2−4

 相変わらず、電車ごっこの様に並びながら私達は進んだ。穴の底は小屋と同様、荒れ果てているようには見えなかった。しかし、全体的に古臭い印象で、何か出るのではないか、と思わせるには十分だった。 
「ここ、何だろうね」 
 扉の続く長い廊下を歩きながら、私は返事を期待せずに言った。誰にも分からない事は分かっていた。 
「地下施設? 幻のE棟」 
「本当に、ここがE棟だったのかな」 
 扉の前に掛けられたナンバープレートや単調な部屋の連なりは、確かに学生寮に似ていた。私達が今暮らしている寮が、あと十年も無人だったら、こんな風になるかも知れない。 
「あの子、どこにいるかな」 
 橘さんは心配そうな声を出した。あまり奥に行ってしまっては、一生見つけられない気がする。あの小さな小屋からは想像できないほど、この地下世界は広かった。 
「部屋の中も、見てみましょうか? そんなに遠くにはいないですよ」 
 手前の部屋のいくつかできっと見つけられるだろう。 

 言ってはみたものの、扉を開けるのは結構勇気が必要だった。最近やったホラーゲームや映画の事が、嫌でも頭に浮かんでくる。大抵、扉の陰に何かが潜んでいるのだ。 
 しかし、そんな風に恐れる必要は全くなかった。降りてきた場所に戻りながら、扉を一つ一つ開けていったが、何か潜むどころか、生き物の気配は一切なかった。鼠や虫の一匹もない。それはそれで、かえって怖かった。 

 入口に一番近い扉を開いたのは、橘さんだった。扉を開け、中を照らした瞬間に、小さな塊が橘さんに向かい飛び出してきた。私は一瞬、橘さんが刺されたのかと想像してしまったが、そんな事はない。 
「お姉ちゃん!」 
 小さなそれは橘さんにしがみ付き、肩を震わせている。橘さんは頭を撫でてやりながら、安堵したように息を吐いた。部屋の奥には、橘さんの明かりに照らされて、同じような大きさの影が二、三人いた。しばらく動かなかったが、その内ゆっくりと立ち上がり、私達に近付いてくる。よく見れば、みんな泣き顔だった。 
「怖かったあ」 
「帰りたいよお」 
 見覚えのある顔だ。おそらく、保健室の前に居た子供たちだろう。私は安心させるために、子供達の手を掴んでやった。 

「帰らない!」 
 ピンクのリボンは相変わらず甲高い声で主張した。名前は、杉本夕菜というらしい。その友達が美月と小夜子で、今は私の手を握ったまま離れない。気に入られてしまったようだ。悪い気はしないが、持て余していた。 
「お化けの証拠を持って帰るんだもん。まだ見つけてないもん」 
「お化けの証拠って、何。馬鹿な事言ってないで、早く帰るよ」 
「いや!」 
 橘さんと夕菜ちゃんを見ていると、本当に姉妹のようだった。お互いに主張が強くて、なかなか纏まらない。私は早く帰りたくて、少し迂闊な事を言ってしまった。 
「みんながお化けがいたって、言えればいいんでしょ? さっきの音じゃ駄目かな」 
 夕菜ちゃんに向かって声をかけた。私の言葉に夕菜ちゃんは、ひらめいたように目を輝かせた。これで解決、というわけにはいかなかった。 
「みんなでお化けを見ればいいんだね。音は駄目。あれ、お化けっぽくないもん」 
 思わず口元を押さえる。夕菜ちゃん以外は、非難の眼差しで私を見ていた。寮へ戻るのが、さらに遅れた瞬間だった。 

 これだけ人数がいれば、怖さも大分薄れる。どんな音も反響する長い廊下を、私たちは静かに喋りながら歩いていた。 
「そもそも、どうしてここに幽霊がいると思ったの」 
 橘さんは、今までよりも不機嫌そうに夕菜ちゃんに言った。 
「上の物置に、人の影を見たんだよ」 
「影?」 
「物音もなく、すっと窓に影が映って、消えたの。それで、中を見てみたけど誰もいないの」 
 子供達と愛海は顔を青くしたが、私は種が分かってしまった。誰かがこの地下へ潜って行ったという事だ。納得はしたが、恐ろしさは逆に増した。何かがこの中に潜んでいる危険がある。夜中に、こんな怪しげな場所に出入りしているのだ。真っ当な理由があるとは考え辛い。心霊ホラーから、スプラッタホラーに変わっただけだ。 

「何か聞こえた?」 
 耳を押さえながら、夕菜ちゃんが言った。夕菜ちゃんは立ち止まり集団を見回すが、みんな首を横に振った。私の耳にも何も聞こえなかった。 
「気のせいじゃないの?」 
 橘さんはそう言いながら、静かにするように合図した。半信半疑のまま誰もが息を殺すようにして、耳を澄ませる。まるで時間から切り取られたように音がなくなった。 

 耳が痛くなるほどの静けさだった。だから、今聞こえたものが実際の音なのか、それとも一種の耳鳴りの様なものなのか判別できなかった。固いものを叩き合わせる音と似た、何かが耳の奥に響いている。これが現実のものだと分かったのは、夕菜ちゃんが肩を震わせたからだ。 
「音が……」 
 震えながら夕菜ちゃんは声を絞り出した。 
「近づいてくるの。……いや、いやあっ!」 
 そう言って、耳を押さえて蹲ってしまった。そこまで大きな声ではなかったが、この静かな地下に反響し、どこまでも響いた。 
 耳を澄ませずとも、もうその音は聞こえた。足音のように規則的な音は、徐々に大きくなってくる。こちらに向かって来ている。私は棒立ちになり、動けなかった。 
「隠れよう、どこか部屋に」 
 橘さんがそう言うまで、私はまともな事を考えることが出来なかった。 

 懐中電灯に照らされた室内は、不気味な影を四方の壁に貼り付けていた。簡素な、何もないと言っていいような部屋だ。机と椅子と、あとは暗くてよく見えない。あえて照らしてみようとも思えなかった。 
「薬臭い」 
 愛海が口の中で呟いた。確かに、部屋の中には一種の異様な臭いが充満していた。薬というよりも、これはアルコール消毒液に近い。臭いの元が分からないほど、部屋の中に染みついていた。 
「病院……」 
 夕菜ちゃんが愛海に答えた。ふと口から出てきたかのように、捉えどころのない響きだ。 
「病院?」 
 橘さんが聞き返す。それに対して私は、寮のロビーで話していた事を思い出しながら言った。 
「E棟の怖いうわさの一つに、野戦病院だったって話がありましたね」 
「それがここだって言うの?」 
「さあ。でも、私には野戦病院には見えないです。綺麗だし、施設も整っていますし」 
 どちらかと言えば、そう言おうとして止めた。どちらかと言えば、の後に続く言葉が浮かばなかったからだ。私が喋るのを止めたから、また耳が痛くなるほどの静けさが訪れた。 

 静かになれば、扉の外から響く足音がよく聞こえる。これ以上音を立てるような勇敢な真似は出来ず、私達はただ音が近付くのを待っていた。近付いて、通り過ぎればそのまま戻れる。しばらくの辛抱だが、そのしばらくが、恐ろしく長かった。握りしめた手は汗で湿っている。 
 音は次第に近付いてくる。それと並行して、闇に目が慣れてきた。おぼろげな外郭だけだが、見たくないものも見えてきた。 
「いやっ」 
 美月ちゃんが声を上げた。だけど、誰もそれを咎められなかった。美月ちゃんが黙っていたならば、きっと私が叫んでいた。 
 壁の隅にある影を、橘さんが懐中電灯で照らす。もしかしたら、全然別の物かもしれない。そう、僅かな期待をかけていた。 

 人の腕や足が、部屋の隅に無造作に転がっていた。千切れたような指の欠片や、ほとんど形を保った胴体が、丸く光に照らされて、影を落としている。 
 一瞬の沈黙の後、甲高い声が上がった。誰の叫び声だかは分からなかった。私のかも知れない、他の誰かかも知れない。そんな事はどうでもよかった。私達は声を上げながら、外に誰かいる事も忘れて飛び出した。 
 部屋の外からは、見える位置には誰もいなかった。もちろんこのときはそんな事は気にしている余裕はなく、ただひたすらに出口に向かって走った。この廊下が一本道なのは救いだった。迷うことなく逃げることができる。 
「……て!」 
 私達のたてるうるさい音に混じって、耳の端に何か引っかかった。誰かの声の様でもあるし、ただ建物がきしむ音にも聞き取れた。そしてその音は、私達をさらに怯えさせた。 
 走っても走っても、この長い廊下の端まで辿り着けない。この地下は、出口というものを失ってしまったのではないだろうか。私は、半ば本気でそんな風に考えていた。 



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