3−1
弟から短い手紙が届いた。封筒から取り出し、几帳面に三つ折りにされた紙を取り出す。薄い紙に書かれた言葉の一字一句間違いなく言えるほど読み返すと、また丁寧に封筒に戻した。五年も前に会ったきりの弟は、一体どれほど大きくなっただろう。あのときは、まだ小学生だった。今は十六になっているはずだ。十六。だけど、まだ若い。
窓の外では太陽が、嫌になるくらい元気に照りつけていた。雲の切れ端も見つけられないような天気だった。風は一筋もない。窓を開けても閉めても、蒸し風呂のような暑さは変わらなかった。思い詰めようとしても、夏の暑さに頭が呆けて集中できない。
私は封筒をファイルに挟むと、部屋を出て事務室に向かった。
「今日は。お仕事の手伝いに来ました」
そう言って部屋に入ってきたのは、相変わらずぎこちない動作のナンバー十七だった。普段は滅多に指名することはないのだけれど、今回だけは十七に来てもらいたかった。
「いらっしゃい。とりあえず、まとめた荷物を運びたいから、手伝ってもらえる?」
分かりました、と言って十七は段ボールに手を伸ばした。部屋の中には、段ボールの他にほとんど何もなかった。備え付けのベッドと棚と机。棚には何も入っていないし、ベッドはきれいに洗濯されたカバーとシーツが丁寧に畳まれていた。
「どこに運べばいいですか?」
「二階の西。209号室」
一学期が終わり、寮内で部屋替えをする時期になった。今まで居た部屋を掃除し、新しい住人に開放する。感慨も寂しさもなく、ただ面倒な作業だった。前の住人と新しい住人が上手くタイミングを合わせて引っ越しをしなければ、一つの部屋に二人分の荷物がある、などという事にもなってしまう。
そう考えれば、今回は難しくなかった。209号室の部屋の主は、大分前に退学になっていた。確か、ひと月近く無断欠席をしていたためだ。やや鬱気味で、この学校にも寮にも馴染めなかったらしい。
部屋替えに慌ただしい寮の中を、私は大きな荷物を持って歩いていた。後ろから、十七が従うように付いてくる。黙ったまま並んでいるのも不気味なので、私は適当に声をかけた。
「十七は、普段どんなことしているの?」
後ろを歩く十七の動きが一瞬止まった。答えを考えるために、他の動作が鈍くなってしまったのだろう。
「普段ですか。大抵は、学校の人達の手伝いをしています」
「手伝いがないときは」
僅かな間がある。相変わらず、会話のテンポが悪かった。
「メンテナンスをして、バッテリーを落としています」
あまりにも面白くない答えだった。それに対して、「ふうん」とでも言う以外に返答が浮かばない。
「趣味とかないの? 特技とか」
「いえ」
その一言にも、やはり少しの間がある。どうしても気になって、私はつい十七に小言を言ってしまった。
「もう少し、間を縮められない? 言葉の後にすぐ答えるようになれないかな」
十七は返事をしなかった。言葉の意味を読み取るのに時間がかかっているらしい。何も言わない十七に、私はかぶせるようにして続けた。
「考え込まないでさ、はい、とか、いいえって言えばいいんだよ。例えば、私の言う事の後に、そうですね、って間を開けないで言ってみて。はい」
「……そうですね」
さっきよりはましに思えたが、その程度だった。上手く要領が掴めないようだ。
「練習するしかないね。とりあえずこれから色々言うから、はいといいえで答えてみて」
十七の会話能力の向上が、まるで私に課せられた使命のように感じた。やる気を大いに奮う私に対し、十七は間を開けて答えた。
「……はい」
まるで、溜息をついているように聞こえた。
新しい部屋で段ボールの解体も終わり、私と十七は少し休憩をしていた。クーラーが備え付けられていないこの部屋で、私も随分蒸し上がっていたが、十七はオーバーヒートするのではないかというほど熱を持っていた。原因は、私が繰り返し答え辛い質問をしたせいでもある。十七は辛そうに体を冷却していたが、私の気は随分紛れた。
「次はA棟だね」
特に返事は求めていなかった。するべきことを確認するために、ただ口に出しただけだ。しかし、そこらの融通は十七には利かない。
「十三時三十分から、南条英理子さんの部屋で部屋替えの手伝いですね。場所は」
「あ、いいからいいから。別に確認しようと思ったわけじゃないよ」
私は慌てて十七の言葉を遮ると、天井を向いて息を吐いた。テンポやタイミングの他に、十七には会話に大切なものが欠けている。
「あとは、空気を読むことだなあ」
十七は相変わらず首を傾げている。
「舞ちゃん、来てくれてありがとう」
そう言って、英理子ちゃんは私達を部屋に招き入れた。荷物まとめに疲れたのか、少しやつれていた。
「おじゃまします。一応十七も連れて来たけど」
「そう、多い方がいいものね。よろしく」
招き入れられた部屋には、よく整頓された家具と、私とは比べ物にならない量の段ボールが重ねてあった。うずたかく積まれた段ボールに隠れて、人影がある。
「悠斗さん」
明るい茶色の髪をした、軟派な容姿の男の子が部屋の中で働いていた。悠斗さんは私に気がつくと手を休めて挨拶をした。
「今日は、舞子さん」
「今日は、よろしくお願いします」
「こちらこそ」
私はこっそりと十七に目配せをすると、小声で言った。
「あれがタイミングだよ。無駄がなかったでしょ」
同じロボットとして、悠斗さんは参考になるのではないか。悠斗さんは、隼人さんと並び高性能かつ人気者なのだ。
A棟は全館クーラー完備だ。B棟の様に汗だくになる事は、きっとお嬢様には有り得ない事なのだ。B棟にもお嬢様はいるのだが、それは普通よりも少しだけお金持ちという程度である。AとBでは恐ろしく高い壁が立ちはだかっているのだ。
悠斗さんを連れた英理子ちゃんは、かなり人目を集めていた。すれ違う人たちは英理子ちゃん達に見惚れ、あるいは傍にいる人と囁き合っている。だけど、話しかける人も囃す人もなく、一種異様な雰囲気だった。
「見られるね」
私は英理子ちゃんに声をかけた。
「そうね、悠斗も人気だから」
「英理子ちゃんと一緒に居るからでしょ」
「そうかな」
英理子ちゃんの反応は悪く、これ以上この会話は続けられそうになかった。どことなく棘を感じる。英理子ちゃんは、見られることが好きではないのかも知れない。
そういえば、悠斗さんの他はどうしたのだろう。A棟でも、見かけたのはナンバーばかりだった。隼人さんと一都さんもきっと貸し出し中に違いないが、誰が借りたのだろう。英理子ちゃんが隼人さんでは無く悠斗さんを借りているのも、何か奇妙な気がした。英理子ちゃんは、隼人さんに心酔していたはずだ。
「南条さん、ごきげんよう」
英理子ちゃんの新しい部屋の前で、背の高い女の子が立っていた。彼女を目にし、英理子ちゃんは明らかに表情を曇らせた。
「ごきげんよう、城戸さん。何か御用でしょうか?」
「ええ、南条さんと仲良くお話がしたくて」
城戸、聞いたことがある。城戸と言えばもと華族で、現当主が陸軍大将である名門だ。海軍大将の南条家と並び称されている。この学校では、英理子ちゃんと肩を並べられる唯一の生徒だ。
「話すようなことはありません」
しかし、英理子ちゃんの態度は良好とは言い難かった。普段よりもずっと言葉使いが丁寧で冷たかった。
「いいえ、お話しするべきだと思いません? 私達の事や、この国の事を」
「それを話して、何になるのかしら」
「知識と友好が深まりますでしょう? 私達には必要な事ですわ」
「残念ですけれど」
英理子ちゃんは、思わず怯んでしまうほど冷たく言い放った。
「あなたと親しくする必要を感じません」
あまりに断定的な言葉に、城戸さんは呆気にとられていた。だが、英理子ちゃんは彼女に見向きもせず、新しい部屋の扉を開けて私達を促した。
「南条さん、今日は隼人を連れていないのね」
背中を見せた英理子ちゃんに、城戸さんはそう言って鼻を鳴らした。
「悠斗もお似合いよ、あなたにはね」
あまりな言い草だった。まるで悠斗さんが劣っているような言い方だ。英理子ちゃんも悠斗さんも、同時に貶めている。
しかし、私以上に英理子ちゃんが反応した。体を城戸さんに向け、強く睨みつけている。
「隼人は、私の物よ。私と一緒に居るの」
対照的に、城戸さんは落ち着きと自信を取り戻してきたようだ。薄らと笑みさえ浮かべている。
「ゆっくりお話がしたいのよ。後で、そうね、三時頃に裏のカフェで会いましょう? お友達を連れて来ても構わないわ。私も、隼人を連れて行くもの」
肩を震わせる英理子ちゃんを置いて、城戸さんは優越感を滲ませながら去っていった。私は茫然と、その後ろ姿を見ていた。A棟はお嬢様の住む場所で、嫉妬や侮蔑の様な黒い人間関係とは無縁だと思っていた。そんなこと、あるはずがないのだ。お嬢様だって、人間には違いないのだ。
「英理子ちゃん……」
名前を呼んではみたが、かけるべき言葉が見つからなかった。英理子ちゃんが珍しく悠斗さんを連れているのは、隼人さんを城戸さんに取られたためだったのだ。
「舞ちゃん」
英理子ちゃんの声は、いつもからは考えられないくらい低く冷たいものだった。
「急いで片付けよう。三時までには、カフェに着いてなくちゃ」