8−3

 部屋の中は、歩いてきた廊下よりはよほど清潔だった。しかしそれは、空気の澱んだ部屋にある換気扇の真下程度だ。やはり重く蒸した熱気と臭気が混じり合った、不快な空間には違いなかった。 
 部屋はそう狭いものでは無かったが、溢れ返ったものが部屋を圧迫していた。壁に沿ってファイルの詰まった棚が並び、一角を大きな机が占拠していた上に、今は六人も入りこんでいるせいだ。床には薬品が散らばり、そのおかげで酷い腐臭を感じなくて済んだ。 
 その部屋の中央に、隼人さんは立っていた。私達の侵入に気がつくと、首だけを回して一瞥した。隼人さんの陰に、床に両手をついた砂川先生が見えた。蒼白な顔で、私達に気がつくと、弱々しく目を細めた。 
「来たのね」 
 近寄ろうとする私を、隼人さんは片手で牽制した。正面しか見ていないのに、どうして私の動きが分かったのだろう。 
「いいじゃないの、隼人。今すぐに殺さなければいけない、なんてわけではないでしょう?」 
 砂川先生は押し殺したような声でそう言った。耳を澄ませなければ聞こえないほど、小さな声だった。 
「舞さん、辰哉君は元気?」 
 砂川先生は私に首を傾げて見せた。見上げる目には光がなく、人形のように暗かった。私は質問の意図も分からないまま頷いた。 
「そう、よかった。辰哉君に元気でって伝えてね」 
 心底安心したように言う砂川先生を、私は見つめ返した。辰哉が、砂川先生にいろいろ助けられた、と言っていた事を思い出した。色々とは何だろう。 
 辰哉がこの学校に来た時からだと、私は感じた。辰哉ごときが侵入できるほど、学校の警備は甘くない。深く考えたことはなかったけれど、多分はじめから、砂川先生は辰哉の事を助けてくれたのだ。 
「辰哉が、どうしたんです。あいつに何を求めているんですか」 
 私は隼人さんの様子を窺いながら、一歩前へ出た。砂川先生は微笑んだまま、口を薄く開いた。何度か音にならない息を漏らしながら、噛みしめるようにゆっくりと言った。 
「辰哉君みたいな人を待っていたの。彼なら、女の子達に酷い事をしないでしょう? ずっと、彼みたいな人が来るのを待っていたの」 
 酷い事。私は口の中で呟いた。例えば世界がなくなって、私達しかいなくなったとき、辰哉は。辰哉はただ一人の男になる。 
「辰哉に何をしろって言うんです」 
「舞」 
 知らずに踏み出していた私を、隼人さんが制止した。 
「もういいでしょう」 
 全く機械的な、感情のない声だった。隼人さんは振り返らず、砂川先生だけを見ている。一体どのような表情をしているのかは分からないが、砂川先生は隼人さんを見て諦めたように瞳を伏せた。 
「最後の命令だものね」 
 隼人さんは砂川先生に手が届く場所まで移動すると、水の底から浮かび上がるようにゆっくりと片手を伸ばした。これから、一体何が起こるだろう。隼人さんは先生に何をしようとしているのだろう。私が答えを見つけるよりも先に、足が動き出していた。 
「隼人、止めろ。もうそんな事をする必要はないだろう?」 
 彩樹さんの焦った声が聞こえた。しかし声が聞こえるよりも早く、私は隼人さんにしがみついた。軟弱な私には、飛びかかる以外に止まらせる方法が浮かばなかった。 
「離れなさい」 
「嫌です」 
 思ったよりも大きな声が出て、私は自分で驚いていた。驚きながらも口は止まらなかった。喋ることは、必ずしも脳の動きとは結び付かないのかも知れない。実際、私の口から出てくるのは、私が頭の中で練りあげたものでは無かった。 
「嫌です、先生がいなくなるのも、隼人さんがそういう事をするのも」 
「では目を瞑っていなさい」 
「嫌だって、言っているんです。どうして分からないんですか。何でそうやって傷つけるんですか。命令ってなんですか、そんなものを聞くんですか」 
 私には理解できない。誰の考えも分からなかった。全く違う世界の人間と話しているようだった。砂川先生にも隼人さんにも、常識も何も通じない。鼻の奥が痛いと思ったら、いつの間にか目の端が湿っていた。 
「舞」 
 隼人さんはそう言うと、ほんの少しだけ私に顔を向けた。目玉が動いて、中心の黒い丸が私を映した。 
「放っておいても、もう死にます。砂川はすでに発症しています」 
「だから、殺してもいいの? そんな事をするの? どうしてそういう風に考えるの」 
 そんな事は、見た時から分かっていた。彩樹さんから話を聞いた時から、想像をしていた。この学校に残るのは、子供しかいないと予感していた。だがそう言う事ではないのだ。 
「舞さん、仕方ないのよ。隼人は軍部にはさからわない。そういう風に作られた、最高傑作なんだから」 
 声よりも、声にならない空気の方が多く口から洩れていた。苦しげに顔を顰めながらも、砂川先生は笑顔を崩さなかった。その目元が、私に死んだ母を思い出させた。なぜだろうか、こんな理不尽な思考の母親など、私は望まないのに。 
「辰哉君によろしく伝えておいてね」 
 そう言って砂川先生は、満足したように隼人さんを見上げた。彼女は次の瞬間に意識が消えても、きっと後悔しないだろう。そして後悔するのは私たちだ。 
「駄目だ、助けてよ隼人さん」 
 私は隼人さんの腕を掴み、縋りつくように言った。ヒステリックな声だと感じた。喚く以外に脳のない、幼い人間なのだ。そう認識することも、酷く不快だった。 
「では」と隼人さんが声を出した。私を瞳の中心に置いて、抑揚の少ない声で言った。 
「では、あなたが命令してください。私に与えて下さい。私が従うべき言葉を」 
 隼人さんの目には私が映っていた。待っているのだと、私は感じた。ずっと待っていたのだ。私は口を開いた。私の中にある捉えどころのない感情が、一筋の道になって行くのを感じた。体中が興奮しているのに、頭だけは妙に落ち着いていた。 
「隼人さん、他の人の命令よりも、私の言う事を聞いて。砂川先生を殺さないで、他の人も誰も、何も殺さないで」 
 私は泣いていたかも知れない。自分では意識していなかった。怒鳴っていたのか叫んでいたのかも、そもそも声を出していたのかも分からなくなっていた。感情のままに吐き出すというよりは、流れる川のように真っ直ぐに、私の中にある確かな事実を言っていたように思う。 
「隼人さん、あなたは私の物だ。私の言う事だけを聞いていて」 
 目の前が見えなくなったのは、私の目が潤んでいたせいだろうか。それとも、隼人さんの体が私の視界を覆っていたせいだろうか。慈しむように肩を抱く腕を、私はロボットのものだとは思わなかった。 



 部屋の奥には地上へ続く長い梯子があった。私達はそこを通り、再び日の光を見つけた。木々の隙間から申し訳程度に覗く光でも、私には眩しかった。 
「たくさん作らないと」 
 林から丸く切り取られた剥き出しの地面を見て、私は言った。丸く盛られた土が並んでいるそこに、一体いくつ作れば終わるのだろう。だけど砂川先生は、ずっと一人で作ってきたのだ。贖罪のためかも知れないし、もっと人間らしい感情かも知れない。 
「みんなも埋めてあげないと、先生も」 
 強い風が吹いて、私の頬を冷やした。寒くはなかった。暑いくらいだ。私達は、ようやく自由を手に入れたのだ。



inserted by FC2 system