7−3

 私は彩樹さんを後ろに連れて部屋の外へ出たときに、低い声がした。出た、と私が認識するよりも早かったかも知れない。待ち伏せをされていたようだ。 
「舞、あなたは私の言う事を聞いていましたか?」 
 私の体は一瞬、脳の奥まで止まった。止まったショックで、動きだしたときには完全に混線していた。暑いのに寒くて、怖くても笑いだしそうだった。逃げ出したくても、どうしてか私は相手の顔を撫でるように見回してしまうのだ。 
「……はやとさん」 
 隼人さんは目を細めて私を見ていた。表情は相手の考えを表すものではないのだと、私は知った。四ノ宮さんの話が頭の中を通り抜けた。自分からは手を下さない科学者たちは、誰を使って口封じをしているのだろう。 
「その男に近付かないようにと、言ったはずです」 
 隼人さんは人差し指を、私の頭よりも少し高い所に向けた。はじめ私に向けられたのだと思ったが、隼人さんの目は私を透過してその先を見ていた。 
「僕か」 
 首だけを曲げて見た彩樹さんは僅かに口角を上げていた。笑っているというよりも、引き攣っているように見えた。私は反射的に部屋の入口を塞ぎ、隼人さんが彩樹さんに近づけないようにした。 
「そこをどいて下さい」 
「いやです」 
「その男は廃棄処分が決定しているのです」 
 隼人さんは私に向かって一歩間を詰めた。怖いと思っても引き下がらなかったのは、隼人さんの狙いが私ではないと安心したせいかもしれない。彩樹さんの次は私だと思ったからかも知れないし、何か考えるほど頭が回転していなかったせいもあるだろう。 
「僕を廃棄?」 
 背中から声を聞いた。彩樹さんがやや裏返った声を出したのだ。私は隼人さんから目がそらせずに、頭の後ろで言葉を受けていた。 
「僕よりも先にするべきことがあるはずだろう?」 
 眉を顰めた隼人さんは、人間が本当に不快なときにする態度と寸分違わなかった。彩樹さんは一体どういうつもりだろう。何を言っても、この場では挑発にしかならないのだ。 
「まさか僕がこの状況を作り出したと思っているなんて事はないだろう? 君は犯人を追いつめるべきなんじゃないかな」 
「彩樹さん」 
 これ以上何も言って欲しくなかった。彩樹さんを睨む隼人さんの目が、まるで私を睨んでいるように思えた。私の心臓は恐怖で圧縮され、きっと飴玉くらいの大きさになっている。 
「舞、そこをどきなさい」 
 隼人さんはまた一歩近づいた。 
「それを壊します」 
「駄目です」 
「どきなさい」 
 私は首から上が取れるのではないかというほど頭を振った。声を出すよりも単純で、私の頭は一切の回転を必要としなかった。 
「舞」 
 手を伸ばせば届くほどの距離まで詰められ、私は思わず後に引いた。背中に彩樹さんが当たるのを感じた。彩樹さんが、足元の覚束ない私の肩を支えた。 
「その男がいいのですか?」 
 隼人さんは進みかけた足を止めた。彩樹さんから目線を移し、私に顔を向ける。 
「舞、何がいいのですか。壊れた機械の一体どこが。私の方がずっと」 
 よく見れば、隼人さんの口元は苦々しげに歪んでいた。私は息を呑んだ。隼人さんの目当てが、彩樹さんから私に変わったのだろうか。隼人さんの手は、何かを潰すように固く握られていた。 
「私だって、あなたが望むならば――」 
 言葉は途中で遮られ、戦々恐々としていた私の足の力は完全に脱力してしまった。膝が落ちると、そのまま尻を床につけた。床は刺すように冷たかった。冬だからだ。私はその事も忘れていた。 
 隼人さんは耳元に手を当てると、いつもよりも淡々とした口調で何事か言っていた。どこかと通信をしているようだが、内容は聞きとれない。相手は誰なのだろう。私を消せと命令されているのではないだろうか。私は彩樹さんに手を引いてもらい、壁に手をつきながら立ち上がった。 
「了解しました。すぐに向かいます」 
 そう言うと、隼人さんは回線を切ったようだ。耳にある手を握りながら私達に一瞥をくれた。これが人間相手だったなら、きっと舌打ちも聞こえただろう。隼人さんは射殺すような目をすると、そのまま背を向けて走り去った。廊下を風が吹き抜けたとき、私はようやく寒いという感覚を思い出した。 

 私以上に彩樹さんが怯えていたようだ。当然といえば当然だ。隼人さんはそもそも、私ではなく彩樹さんを狙っていたのだ。私が後ろに振り返ったとき、彩樹さんは奇妙に形作られた笑顔をしていた。 
「ああ、引き攣っちゃった。これが引き攣るという事なんだね」 
「彩樹さんが余計な事言うからでしょう」 
 そう非難すると、彩樹さんは頭をかいた。自覚はあるらしい。 
「僕もちょっと驚いててね。確かに僕を廃棄するのも彼の役目だけど、今はもっと優先するべきことがあるはずだから。あんなに私情を挟むとは思わなかったよ」 
「私情?」と私は口の中で呟いた。彩樹さんではあるまいに、ロボットが私情を挟むのだろうか。それも、あの隼人さんが。 
「僕よりも、ウイルスをばら撒いた犯人を探す方が大切だろう? だけど隼人は与えられた命令に対して、ある程度自分で優先順位を変えられるからね」 
「そうなんですか」 
 私は緊張を全て外に流すような、長い溜息をついた。彩樹さんはどうして、それほどまでに隼人さんに嫌われているのだろう。 
「とばっちりを受けた方は堪らないですよ」 
「とばっちり?」 
「私まで壊されちゃうかと思いましたよ」 
「舞ちゃんは壊されないでしょう?」 
 彩樹さんはつまらない冗談を聞いた時のように笑った。しばらく笑った後で我に返ったように、眉根を寄せる私の顔を覗き見た。 
「もしかして分かっていないのかな?」 
「なにがですか」 
「隼人が君に好意を寄せていること」 
 私はますます眉間に皺寄せた。 
「何言っているんですか。ロボットが誰かを好きになるなんて」 
「うーん」と彩樹さんは壁に手を当て、首を捻った。考えを消化するかのように指で壁を小突きながら唸ると、私に向かって不思議そうに言った。 
「君は、隼人には感情はないと?」 
「誰かを好きになるようなことは。――だって」 
「ロボットだからね」 
 私の後を引きとって、彩樹さんが言った。壁を小突く、固く規則的な音が響いていた。ロボットの心臓の音は、こんな風に聞こえるかも知れないと思った。 
「舞ちゃん、君は自分の名前を知らないわけではないんだろう」 
「早川舞子」と私は言った。 
「僕達は、通常君たちを名前にさん付けするはずなんだけど」 
 舞子さん、と私は口の中で呟いた。隼人さんからは、一度もそう呼ばれたことはない。 
「間違えている、とかそういう事ではないんですか」 
 彩樹さんは目を瞬かせて私を見た。 
「どうしてかな。君はごく自然に、僕や十七にまで感情の動きを認めているのに。隼人の方がよほど高性能だけど」 
 私は口元を歪めた。彩樹さんの言う事はもっともだ。彩樹さんも十七も、私にとっては無機質なロボットでは無い。俯いて考える私を見て、彩樹さんは壁を叩くのを止めた。 
「君はそれほど他人の感情に対して鈍感ではないはずだよ。それとも、隼人に対してだけはわざと鈍らせていたのかな」 
 彩樹さんはまるで、私の中から答えを誘き寄せようとするように言った。 
「何も見えないようにしていたのかな。舞ちゃん、君は」 

 それ以上、彩樹さんは自分からは言わなかった。私の口から出てくるのを待っているのだ。しかし私は口を噤んだまま、何も言うつもりはなかった。隼人さんの行動を一つひとつ思い浮かべながらも、それを私の中で繋ぎ合わせる事が出来ないのだ。 
 彩樹さんは辛抱強く私の言葉を待っていた。私は自分の感情を咀嚼しながら、どうしても砕けない何かを感じていた。それはきっと、それほど長い時間では無かっただろう。唐突に現れた声に、この奇妙な沈黙は破られてしまったのだ。 
「ああ、こんなところにいたのか」 
 高木さんの、焦りで裏返った声だった。彼女は私達の前に走ってきて、大げさに手を広げた。 
「大変な事になった。ちょっとこっちに来て」 
「なに、どうしたんです?」 
 私の手を掴む高木さんに、私は抗議の声を出した。小さな体の高木さんは、それほど力は強くなかったが、爪が食い込んで痛かった。 
「どうしたじゃない」 
 私はあまり引っ張られないように、適度に歩調を合わせながら聞いた。その後ろから、彩樹さんも不思議そうな顔でついてくる。私がそれほど抵抗しないと分かったのか、掴む腕の力は抜いたようだ。高木さんは彼女らしくない切羽詰まった声を出しながら、前だけを見ていた。 
「世界が終わってしまうかも知れないんだ」 

 連れてこられたのは、高木さんの部屋だった。入口近くには人が集まり、開け放った扉から中を覗き込んでいた。誰も彼も同じ表情をしていた。口を開けたまま目を見張り、顔は蒼白だ。 
「どいて」 
 高木さんが集まった人を押しのけながら扉に近付いて行った。彼女達は突っ立った柔らかい棒のように、押しのけられれば横にしなり、邪魔が無くなれば元のように真っ直ぐに立った。 
 部屋の中は相変わらずモニターが中央を位置取り、床は無機質なごみを転がしたままだった。部屋の中にも人が満ちていた。見回せば、愛海も橘さんもいる。食い入るようにモニターを見つめていた。 
「見て」 
 高木さんはモニターを指した。画面には、以前も見た男性が一人、身振り手振りをしながら声を張り上げている場面が映っていた。 
『ミサイルに取り付けられた細菌は、子供たちや老人から順に殺戮を始めている。まだ一日も経過していないのに、なんという殺傷力なんだ。このままでは、いずれ世界中の人間が感染することになるだろう』 
 私は眉を顰めた。言っている意味が理解できなかった。 
「どういうことです?」 
「昨日の夜中に、この国から生物兵器を積んだミサイルが発射されたらしいんだ。それが、すでに世界中に散ってしまっているらしい」 
「え」と私は喉が引き攣ったような声を出した。後から来た彩樹さんも、目を見開いて画面を見ている。高木さんは私の反応を窺いながら続けた。 
「感染後数時間で、眠るように死ぬらしい。死体からウイルスが溢れて、更に別の人物に感染する。馬鹿みたいにミサイルを撃ったせいで、広まるのも早かった。敵も味方も関係なく」 
「治る方法はあるんですよね」 
 そうでなければ、兵器としての意味をなさない。自分の国の安全が保障されてこその生物兵器だ。しかし高木さんは、口を固く結んだまま何も答えなかった。 
「多分、無いだろう」 
 代わりに答えたのは彩樹さんだった。手で口元を隠しながら、独り言のように言った。 
「もしくは、当てが外れただろう。よこされた治療薬は意味をなさないはずだ。くそっ、隼人に命令が下ったな」 
 彩樹さんは苛立たしげに足で床を叩くと、人をかき分けて部屋の外へ向かった。何か思い当たることがあったのだろうか。後を追わないわけにはいかなかった。 
「彩樹さん、何か知っているんですね。砂川先生ですか」 
 私は少し遅れて、そう叫びながら部屋を後にした。 
「舞、どこに行くの。何、どういうこと?」 
「ちょっと橘、舞、どうしたの、待ってよ」 
 後ろから声が追いかけてきた。それと共に、慌ただしい足音が二つ続いた。私は足が遅いつもりはなかったが、彩樹さんからは離され、後ろの二人には追い付かれていた。 
「舞、砂川先生がなに? ねえ、何を知ってるの」 
 大声を出さなくてももう聞こえるのに、橘さんは声の限りに叫んだ。私は横に並んだ愛海と橘さんを横目で確認した。 
「この学校が最低だってこと」 
 私の喉は張りついて、ほとんど空気が漏れただけのように聞こえた。 
「私達は人形みたいに扱われて、捨てられていたんだ。この戦争のために」 
 私の足は私が意識していなくても、勝手に走っていた。彩樹さんの姿が見えなくても、行くべき場所は分かっていた。 




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