5−5
彩樹さんは私の部屋に戻っていた。ベッドの上には十七が寝ている。妙に焦げくさい匂いがすると思っていたら、彩樹さんが先手を取って謝った。
「ごめん、舞ちゃん。温度が良く分からなくてさ」
「シーツ、黒くなっていますよ」
「燃えるほどじゃなかったしさ」
私は溜息をつくと、一つしかない椅子に辰哉を座らせた。忘れていたが、辰哉も病人なのだ。辰哉は椅子に凭れかかると、疲れ切ったように目を閉じた。額に薄く汗をかいている。
「辰哉、大丈夫?」
「うん、もう具合はそんなに悪くないよ。ただ、緊張したから」
「ごめんね」
「お姉ちゃんが謝ることじゃないよ」
そう言うと、辰哉は静かにしてくれというように手を振った。ゆっくりと息をしながら、体の力を抜いていた。私はそれ以上辰哉に言葉をかけるのを止めた。
彩樹さんはベッドの端に腰かけながら、十七の様子を見ていた。私には横顔を見せながら、柔らかく微笑んだ。
「やっぱり頑丈だね。さっき確認したけど、十七は大丈夫だよ。いくつかコードが切れちゃったみたいだけど」
彩樹さんは十七の頭をひと撫ですると、私に顔を向けた。
「感情に訴えるのは悪くなかったね。ナンバーは処理が下手だから」
「感情?」
「そう、受け流すことができなくて、オーバーヒートしたんだよ。十七が舞ちゃんのことにかなりの容量を割いていたせいもある。そのせいで処理が複雑になり過ぎたんだ」
私は顔を顰めた。ロボットに感情があるという事が信じられない一方で、まるで人間のような彩樹さんの姿を見てきた。私の頭の中は、何も整理されていない部屋のようだった。
「僕達に感情があるのは奇妙かい?」
私の様子を見た彩樹さんは、特に気にした風もなく言った。奇妙だと答えて、彼らが傷つくのかどうかも私は分からなかった。しばらく彩樹さんは私を見ていたが、何も答えないと分かると言葉を続けた。
「正直に言えば、僕にも分からない。まあ僕はこんなだけど、基本的に僕達の行動は全てパターンで与えられているんだ。悲しいときはこういうとき、嬉しいときはああいうとき、ってね。性能が上がるほど、パターンは複雑になっていくんだ。隼人なら、どの状況でも適切な感情を表せるよ。だけど、こういうのは感情と呼ぶのかな」
彩樹さんは寂しそうに笑った。寂しそうに見えたのだ。私には感情の定義など知らないけれど、彩樹さんが何をどう考えているのかを推し量ることはできる。
「分からないです。でも、そういうものだと思います。答えなんて考える方がおかしい」
「ありがとう」
彩樹さんは目を細めると、そのまま天井を向いた。どこかを睨みつけながら、独り言のように言った。
「だけど、与えられていない感情は分からないんだよ。おかしいと思っていても、自分で何をしているか分からない時がある」
私は彩樹さんに言葉をかけられなかった。彩樹さんの気持ちが分からないのだ。私は人間だけど、感情を使いこなせていない。ロボットと人間の違いは、どこにあるのだろう。
私が肺の中に溜め込みすぎた空気を吐いたときには、彩樹さんはまた微笑みを浮かべていた。横目で十七を見ながら手遊びをするようにシーツの焦げ目をなぞっていた。
「多分、十七はもう辰哉君の事を報告したりしないよ。命令を実行するための回線が無くなっちゃったからね」
「どういう事です?」
私は驚いて十七を見た。外観からは、壊れているようには見えなかった。穏やかに寝ているように見える。
「熱で焼き切ったんだよ。こんなことできるなんてね」
彩樹さんは感心したように溜息を洩らした。
「自分の意思かも知れないし、ただの偶然かも知れないけどね。いずれにしろ、もう安心だ」
私はベッドを占拠する十七に近寄った。額に触れてみると、まだ微かに熱を持っていた。人間の体温のようだった。
辰哉はいつの間にか眠ってしまったようだ。十七も起きる気配がない。ロボットに起きる気配というものがあるかは知らない。窓から風が吹き込んで少し寒かったので、私は割りばし程度の隙間を残して窓を閉めた。
「それにしても、舞ちゃんは怖いもの知らずだね」
彩樹さんは呆れたとでもいうように肩をすくめた。馬鹿にされたように感じて、私は唇を尖らせた。
「どういう意味ですか」
「辰哉君のためなら、命惜しまず、って感じだから」
「命は惜しいですよ」
私は寝息をたてる辰哉を見た。私によく似た面差しで、今は弱々しく体の力を無くしている。私は命を惜しく感じるが、辰哉にも死んでほしくない。もちろん、出来る事なら誰も死んでほしくない。
「でも辰哉は、たった一人の家族ですから」
「うん? 親がいるだろう?」
「いませんよ」
彩樹さんは目を見開いて、私と辰哉を交互に見ていた。私にとっては彩樹さんの態度の方こそ意外だった。
「私、外部生ですよ」
「それは知っている」
「外部生って、何だか知らないんですか」
「中途入学者の事じゃないのかい?」
私は頷いた。間違ってはいなかった。しかし大事な部分が欠けている。私は彩樹さんを覗きこむように見た。
「私達、戦災孤児ですよ。親を亡くした子供たちを、この学校が引き取っているんです」
「え」と彩樹さんは空気が擦れただけのような声を漏らした。口を開けたまま動かなくなってしまった。何かを咀嚼するように、瞬きだけを繰り返している。
「外部生は外に存在がない。この中だけで完結している。そういう事なのか?」
彩樹さんは私の事が見えていないように、一人呟いていた。
「そのために居るのか。だからあれは、僕は……」
苦しげに胸を掻き、何度も否定するように彩樹さんは頭を振った。自分を責めているようだ。慰めの言葉をかけたかったが、私には彩樹さんが何を苦しんでいるのかも分からなかった。
「何で分からなかったんだろう。今まで、僕のしてきた事は」
跳ね上がるように立ち上がると、彩樹さんは私に一瞥をくれた。目元を歪めた表情は、まるで泣いているようだった。
「ごめん、ちょっと行くね。咲に伝えないと」
扉を開け放して、彩樹さんは駆けて行った。後ろ姿の消えた入口を眺めながら、私は茫然としていた。十七に触れた手が痛み出している。火傷をしてしまっているようだった。