5−3

 背後で辰哉が動く気配がした。 
「辰哉」 
 魔法が解けたように、私の体の強張りは消えた。彩樹さんは先ほどの事などなかったように微笑んでいる。緊張の残りを振り払うために頭を振ると、私は辰哉に向いた。 
「起きた? 具合は」 
 辰哉は半身を起こし、目をこすっていた。はじめに私を見て、次に彩樹さんを見ると、もう一度目をこすった。 
「お姉ちゃん、誰」 
「彩樹さん」 
「彩樹さん、男の人……」 
 辰哉は瞬きをし、次の瞬間跳ね上がった。 
「お姉ちゃん、この人ロボット」 
「こんにちは辰哉君」 
 混乱する辰哉に、彩樹さんは片手を上げて挨拶をした。辰哉はさらにうろたえて、私にしがみついてきた。 
「お姉ちゃん」 
「大丈夫だよ、この人は彩樹さん。辰哉の事黙っててくれるって」 
 辰哉は睨みつけるように彩樹さんを見た。彩樹さんは相変わらず穏やかな笑みを浮かべながら、危害を加える気はないと言いたげに両手を上げた。 
 しばらく睨みあった後、辰哉は私を掴む手を僅かに緩めた。よほど恐ろしかったのか、私を見上げる瞳は潤んでいた。 
「お姉ちゃん、トイレ」 
 信じられないくらい情けない声だった。 

 個室にトイレがないというのも、B棟最大の欠点だった。そう遠い距離ではないが、いちいち部屋を出なければならないというのは面倒だった。女子トイレしかないというのも、今の状況ではよろしくない。辰哉はもう何度も使っているくせに、躊躇いながらトイレに入って行った。 
「彩樹さんは、大学に居なくていいんですか?」 
 私は彩樹さんと外で待っていた。長い時間かかるわけではないだろうが、黙っているのも居心地が悪かった。 
「僕は人気がないからね。一応、名前も付いているのに」 
 彩樹さんは肩をすくめたが、全く苦痛には思っていないようだった。かえって清々すると思っているのかも知れない。 
「大学にもいるんですね」 
「中学にもいただろう? 確か舞ちゃんは中等部からだよね」 
「中等部は二人だけでしたよ」 
 思い出してみれば、中等部に居た頃にも名前の付いたロボットがいた。中学生に合わせた年頃の男の子が二人。数が少ないせいか、彼らはほとんど一部の内部生に独占されていたために接点がなかった。顔と名前が一致していない。 
「初等部には一人だけ、中等部に二人、高等部には三人。それで大学も三人」 
「そうなんですか」 
「特に高等部には力を入れているんだよ。隼人なんか最高傑作だと言われている」 
 隼人さんを思い浮かべて、私は頷いた。あのさり気無い動きやいくつもの表情のパターンは、他のどのロボットにも無かった。 
「感受性の強い年頃だからね、高校生は。中等部は幼すぎるし、大学は少し年を取り過ぎている」 
 彩樹さんはそう言うと、壁に凭れかかった。息をつくと、私を横目で見て微笑んだ。 
「恋せよ乙女、てね。でも、あまり夢中になったらだめだよ」 
 どう返事をすればいいのか分からず、私は曖昧に首を傾げた。彩樹さんが態度を決めかねる私から目を離さずにいるので、居心地が悪かった。私は出来るだけ目を合わさないように視線を泳がせた。 
 秋の風が吹いていた。窓が開放された廊下は、日差しは暖かいのに少し肌寒い。誰もいない寮は寂しげだった。 
「舞ちゃん」 
 彩樹さんが私の腹を小突いた。遠くを見ていた私の目は、焦点を近くに合わせるのに少し時間がかかった。私は彩樹さんを見上げて言った。 
「何ですか」 
 彩樹さんが顎を突き出したので、私は反射的に示された方向を見た。廊下の奥から、見覚えのある人影が近付いて来ていた。 
「十七」 
 十七はまた雑用をしているようだ。両手いっぱいに荷物を抱えて歩いている。私が声をかけると十七はぎこちなく立ち止まり、その荷物の一つを落としてしまった。 
「大丈夫?」 
 私は駆け寄って、落ちたものを拾った。見覚えのある、柔らかい犬のぬいぐるみだ。何年も可愛がられてきたのだろう、日焼けして色は変色し、ところどころ毛が抜けていた。このぬいぐるみの持ち主を知っている。私と同じクラスに居た、B棟の寮生だ。彼女は最近学校を辞めた。 
「ありがとうございます」 
 私の手からぬいぐるみを取ると、十七は目を逸らしながら言った。いつものように笑わない。瞳を伏せた表情は、どこか不機嫌そうだった。 
「十七、どうかした?」 
「いえ」 
「いえってことはないでしょう。怒っている?」 
 怒られる要素などあっただろうか。私は記憶を混ぜ返してみた。最後に会ったのは、確か大学見学の日だ。十日ほど前、そこで私は十七と何を話しただろう。頭の端に引っ掛かるものがあった。十七が怒っていると感じるのは、私に後ろめたいことがあるからだ。 
「呼ぶって言っていたのに、ごめん」 
 忘れていたのだ。私は申し訳なく頭を下げた。 
「舞子さん」 
 十七は躊躇いがちに私を見た。少しだけ機嫌を直してくれそうな気配があった。しかし、十七が笑顔の表情を作っているときに、水の流れる音が聞こえた。 
「ごめん、十七ごめん」 
 私は慌てて十七を押し返した。来た道を戻る形になってしまうが、今トイレの前を通らせるわけにはいかなかった。 
「また今度ゆっくり話すから、戻って」 
「舞子さん、どうして」 
「悪いけど、とりあえず戻って」 
「こちらに用事が」 
 私の力では十七を押し返す事は出来ない。上手い嘘も思いつかず、説得をする事も出来なかった。とにかく今は十七を諦めさせて、辰哉の身の安全を確保しなければいけない。十七はほとんど無表情のままだったが、困惑しているようだった。いつも以上に固い動きで、私を見下ろしたまま一歩下がった。 
 もう一歩下がらせようと私が十七を押したとき、私は固い壁を押している感触を得た。十七が立ち止まったまま、何の反応もしていないのだ。十七は私に合わせていた視線を、一時間もかけているのではないかと思うほどゆっくりと上にあげた。私もその視線の先を見る。 
「辰哉……」 
 タイミングというものは確かにある。辰哉は、ある意味で最高のタイミングを心得ていた。 



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