8−1

 西校舎裏の寂れた物置は、冬の寒々しさを一身に受けていた。葉の一枚もない周囲の木々は、上空に吹く風を受けて乾いた音を立てていた。雲の切れ間から見える太陽は枯れ木に遮られ、物置には一欠片の光も与えなかった。 
 扉は開け放たれていた。彩樹さんが来たのだろう。この先に必ずいる。追いかけて何をするべきか、とは考えなかった。おそらく何も出来ないだろうと言う事に感づいていたからだ。 
 小屋の中にある地下への入り口もふたが外されていた。床に開いた深い穴からは、異様な空気が噴き出していた。以前に来たときよりも明らかに異質だった。この穴は別世界に通じているのだろう、と私は思った。 
「舞、本当に行くの」 
 愛海は穴にも近寄らずに言った。私は黙って顎を引いた。行かなければ、何も分からないままになってしまう気がした。愛海の怯えた目を見て、橘さんの暗い表情を見てから、私は穴の壁面にある梯子に足をかけた。以前とは違い懐中電灯は無い。手探りのまま、暗闇の中に体を隠した。 
「あたしも行くよ」 
 頭の上から橘さんの声がした。それとともに、鉄の軋む音がする。梯子に体重をかける音だ。 
「橘、舞、あんたらおかしいよ。どうしてこんな所に行けんの」 
 愛海の怒鳴り声も聞こえた。鼻に詰まっているようなくぐもった響きだから、きっと泣いているのだろう。泣く元気がある時の愛海がどんな行動をとるか、私はよく知っていた。 
「行けばいいんでしょ、行けば。あたしを置いて行かないでよ」 
 こんなやり取りが、以前にもあった。私は長く息を吐くと、下手な笑顔を作ってみた。 

 穴の底には、きちんと光が灯っていた。光に照らし出された地下施設は、長い廊下と扉しかないはずなのに不気味に薄暗かった。くすんだ白い壁はどこまでも続き、見える限り開いた扉は無かった。横道はなく、私はただ前に向かって歩いた。 
 明らかに異様なのは臭いだった。前に来たときには感じなかった、すえたような臭いと、その中に微かに交じる薬品の臭い。鼻で息をするのは苦痛だった。 
「あたし達、何も知らないでここに来てよく戻って来れたよね」 
 橘さんが言った。 
「退学、になってもおかしくなかったんだね。あのとき」 
 あのとき私達が説教だけで済んだのは、教頭先生のおかげだった。隼人さんが学長を呼んでいたのならば、再び日の目を見ることはなかったのだろう。 
「教頭、いい人だったんだね」 
 橘さんの言葉に、私も愛海も返事をしなかった。私達は、昨日の教頭先生を見ていたのだ。ノイローゼのように喚き、連れて行かれた教頭先生の行く末は、一体どんなものだろうか。想像をしたくはなかった。ノイローゼの原因は、私達にも十二分にあるのだ。 
「ねえ」 
 しばらく無言で歩いていた後、今度は愛海が耐えられないように言った。 
「健康診断のときの注射が原因なら、あたしたちももう病気になってんのかな」 
「さあ」と私は言った。それ以外に答えようがなかった。 
 愛海は口を噤み、また黙って歩きだした。足音だけが響く地下は、耳も心臓も潰れるほど痛かったが、何か話すべきことも見つからなかった。 
「検診が多かったのは、意味があるのかな」 
 少しして、私はふと浮かんだ事を言った。廊下は先が見えず、無限回廊のように続いていた。歩いているようで、実はその場で足踏みをしているのではないかと疑いそうになる。 
「いつもの検診のときにも、実験をしていたんじゃないですか? 前に風邪が流行った時、祥子だけ元気だったから」 
 祥子が転校して来る前に、一度検診があった。風邪が流行ったのはその後だった。 
「そうかもしれない」 
 橘さんはそう言ったあと、小さく首を傾げた。 
「だけど、多分逆だと思う」 
「逆?」 
「逆に、ウイルスが漏れていないかを確認していたんだと思う。生徒にうつったら、困るのは学校の方だから」 
 その通りだった。私が頷くと、橘さんはさらに言った。 
「この前の風邪は、だけど舞の言う通りかもしれない。殺傷力がないのを知ってて、感染の早さを調べていたのかも知れないから」 
 あのときの風邪を下地に、ウイルスの完成品を作ったのだろうか。私には分からなかった。誰が何を考え、どこに行きつこうとしているのだろう。 
 これ以上は、誰も何も話そうとしなかった。何を口にしても、愉快な話になるはずがないからだ。それならば、何も話さない方がましだった。 

 白い壁も並んだ扉も変わらなかったが、奥に行くにつれて確実におかしくなっていくものがあった。粘りつくような熱気と腐臭だ。両脇の扉から漏れ出てくる臭いを、しかし誰も確認しようとは思わなかった。イメージの中ですら作り上げられない映像を実際に見よう、という興味も勇気無かった。次第に濃くなる淀んだ空気にすら逃げたくなるほど、私は臆病なのだ。 
 濁った水を泳ぐような息苦しさを感じていた。道の終わりなど無いのだと考えるほど歩いた時、私達はようやく変化を見つけることが出来た。前方の道はなくなり、二股に分かれていた。 
「舞ちゃん」 
 別れ道の陰から、突然彩樹さんが現れた。彩樹さんは私達を驚いたように見回した。 
「どうしてここに。ここは、見たくないものが沢山あるのに」 
 咎める彩樹さんに、私は首を振った。見たい、見たくないではないのだ。 
「彩樹さん、砂川先生はどこにいるんですか? 何を考えているんですか?」 
 しばらく、私達は睨みあっていた。彩樹さんは口を固く結んだまま目を逸らさずにいたが、ついに観念した。彩樹さんは息を吐きながら目を閉じると、体中の緊張を解いた。 
「どこにいるのかは、まだ探しているところなんだ。一緒に探そう。その間に、僕の知るところは全部教える」 
 そう言うと、彩樹さんは歩き出した。今度は、私たちも追いつける早さだった。 



inserted by FC2 system