3−2
四人もいれば、同じ建物内での引っ越しなんてすぐに終わってしまった。約束の三時には大分間があったが、他にする事もないので私達は指定されたカフェに向かっていた。裏のカフェというのはその呼び名の通り、A棟の裏手にあるらしい。案内をする英理子ちゃんを先頭に、私達は四人でゆっくりと歩いていた。
そこは、中庭の景色が映える場所だと、英理子ちゃんが言った。ちょうど、中庭が右手に見える渡り廊下を歩いているところだった。枝葉を整形された背の低い木が並び、足元には几帳面に花が並んでいた。合間を縫うようにして、飛び石が置かれている。この場所からは見えないが、小さな池も作られているらしい。和洋折衷した中途半端な装飾だったが、悪くなかった。
「逆に言えば、中庭以外は見えないようにしてあるの」
英理子ちゃんはそう言って、少し左側に道を外れた。中庭に相対して、左側は木々にうっすらと陰っている。無造作に伸びた枝が張り出し、手入れのされていない下草が茂っている。ところどころに見える白い粒は、よく見れば花だった。雑草の花は、花としても認識されない。
「舞ちゃん、不気味なもの見せてあげるよ」
英理子ちゃんは私を中庭とは反対側に招いた。私はわざわざ不気味なものを見たいと思うような良い趣味はしていなかったが、英理子ちゃんは顔を歪ませて笑うと、一人で奥へ行ってしまった。私は慌てて後を追い、中履きのまま湿った土を踏む。夏の暑い日差しは木の枝葉に遮られ、湿り気のある空気が満ちていた。たまに風が吹けば、ひやりと冷たくて心地よかった。
鬱蒼と茂るというほどでもない雑木林は、誰が通ったのか踏み固められた道を行けば、歩きやすい散歩道に感じられた。英理子ちゃんは私が付いてきている事を確認するため、時折振り返りながら進む。十七と悠斗さんは後には続かず、渡り廊下で待っていた。英理子ちゃんの様子を見て、気を利かせてくれたのかも知れない。
英理子ちゃんは立ち止まった。私は追いつくと、隣に立ち目の前に広がるものを見た。
そこは木々の切れ間だった。林の終わりではなく、むしろ深淵ともいえる場所に思えた。そこだけ、忘れられたように丸く切り抜かれている。一本の木もなく草もなく、しかし、入口よりも一層光は遠かった。地面は緑の草が茂る代わりに、規則的に並べられた大きな石が、むき出しの地面に置かれている。
「お墓?」
「そうみたい」
肌寒く感じた。冷たく淀んだ空気が満ちている。動けなくなって立ち止まり、そのまま誰からも忘れられてしまったような、物悲しい気配があった。不気味な場所とは、確かにここを指すだろう。
「ここはね、動物が埋められているの」
英理子ちゃんの表情は、薄暗くて上手く読み取れなかった。いくら木が茂っているからといって、顔の動きが見えなくなるほど暗いわけではないのに、どうしてもよく見えない。
「可愛がっていた動物が死んでも、目の前に死んだ生き物が転がっていても、誰も埋めようとしないの。何も思わないで、ただ気味が悪いと顔を顰めるだけ。私もね」
そう話す声は、深く沈んだこの場所に溶けあっていた。何も思わないなんて、嘘だ。少なくとも英理子ちゃんは。
「ここはね、全部砂川先生が作ったの」
砂川先生、と私は声に出してみた。意外な気がした。ここで、その名前が出てくる事も、この墓を造ったというのも、英理子ちゃんが口にするというのも、どことなく違和感がある。
「知っているのに、誰も手伝わないの。そうして、いつの間にかこの場所にも近寄らなくなって、まるで死んだように不気味な場所になっちゃった」
もしかしたら、初めは陽のあたる暖かな場所だったのかも知れない。それが、月日が経つうちに、砂川先生の他に誰も知らない、忘れられた場所になってしまった。
「A棟はね、みんなそうなの。誰が死んでも、何がいなくなっても知らない。ずっと、そんなものは見えないように、この学校に入れられて、目隠しをされてきたの。本当は、そんなこと」
「英理子ちゃん」
私はさらに言葉を続けようとする英理子ちゃんを遮った。英理子ちゃんが何を言いたかったのか、分かってしまった。英理子ちゃんの所為じゃない、恨んでない。そう言おうと思ったのに言えなかったのは、私の中に消化しきれない部分があるからかも知れない。
「何も言わないでいいよ」
だけど聞きたくはなかった。何を言っても現状は変わらないし、私達にできる事は、何もないのだ。
来た道を同じように辿って戻った。少しずつ光が増してくる様は、地下から抜け出すときの心地に似ていた。息苦しさが次第に解かれていくのは爽快だった。
しかし、戻れば戻ったで、何か騒がしい事が起こっていた。悠斗さんと対峙して、女子生徒が一人激情している。
「悠斗、お願いあたしと一緒に来て」
「悪いけど、今は別の仕事中なんだ。あとで予約を入れておいてくれ」
「今じゃなくちゃ駄目なの。お願いよ」
間の悪いときに帰ってきたようだ。悠斗さんは英理子ちゃんに気がつくと助かったとでもいうかのように目を細めた。
「英理子さん」
悠斗さんは一歩引き、英理子ちゃんに近付いた。もちろん、相手の女の子の逆鱗に触れたようだ。
「南条さん、悠斗から離れて」
「私? なぜ」
「悠斗は、あたしの恋人だもの」
英理子ちゃんは面倒臭そうに首を振った。ため息を吐いて、相手に諭すように言う。
「悪いけれど、五時までは私が借りているので。まだちょっと、やってもらう事もあるから」
「あたしの方が、もっと大切な用なのよ」
「それなら、別の人に頼んで頂戴。どうしても悠斗が良いのなら、予約を入れなおすのね」
「予約?」と彼女は繰り返した。目を瞬かせ、何か言いたげに口を開いた。
「予約? どうしてそんな事をする必要があるの。あたし達は、恋人なのよ」
彼女は悠斗さんに目を向けた。何かを期待するように輝いている。彼女は本気だった。
「そういうのは、正式に借りてから悠斗に頼みなさい。今は、あなたの恋人ではないの」
「なによ、あたし達は愛し合っているのよ。悠斗は、何度もあたしにそう言ってくれたわ」
何を言っても無駄だった。彼女は繰り返し、悠斗さんとの関係を主張した。語気は荒くなり、射抜くように英理子ちゃんを睨んでいる。それこそ、恋人を奪われた女の様だった。
英理子ちゃんは目を伏せ、小さく頭を振った。
「行きましょう」
私達を見て、先を行くように促した。
「いいの?」
「いちいち相手にしてたら、きりがないよ」
「悠斗さんに用があったんじゃないのかな」
「多分、一緒にお話ししましょう、くらいだと思うよ。そこで、自分の不安を慰めてもらいたいの」
英理子ちゃんは一度だけ女子生徒に振り替えると、そのまま先へ進んでしまった。悠斗さんは振り向かず、黙ったままその後に従った。私は悩んだ末、彼女を置いて行くことにした。どんなに哀れに思えても、私が掛けられる言葉などないのだ。
「悠斗、いつもの悠斗はどうしたの? ねえ……」
背中から、縋りつくような声がした。声は次第にすすり泣きに変わり、その内聞こえなくなった。
「いちいちってどういうこと?」
私は前を行く英理子ちゃんに尋ねた。英理子ちゃんは振り返らず、歩調だけ少し遅くしながら答えた。
「そのままの意味。多分、今日一日ここにいれば分かると思うよ」
「さっきみたいなことが頻繁に起こるの?」
「色々とね」
私はようやく英理子ちゃんに追いついた。そこで初めて、英理子ちゃんの表情が暗いのを知った。眉根を寄せ、視線を落ち着きなく彷徨わせている。私がその様子を見ている事に気がつくと、強張った笑みを浮かべた。
「言い訳するけどね」
英理子ちゃんは歯を噛み合わせて、苦いものを吐き出すように言った。
「あの子の気持ち、分からなくもないの。物心つく前から外の世界と隔絶されて、肉親以外に男の人を知らないから。それに私達、卒業したらいつの間にか決まっていた相手と結婚させられるの。だから、生まれて初めてで、最後の恋なの」
恋。英理子ちゃんは言った途端に頬を赤くした。私としては、そういう意見もあるのだろうと至極真っ当に聞いていたのだが、恥ずかしいのは言葉を口にした本人らしい。
「だけど、ロボットだよ」
「知っている」
英理子ちゃんが顔を赤くしたのは、言葉面だけの恥ずかしさではないのかも知れない。もっと、内面に触れる何かが英理子ちゃんを染め上げたのだろう。女子生徒の話は、英理子ちゃん自身の話でもある。
「関係ないの。そういうのは、落ち着いてからゆっくり考えればいい事。今は、傍に居て自分を大切にしてくれる誰かがいればいいの。彼らは必ず応えてくれて、裏切ったりしないから」
私達は並びながら歩いた。後ろから二人のロボットが付いてくるが、何も口を挟まなかった。私は声を落として、英理子ちゃんだけに聞こえるように言った。
「そういう風にプログラミングされているからだよ」
借りているときだけは、理想の恋人として振舞ってくれるだろう。だけど、それ以上を期待しても、先ほどの生徒のようにあしらわれるだけだ。
「だけど、期待するのよ。もしかしたら、私だけはって。私だけは、特別なんじゃないか、どんなに沢山の人に同じ愛を囁いても、私だけには本当の事を言っているんじゃないかって」
英理子ちゃんは、一度大きく息を吸った。そのまま溜息を出すのかと思ったが、代わりに溜まっていた言葉が出た。
「いつの間にか、一緒に居る時の姿だけを真実と思うようになるの。自分で設定した性格なのに、それが自分にだけ見せる本当の姿だ、って。だから、他の人と居る時は全部嘘。私だけが、私にだけ、そうやって」
英理子ちゃんは一度立ち止まり、正面を見たまま言った。声は絞り出すように細く小さかった。
「そんなわけないのにね」
無理しておどけているような気がして痛々しかった。英理子ちゃんは悠斗さんに縋る少女を見て、自分を思い浮かべたのだろう。英理子ちゃんは、抜け出したくても抜け出せない、底のない泥沼に嵌ってしまっているようだった。
「うちのところにおいでよ」
私は、意識しないままにこんな事を言っていた。
「B棟においでよ。英理子ちゃんの性格は、ここには向かないよ」
英理子ちゃんは何か言おうと口を開けたまま、結局何の音も発さずに私を見ていた。私達は黙ったまましばらく歩いた。右に見える中庭は光を浴びて、健康そうな木が空に枝を伸ばしていた。だけど、対象性が悪く見えるから、いずれ切られてしまうかも知れない。そうして整えられても、またきっと伸びるのだろう。
渡り廊下の終わりで、英理子ちゃんは呟くように言った。
「それがいいのかも知れないね」
「そうだよ」
やっと、英理子ちゃんは私に振り向いた。
「考えておくよ」
しかめ面のまま顔を崩しているのは、笑顔のつもりだろうか。何を考えているのか分かり辛かった。感情がロープの上をふらふらしながら歩いているみたいだ。どこにでも転んでしまいそうで、危なっかしい。