園祭のお化け屋敷にも近寄らないのだ。しかし私は、愛海の期待を裏切る事を思い出してしまった。 
「裏に回ってみたらどうかな。窓が開いてるかも」 
 ピンクのリボンの後姿が浮かぶ。友人たちに向かい、肩を怒らせていた。気の強そうな喋り方は、橘さんに似ているかも知れない。 

「あの子、外部生なんだよ」 
 首尾よく忍び込んだ私達は、狭い倉庫の中を照らして回っていた。二部屋しかない平屋建てで、隠れる場所なんて無いと思うのに、誰も見つからなかった。 
「結構きつい性格してるし、初等部に外部生なんてほとんどいないから、孤立してるみたいでさ」 
 二回り目の見回りをしながら、橘さんは言った。隅々まで懐中電灯に照らして、見落としがないか探している。 
「教師受けも悪いみたいだし、下手なことしたら、退学の可能性もあるから」 
 小屋の中は、意外に小奇麗だった。四方を棚に囲まれた内装に荒れ果てた様子はなく、むしろ丁寧に使われているように見えた。 
「橘、これだけ探して誰もいないんだよ。その後輩、帰ったんじゃないの」 
「十時に出るって言うのは聞いたんだよ。あの子たちにとって、夜中ってそのくらいだし」 
「じゃあ、来てないんじゃない?」 
 愛海はどうしても帰りたがっているようだが、一人で戻るのは嫌らしい。私の腕を掴んだまま、何度も帰るように促している。その私は橘さんの服を掴んでいるのだから、奇妙な数珠つなぎになっていた。 
 外には弱い風があったのだが、小屋の中には聞こえてこなかった。薄暗いせいもあるのか、橘さんと愛海の声はよく反響した。 
 ――おおん。 
 二人の声に混じって、何かが耳に入った。くぐもった音が、どこかから響いてくる。 
 ――あおおおああん。 
 獣の鳴き声のようだった。音に集中して耳を澄ませた。外からの音では無い。不思議な事に、外の音は聞こえなかった。風の音も、葉の擦れる音も、虫の鳴く音も獣の遠吠えも、一切が消えてしまっていた。音の元は、部屋の中にある。私は耳に任せて歩いた。 
「橘さん、ちょっとここ照らして下さい」 
 爪先が何かにあたり、私は立ち止まって言った。足もとから、捻り出すように音が漏れていた。 
「何? なにかあったの?」 
 愛海との会話を中断して、橘さんは懐中電灯を私に向けた。はじめは私の顔を照らしたが、その丸い光を下へ下へと落としていく。そして、私の足元で止めた。 
「何、それ……」 
 怯えた声を出したのは愛海だ。私の照らされた足元には小さなノブの付いた、マンホールの様な丸い扉があった。マンホールの上面には、オープンとクローズの二つの文字がある。左右に動くノブは、オープンに回されていた。 
「この下に、行ったのかな?」 
 橘さんは大して怖がらずに、怪しげな扉のノブに手を当てた。剛胆というよりも、考え無しに近いと思った。愛海は私を掴む手に力を込める。私は微かに聞こえる音が気になって仕方がなかった。ここを開けたら、何か出てきてしまうのではないか。例えばそれが幽霊ではなくても、恐ろしい野犬であるかも知れない。 
 橘さんは、何を考えているのか、何も考えていないのか、一気に扉を全開にする。 

 耳に鋭く響く音が、扉の奥から突風の様に飛び出した。まるで、獣の断末魔の悲鳴のようだ。聞こえたのは一瞬だけで、幻聴だったのではないかと疑うほど、すぐに小屋の中は静まり返った。 

「今の、なに」 
 もう、穴の中からは音は響いて来なかった。覗き込めば底は深く、懐中電灯では底まで照らせなかった。 
 私と愛海は、穴の底を及び腰で見ていた。穴は、見た目だけではなく作りもマンホールと似て、側面に梯子状の取っ掛かりがある。奥から、埃臭く生温い風が吹いて来た。 
 私達二人が見ている前で、橘さんは躊躇せずに入口に手をかけた。そのまま中に入ろうとする。 
「た、橘、何すんの」 
「入ってみないと」 
「やばいよ、それ。何か居るんだよ」 
 愛海が止めようとする。無鉄砲に思えるのに、冷静なのは愛海では無く橘さんだった。 
「だから、行かないと。万一あの子が中に入ってたら大変だよ」 
「でも、いないかも知れないし」 
「いないかどうかも、ここに居たって分からないじゃん」 
 そう言うと、橘さんは懐中電灯をジャージのポケットに突っ込み、穴の底へ下りていった。 
 愛海と私は顔を見合わせた。暗い中で、本当に見合わせているのか分からないが、いつものように愛海の方向に顔をやった。私は中に入りたくなかった。だけど、それならば残された選択肢はこのまま帰るか、ここで待っているかだ。そのどちらも、もっと嫌だ。 
「橘さん、私も行きます」 
 そこに揺れる懐中電灯の灯りに続いて、私もマンホールに手をかけた。 
「何言ってんの、舞。何考えてんの」 
「何って言っても、暗い中待ってるのも、橘さんを置いて残るのも嫌だし」 
「だからって、こんなところに」 
「まあ、愛海は好きにすればいいと思うよ」 
 そう言われて、愛海が帰るだろうとは思わなかった。なんだかんだ文句を言いながら、付いてきてしまうのだ。 
 私が穴の中に完全に身を隠してしまう頃、頭上から愛海の声が聞こえた。 
「行くよ、行けばいいんでしょ。馬鹿っ!」 



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