6−1

 秋も終わりが近かった。長い廊下にはどこからともなく風が吹きぬけ、体操服姿の私達はジャージを羽織っても震えていた。せめて教室待機ならば暖房が効いた部屋にいられるのに、こうして長い事並ばせることに一体何の意味があるのだろう。 
「また検診か」 
 愛海は両腕で体を抱きながら文句を言った。 
「元気じゃん、どう考えても。じゃなきゃこんな寒い中ジャージでいないっての」 
「夏休み中に検診しなかったから、ここに回ってきたのね。仕方無いよ」 
 英理子ちゃんはなだめるように言った。どちらかといえば、愛海よりも英理子ちゃんの方が寒そうだ。顔はいつもよりも白さを増して、風が吹くたびに体を震わせていた。 
「そういえば、今日は予防接種もするって」 
 私は数日前に伝えられた健康診断の説明を思い出しながら言った。最近、世間で流行っているらしい病気の予防らしいが、この学校の中にいては全く分からない。ただ注射が嫌いで面倒なだけだ。 
「めんどくさ。そんなものしなくても死なないって」 
「まあね」 
 私はそう言って、ジャージのポケットに手を入れた。この調子では、冬に検診をすれば風邪引きが出るだろう。本末転倒だ。私は溜息をついた。吐いた息は、まだ白くなかった。 

「ねえ、ちょっと」 
 誰かが私の肩を叩いた。振り返ると、見下ろす位置に頭がある。バランスの悪い眼鏡をかけた高木さんだ。 
「久しぶり」 
「お久しぶりです」 
 高木さんは眼鏡のつるを押し上げると、私の肩を抱いた。口の端を持ち上げて私に顔を寄せると、小声で囁いた。 
「とりあえず出来たから」 
「出来た?」 
「ラジオ」 
 声をあげそうになった私の口を、高木さんは慌てて押さえた。静かにするように目で合図をする。私はいつもより一段声を落として尋ねた。 
「あれは中止だって言いましたよ。ばれちゃっていますもん」 
「そんなんで諦めるわけないだろう。だから一人で作ってたんだ」 
「一人で」 
 高木さんは口の端を持ち上げ、眼鏡の奥で目を細めた。 
「今日の夜に、信頼できる人を集めておいて」 
 そう言うと、高木さんはそのまま小さな体でどこかへ駆けて行った。 
「高木やべえな、変な女」 
「ラジオ? 何の話?」 
 ぼんやりと高木さんの後姿を追っていた私に、愛海と英理子ちゃんが同時に話しかけてきた。密やかに話していたつもりだったが、聞こえていたのだろうか。 
「心配しなくても、多分周りには漏れてないよ。聞いたって分からないだろうし」 
「ねえ、ラジオって何?」 
 辺りを見回しても、私達に興味を持っているらしい人間はいなかった。安堵して肩の力を抜くと、私は英理子ちゃんを見て言った。 
「今日の夜、多分九時過ぎくらいに、三階のホールに来て」 

「ラジオとは何ですか」 
 扉が開放されたままの保健室に入ろうと思ったそのとき、背後から声を掛けられた。私が驚いて振り返ると、背の高い女性が立っていた。眼鏡をかけ、スーツを折り目正しく着ている。顔は精彩を欠いて、体全体からくたびれた気配を放っていた。私ははじめ、目の前の女性が教頭先生だと分からなかった。いつも精力的で威圧感を持つ教頭先生とは、まるで対照的な様子だった。 
「ラジオとは何のことです」 
 どこにも響かないような声で、同じ言葉を繰り返した。私を見る教頭先生の瞳は眼鏡に隠れ、そこだけ虚ろな節穴に見えた。もしかしたら、私は驚いて逃げ出すべきだったのかも知れないし、上手い言い逃れを思いついて煙に巻く必要もあったのかも知れない。だけど私は秘密を知られたことよりも、教頭先生のまるで疲れ切った様子に思考の全てを持っていかれてしまった。 
 私は立ち尽くしていた。傍にいた愛海も、何も知らないはずの英理子ちゃんも、一言も音を出さずに教頭先生を見つめていた。 
「もう無茶な事は止めなさい、大人しくしていなさい」 
 教頭先生は神経質に目を瞬かせていた。以前よりも痩せた体と、増えた白髪が目に痛い。私の目は逸らしたくても、三脚の上のカメラのように固定されていた。 
「もう庇いきれないの。あなた達も四ノ宮さんも、砂川も――」 
 ヒステリックに声を上げながら、教頭先生は頭を抱えた。震える声を出しながら、何か振り払おうとするように頭を振り続けている。 
「お願いだから、これ以上何もしないで。お願い」 
 取り乱した教頭先生を中心に、人だかりができていた。あの教頭先生が。私は茫然と、人事のように見ていた。何が教頭先生をこれほど追い詰めたのだろう。私達の行動の、一体何が負担になったのだろう。 
 しばらくしてから、中年の教師らしき人物がロボットを従えてやってきた。彼女が短く命令すると、ロボットは忠実に頭を下げた。教頭先生に近寄りその体を持ち上げると、ロボットと彼女は去って行った。誰も止める事は無かったし、口を挟む事も無かった。ただ静かに、淡々と二人が教頭先生を連れて行くのを見ていた。私はこれが、何かの冗談のように思えた。 
 その姿が見えなくなると、何事も無かったかのように時間が動き出した。私語は禁止されているのに囁き声でうるさい廊下と、少しずつ進む列は、何もおかしいところがない。いつもどおりだ。 

 注射は痛かった。それ以上に何の感想も無い。細い針を抜いた腕を看護婦さんが消毒しながら、業務用の笑顔で「あとから熱が出るかもしれない」と言った。 
 外では先に注射を終えた愛海がいた。英理子ちゃんはまだ中にいるだろう。保健室の中に、狭い癖に人を詰め込み過ぎたせいだ。間に人が挟まってしまったために、もう少し時間がかかりそうだった。 
「それにしても、寮ごとの検診なんてのは初めてだよね」 
 愛海は注射を受けた右腕を押さえながら言った。 
「そうだね。いつもはクラス単位だから」 
「これなら寮でやればいいんだよ。授業がつぶれるのはいいんだけどさ」 
 私は特に返事をする必要も感じなかったので、頷いただけで黙った。私が何も言わなくても、愛海は気にせずに喋り続ける。たまに相槌を貰うだけで満足なのだ。 
「だいたいこの歳で予防接種ってなに。インフルエンザだって、注射なんてしないし。面倒だし痛いし、しかも今日はこれで終わりでしょ。時間、無駄遣いしてんじゃん」 
 私は保健室の廊下を、意味もなく眺めていた。英理子ちゃんが出てくるまでに、廊下の塵の位置まで覚えられてしまいそうだ。 

 遠くを眺めていると、私の脇を小さな体が通り抜けた。見覚えのあるピンクのリボンだ。 
「夕菜ちゃん」 
 思わず声をかけると、夕菜ちゃんはまるで後ろから紐で引っ張られたような止まり方をした。私に振り返った顔は、「驚いています」と言うよりも分かりやすく目を見開いていた。 
「ま、ま……舞お姉ちゃん?」 
 私の名前をよく覚えていなかったらしい。仕方無いだろう。夏休み前に会ったきりなのだ。 
 夕菜ちゃんは私に駆け寄って来ると、小さな瞳で見上げた。今日は他の友達もいないようだ。寂しいのか、私の服の裾を掴んだ。 
「あれ、肝試ししてた他の奴らはいないの? 今日は一人?」 
 愛海は辺りを見回しながら言った。私達の検診の前後が初等部だったのか、周囲には初等部生の姿もいくつか見えたが、夕菜ちゃんの友達は見つからなかった。 
「ひとり」 
 やけに小さく、響かない声だった。口から出すのも嫌だというような口調だ。 
「ずっとひとり」 
 良く見れば夕菜ちゃんは、微かに震えていた。私を見上げる目は濡れているように歪んだ光を写し、口元は固く食いしばっている。 
「どうしたの?」 
 私は夕菜ちゃんのピンクのリボンを崩さないように頭を撫でた。子供らしい柔らかい髪は私の指を軽くすり抜ける。夕菜ちゃんは頭を私に撫でられたまま、潤んだ瞳で見上げていたが、だんだん目元に力がこもっていくのが分かった。 
 耐えられるだけ耐えてから、夕菜ちゃんは私に抱きついた。腹のあたりがじわりと染みていくのを感じた。 
「いなくなっちゃったの。転校したなんて嘘。急にいなくなっちゃったの」 
 締め上げるような強い力だった。夕菜ちゃんは私に顔を押しつけながら、泣き声をあげた。 
「全部置いて、いなくなったの。交換日記も、約束も、全部。全部!」 
 私は夕菜ちゃんの背中を擦った。締め付けは、更にきつくなった。夕菜ちゃんは、医者が驚いて注射針の狙いを外してしまうのではないかと思うほど、声を張り上げて泣いた。 



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