6−2
寮に戻ると祥子がいた。普段ならば特にどうという事はないのだが、今日は泊まりで撮影があると言っていたのだ。三階ロビーで足を伸ばしながらテレビを眺めている祥子は、趣味の悪い置物のように見えた。
「祥子、戻ってたんだ」
私は祥子の傍のソファーに座りながら言った。
「うん」と祥子は喉の奥から押し出すように返事をした。
「今日は健康診断があったんだよ」
「うん」
「予防接種も。帰ってきたなら受ければ良かったのに」
「受けた」
まるで精気の籠らない声だった。祥子の言葉は私の頭になかなか届かず、言った意味を理解するのに時間がかかった。
「受けた?」
「うん」
「どういうこと」
祥子は目をテレビに向けたまま、億劫そうに口を開いた。低く掠れた、疲れた声だった。
「先生が来て、全員参加だからって。あたしもたっちゃんも」
「たっちゃん」
私は思わず聞き返した。先生が来て辰哉に注射を? いくら辰哉が女の格好をしていたって、この学校の生徒ではないと分かるだろう。それとも本当に知らない誰かだろうか。学校専属の医者なら、確かに学校の生徒全てを把握しているわけではないだろう。
「その先生、誰か分かる? 辰哉について何か言ってなかった?」
「砂川先生」
「え」と私は息を漏らした。予想もしていない言葉だった。
「砂川先生が、何で」
「うん」
医者でもないのに、砂川先生が何をしたというのだろう。しかし私の狼狽をよそに、祥子はテレビを向いたままほとんど返事もしなかった。点いているのは、全く面白くもないドラマだ。見ているようで見ていない祥子の目は、焦点が合っていない。辰哉の事も気になるが、祥子も放っておけなかった。
「祥子、今日はどうして早く帰ってきたの」
「うん」
「何かあった?」
「うん」
押しても何の手応えがない。祥子はこれ以外に言葉を知らないかのように「うん」を繰り返していた。
「祥子、どうしたの」
私は耐えきれずに祥子の肩を掴んだ。いつものような、私を不愉快にさせる態度はどこに行ったのだ。祥子を正面から揺さぶると、その瞳がゆっくりと私に焦点を合わせた。
「舞」と祥子は、初めて私の存在に気がついたように言った。
「祥子、今日はどうしたの。何かあった?」
「舞、あたし」
祥子は縋りつくように私の胸元を掴んだ。声を震わせて、まるで全力で走ってきた後のように肩で息をしていた。
「あたし、もう嫌なの。ドラマなんて撮らない。どうしてあたしが、戦争を称える話なんか演じるの。あたしにだって、プライドはあるのに」
私を締め上げるように、祥子は胸元の手に力を込めた。私は今日、二度までも感情の捌け口としてねじり上げられている。一体どんな厄日だというのだろう。
「何百年も前の戦争じゃないのよ。こんなこと繰り返して、滅んだ国がいくつあると思っているの」
祥子がまともな事を考えて言っている。私は祥子に悩みがあり、これほど苦しんでいた事など、全く知らなかった。私は祥子の背に手を回すと、宥めるように体を揺すった。
自室へ向かう途中で、雑用をしている十七に会った。両手に一杯の荷物は、洋服や鞄がほとんどだった。十七は私に気がつくと立ち止まり、固い動きで頭を下げた。
「今日は、舞子さん」
「十七、今日も部屋の片付け?」
「はい。305室を引き払っています。先日学校を辞められた」
「知っている。江本さんでしょう。あの人も外部生だね」
別れの挨拶も何もなく江本さんがいなくなった事を、私達は訝しんだものだ。以前から、外部生には稀にこういう人がいたが、最近は妙に多かった。荷物の詰まった空き部屋が増えたため、ナンバー達が忙しなく働いているのをよく見かける。
「そういえば、体調はどう? あれからおかしなことなんか無い?」
「はい、何も不都合なく動作しています」
十七はそう言いながら、時間をかけて笑顔を作った。前と変わらない四角四面の口調と反応の悪さだ。私は安心して息を吐くと、十七の背中を叩いた。
「また呼ぶからね。ゆっくり話をしよう」
「お待ちしています」
再び頭を下げると、十七は荷物を抱えて仕事に戻った。横を通り抜ける十七に引っ張られるように、私は後ろに振り返った。まさしく機械的な、足先まで統率された動きを取る十七の背中が見える。十七はロボットなのだ。私は遠くなる背中に声を放った。
「十七、ありがとう。あいつを助けてくれて」
だけど私たちを助けてくれた。十七は几帳面に振り返ると、もう一度深く礼をした。
私は今日、一回りして再び食事当番だった。部屋替えがあったために相棒は愛海から変わって、英理子ちゃんだった。英理子ちゃんはしかし残念な事に、料理をしたことがないらしい。
「英理子ちゃん、こんなに厚く剥いちゃ駄目だよ、もったいない」
元の大きさの半分になった野菜の群れを見ながら、私は小言を漏らした。
「最近、食べ物の値段が上がっているから無駄に出来ないんだよ。それに、供給自体も少なくなっているみたいだし」
「ごめんなさい」
大人しく謝罪した英理子ちゃんには、それ以上何も言う事は出来なかった。私は厚く身の張りついた人参の皮を取り、透けるほど薄く身と皮を切り離した。
「舞ちゃんすごい」
「やってるうちに慣れるよ」
英理子ちゃんが私を褒めるので、つい照れてしまった。英理子ちゃんは私が剥いた皮を睨みながら、他の破片に手を伸ばしていた。
「A棟では料理ってしないんだね」
不器用に包丁を握る英理子ちゃんを見ながら、私は言った。見張っていなければ、いつ怪我をするか分からない。
「そういうの、全部やってもらえちゃうから。みんな箱入り娘なの」
「それじゃあ、英理子ちゃんここに来て大変じゃない?」
B棟では炊事洗濯、掃除も風呂の湯沸かしも全部自分たちでしなければいけない。当番制ではあるが、私達だって面倒だ。今まで経験のない英理子ちゃんには辛いだろう。そう思ったが、英理子ちゃんは包丁を掴んだままガッツポーズをした。
「ぜんぜん。自分で何かする方が楽しいし、頑張ってる気になれるから」
「英理子ちゃん危ない」
手に持った包丁を見て、英理子ちゃんは照れたように笑った。再び皮むきの作業に戻りながら、時折私に目を向けて言った。
「A棟での生活は、不自然だったよ。こんな事言ったら学校全体が不自然ではあるんだけど、やっぱり閉じ込められている気がするの。特にA棟は」
「どうして」と私は湯を沸かしながら言った。寒くなってきたから、温かい汁物が欲しい。野菜を全部煮込んでしまおうか。
「物心つく前からこの学校に入れられて、親の愛情だってあまり感じたことないの。寂しくて辛くて、自分を守れるのは家柄のプライドだけ」
英理子ちゃんは嘲笑するかのように息をついた。それはA棟に向けているのか、英理子ちゃん自身に向けているのか分からなかった。横眼で見ると、ほとんど手が動いていない。
「心理カウンセラーが言いそうなことだよね。寂しいか辛いかは、誰にも分からない。でも、歪んでるのは確か。そういう所に隼人達がいるから、さらにおかしな事になって」
「うん」と私は短く声を出してから、煮立った湯に鳥の肉を入れた。骨まで軟らかく煮よう。
「隼人は完璧すぎるのよ。あれほど高性能である必要が本当にあるの? 恋の練習なんかじゃなくて、あれだと本気になっちゃう。本気で恋して、忘れられなくて、逃げられなくて……」
だんだんと声が消えていく。英理子ちゃんはしばらく俯いたままだった。長く息を吐いてから、英理子ちゃんは危なげな手つきで皮むきを続けた。
「目を眩まされているような気分になるの。隼人達のことしか考えられなくて、閉じ込められているのも忘れてしまって」
この学校の人達はみんな、隼人さんやロボット達の事ばかり考えている。隼人さんと別れたくないからと、卒業まで嫌がるのだ。まるで自分から閉じ込められたがっているようだ、と私は思った。
しばらく鍋の底から泡が昇ってくるのを見てから、私は言った。
「英理子ちゃんは、まだ隼人さんの事が好きなんだね」
「うん」と英理子ちゃんは躊躇いなく答えた。
「うん、でも多分もう分かってる。たとえ機械の隼人が誰かを愛することがあっても、それは私じゃない。だって私、一度も隼人が自分から微笑む姿を見たことないのよ」
英理子ちゃんの作業はなかなか終わりそうになかった。私は鍋の火を弱めると、包丁をもう一本取り出して皮のそぎ落としを手伝った。