<出会う日、少年と少女>


 職員室の机のわきに置かれた段ボールいっぱいの資料を指差して、先生は「よろしく」と何でもないように言った。

「これ、教室に持って行っておいてくださいね、日直さん。次の授業で使うんですよ」
「ええっ」
 私は思わず、品のない驚きの声を上げてしまった。慌てて口を押さえる私に、先生が眉をひそめる。お行儀にはうるさいのだ。
 ここは全寮制の女子校。女子高、ではなくて女子校。幼稚舎から大学までそろった、超一流のお嬢様学校なのだ。周りはみんな、血統書付きの令嬢ばかり。驚くときは「なんですって」と品よく聞き返さないといけなかった。
「何かご不満が?」
「いえ、いえ。運ばせていただきます、日直ですし」
 私は笑顔で取り繕うと、先生に頭を下げた。そのまま逃げるように段ボールを抱えて、「失礼します」と一声だけ掛ける。あとは振り返らない。
「あら、ちょっと……」
 先生が背後から何か言おうとしていたが、私はそのままふらふらと歩き続けた。
 無視したかったわけじゃない。振り返る余裕もなかったのだ。
 ――重い!
 ちらりと口の空いた箱の中を覗くと、クラス三十人分の小冊子が詰まった紙袋が――三つ!?
 先生、中学生の女の子に持たせるには、重すぎると思います!


 段ボールは一抱えもある大きさで、歩いているとろくに前も見えない。
 職員室のある管理棟から、私の教室がある中等部まで、はっきり言ってすごく遠い。中等部と管理棟の間には、高等部が挟まっている。だから、学校をひとつまたがないといけない、と思えばわかりやすいだろうか。しかもただの学校じゃない、やたらとデカいお嬢様校なのだ。

 私はたまに休憩しながら、おぼつかない足取りで高等部を横切っていた。
 昼休みで人の多い廊下を避け、事務室や資料室ばかりの一階を通る。さすがに、高等部の知らない先輩たちの間を、段ボールを抱えて突っ切る勇気はなかった。周りは全員お嬢様、白い目で見られるのは必須なのだから。
「お腹へった。重い、おもーい……」
 まわりに人がいないのをいいことに、私は弱音を吐き出した。独り言だ。お嬢様だったら言わないかもしれないけど、構わない。だって私はお嬢様じゃないんだし。
 昼休み中に運び切れるとは思えなかった。昼休みに入ってすぐに呼び出されたせいで、昼ごはんも食べていない。お腹が減って力が出ない。投げ出したい。重い。誰も手伝ってくれない。わざと人のいないところを選んだのは私だけど。
 冷たい廊下が無性に長い。教室と教室の繰り返し。外は明るい日差しが差しているのに、一階の廊下は蛍光灯がついていても、薄暗い気がした。
 延々、薄暗さの中を一人歩く。秋の乾いた空気は素っ気ない。もうだいぶ運んだつもりなのに、高等部校舎の半分も越えていない。おわんない。
 あ、ちょっと泣きそう。
 こんなことで泣くのは恥ずかしくて、私は唇を噛んだ。たかだか日直の仕事。運べば終わるんだ。
「重くない、一人で運べる。おもーい、違う、おもくなーい!」
 一人で気合を入れて、もう一度、段ボールを持つ手に力をこめたときだった。

「大丈夫ですか?」
 後ろから声を掛けられた。私は思わず、段ボールを取り落としそうになる。
 誰もいないと思ったのに。一人掛け声までしたのに。顔が熱くなっていく。
 気まずさと恥ずかしさをないまぜにした、微妙な笑顔で私は振り返った。だけどそこにいた人を見て、私の気恥ずかしさは吹き飛んだ。
「――男の人?」
「はい」
 私の声ににこりと微笑んで答えるのは、間違いなく男だった。年は私より、少し上くらいだろう。非の打ちどころのない整った顔立ちに、すらっと高い背。飾り気のない黒いシャツとズボンは、彼の美貌を、どこか現実味のないものとさせていた。
 どうして、と私は口の中で呟く。
 ここは全寮制の女子校だ。男子禁制、男性職員さえも許さない。そんな場所に、どうして男の人が?
 困惑したままの私に、彼はゆっくりと近寄ってきた。私の隣に立つと、穏やかな表情のまま、何事もないように手を伸ばす。不意に、段ボールの重みが消えた。あ、と思ったときには、すでに彼の手に重たい荷物は渡っていた。
「私は、ロボットですよ」
「ロボット……?」
 理解するのに、しばらくかかった。ロボット。目の前の男の人が、ロボット?
「行きましょう。これを、どこに運べばいいんですか?」
 彼は段ボールを持ったまま私を促した。運んでくれるつもりらしい。重たさにめげそうだった私にはありがたいけど……。
「あの、いえ、悪いですよ。重たいですし、遠いですし」
「重いものを女性に持たせるわけにはいきませんから。それに、これくらい、なんともありませんよ。――中等部に運びますか?」
「あ、はい。三年のD教室で……。あの、ありがとうございます」
 歩き出した彼に並んで、私は頭を下げた。思わぬ助けに、ありがたさ半分、申し訳なさも半分だ。
「ありがとう、ですか?」
 彼は不思議そうに首を傾げた。
「礼なんて必要ないですよ。私たちはこれが仕事なのですから」
「え、でも」
 でも、と私は彼の段ボールを持つ手を見る。中等部まで、まだあと半分以上。重さで心折れそうなところを、声をかけてくれた。その人に、お礼の言葉を否定されるのは、少しさみしかった。
「私は嬉しかったから――必要なくても、ありがとうって言わせてほしい。ありがとうございます」
「…………いえ」
 長い間のあとに、彼は一言だけそう応えた。それきり前を向いて、私の方を見ない。怒っただろうか。変に気持ちを押し付けてしまっただろうか。お嬢様の作法に反してしまっただろうか。

 不安になりながら並んで歩いていると、不意に彼が口を開いた。
「これを一人で持って行くつもりだったんですか?」
「え? あ、はい」
 どうにも返事が裏返ってしまうのは、きっと緊張しているからだろう。知らない人――しかも男の人と一緒にいるせいだ。
「私、今日は日直だったから、先生に頼まれたんです。次の授業までに運ばないといけなくて」
 職員室から高等部の校舎まで、休み休みやっと運んでくることができた。時計がないからよく分からないけど、たぶん昼休みの半分をかけてしまっただろう。一人だったらきっと間に合わなかった。
 彼は私の隣で重たげなく段ボールを持っている。歩く速さも、なにも持たない私より早いくらいだ。人のいない廊下に、二つの足音が響く。
「自分で持って行くつもりだったんですか? 誰にも頼まずに」
「だって、私の仕事だったから」
 友達と一緒に来ても良かったけど、中等部から職員室に行くだけでも結構な時間がかかる。ついて来てもらうのは悪い気がしたし、そもそもこの学校の子たちは、私よりも力がないお嬢様ばっかりだ。重いものなんて持てないだろう。
「いえ、そうではなくて」
 私の心を読んだように、彼が首を振った。
「ロボットを呼ぼうとは思わなかったんですか? 私のようなロボットは、この学校で雑用をするためにいるんですよ」
 ――ああ。
 そうか、と思う。ロボット。私はやっと理解した。
 この学校には「男の人」がいる。雑用と、警備と、友人を兼ねた男の人が。血筋のいいお嬢様たちに男を寄せ付けないように、だけど健全な心を育てるために、「男の人」の姿をしたロボットたちを置いているのだ。
 言ってしまえば、彼らは召使い。辛いとき、困ったとき、助けてほしいとき、呼び出せばなんでも応えてくれる。絶対従順な人形なのだ。
 先生が私を引き留めたのも、ロボットを呼ばなくていいのか、と言おうとしたからだろう。一人で運ぼうとした私に、先生の方が面食らっていたに違いない。

 今の今まで、ロボットを呼ぶなんて頭にも浮かばなかった。私はロボットとも召使いとも無関係な、庶民の娘なのだから。
 私は自分自身に向けてため息をついた。
「あの、私、転校生なんです。あ、でももう二年くらい学校にいますけど、まだ慣れなくて」
「二年も?」
 訝しげな彼の声に咎められている気がして、私は肩を落とした。二年たったら慣れるべきなのだろう。それでも私は、ロボットにもこの学校にも上手く馴染めない。
「なら、今まで一人でずっと、こういうことをしてきたんですか。なぜ私たちを呼ばなかったんですか」
「なぜ……って」
 そう正面から尋ねられると戸惑う。まっすぐに歩きながらも、彼の黒い瞳は私を見据えていた。
 なぜ、なぜだろう。大した理由なんて、なにもない。私は目を伏せると、「なんとなく」と呟いた。
「なんとなくですけど、自分でできることは自分でしたいんです。頼り始めると、いつか立つこともできなくなる気がして」
「立てなくなったら、私が支えますよ」
「えっ!?」
 思わずのけぞった私に、彼は柔らかい笑顔を向けた。
「それが、私たちの仕事です」
 あ、そう。そうだよね。だよね。
 私は彼から顔をそむけると、こっそり冷や汗を拭った。変に意識した私が恥ずかしい。支えるって、だって、なんだか告白みたいだったんだから。
「どうかしましたか?」
「あ、い、いえ! あの、やっぱり持ちますよ!」
 照れ隠ししたつもりが、全然隠れていない。自分でもわかるくらいにあわてていた。彼は私を見て、ほんのわずか眉をしかめた。
「頼ってください、と言ったばかりですが」
「あの、せめて半分。持ちます」
「なぜ」
 また、「なぜ」だ。勢いで口を開く私には、そんな明確な答えなんて持っているはずがない。
「持ちたいんです。私一人、楽をしていたくないんです。なんでも任せていたら、私よりも先にあなたが倒れちゃいますよ」
「倒れません」
「そう言って、倒れたときになにもできなかったら困るじゃないですか。あなたを支える人の方がいなくなっちゃいますよ」
「支える?」
 ふと、隣を歩いていた段ボールが止まった。違う、彼が足を止めたのだ。私は気がつくのに遅れて、数歩追い抜かしてから振り返った。
「あなたは私が倒れたら、支えてくれる気でいるのですか」
 さっきよりも眉間のしわが深い気がする。また、機嫌を悪くさせてしまっただろうか。彼から視線を逸らしつつ、私は遠慮がちに言った。
「……そりゃ、目の前で倒れていたら助けますよ、」
「私がロボットだとしても?」
「そう言うのはたぶん、あんまり関係ないんじゃないかな……」
 ロボットとか、そうでないとか、あんまりよく分からない。私は転校生で、この学校に来る前はずっと、ロボットとは無縁だった。だから単純に馴染みがないだけかもしれない。
「困っている人を見たら、助けたくなるじゃないですか。あなたが私に、手を貸してくれたように」
「…………」
 彼は黙って段ボールを下すと、中から紙袋をひとつ取りだした。
「持っていただけますか」
 私に向かって、彼は紙袋を差し出した。私は瞬きを一つしてから、困惑気味にそれを受け取る。紙袋は一つでもずしりと重い。
「あ、ありがとう」
 お礼を言うのも変だと思いつつ、私は頭を下げた。
「……いえ」
 彼は再び段ボール箱を持ち上げると、何事もなかったかのように歩き出した。
「こちらこそ、ありがとうございます。少し楽ができます」
 すっと私の横を通り抜けるとき、彼が小さくそう言った。驚いて目をやるが、早足の彼の後ろ姿しか見えない。
 ――ありがとう、って言った。
 なぜだか知らないけど、私はちょっと嬉しかった。
 紙袋を抱え上げると、長い廊下をぱたぱたと音を立てさせて、後ろ姿を追いかけた。


 高等部から中等部に繋がる渡り廊下に出ると、人が多くなってきた。教科書を抱えて走る姿もちらほら見える。もうすぐ昼休みが終わるのかもしれない。
 真上よりも少し傾いた日差しが、渡り廊下に差していた。ここを越えれば、あとは階段を上ってすぐだ。
 そうだ、と私は、隣を歩く男の人を見上げた。少し大人びた、端正な横顔。中等部では見かけたこともなかった。
「あの、名前を聞いてもいいですか?」
 なんとなく聞きそびれていたけど、思えばまだ名前も知らなかった。
「私を知らないんですか」
 彼はわずかに目を見開いて、驚いたように私を見た。あれ、またまずいこと言った?
「隼人」
 一瞬の沈黙の後、彼は口を開いた。
「高等部専属のロボット、はやと、と言います」
「はやと、さん」
 繰り返して名前を呼ぶ。私の声に、彼は目を細めた。機嫌を悪くしたわけではないみたいだ。よかった。
 ほっとすると、私は紙袋を抱え直した。私も名乗り返そうと、彼に顔を向ける。
「はやとさん。えっと、私は――」
「早川舞子さん」
 私の言葉を遮って、彼が低い声で言った。
「私の名前、知っているんですか?」
 目を丸くして尋ねると、彼は笑うようにふっと息を吐いた。
「この学校にいる方は、みんな知っていますよ。中等部三年D組、外部転入生の舞子さん」
 彼は少し首を傾げて、私の顔を覗きこんだ。黒い髪が額を流れる。ガラス玉みたいに透き通った瞳だった。
 昼の光が、彼の白い顔を照らす。息を飲むほどに綺麗だった。


 ○


 教室に戻ると大騒ぎだった。
 隼人さんが事務的に段ボールを教卓の横に置いて、「では」と去っていく。その間、ずっとクラス中の視線が隼人さんに集まっていた。たまにため息が漏れる。たまに、歓声まで上がった。どこかのアイドルがやってきた、みたいな雰囲気だ。傍にいる私は、心底居心地が悪かった。

「舞、舞! どうしたの」
 隼人さんがいなくなった後、私に友人が興奮しながら話しかけてきた。
「あの人、高等部の隼人でしょう? なんで一緒にいたの」
「え、そんな有名な人なの」
「有名よ、この学校で一番のロボットよ。すっごい人気で、いつも誰かのところにいるから、めったに見ることもできないのに」
 私は勢いに気圧されて、思わず後ずさった。周りを見回すと、興味津々と言った様子で人が集まっている。
 そんなにすごい人だったの? 学校で一番人気?
「あの、たまたま。本当に、偶然で……」
「偶然? 偶然で隼人といたの? ずるい、舞、ずるい!」
 そんなこと言われたって。非難めかした友人の声に、私は肩をすくめる他にない。
 キャーキャー騒ぐ気持ちは、私自身わからなくもない。隼人さんはたしかに綺麗で格好良かったし、なにより優しかった。
「あたしも高等部に入ったら、隼人を連れ歩きたいなあ。いいなあ、舞」
 うっとりと夢見るように友人が言う。あんな男の人がそばにいたら、素敵かもしれない。恋人みたく思うかもしれない。でも。
「私は、ちょっと苦手かもしれない」
 親切で、とてもいい人だった。少しの間一緒にいただけだけど、私自身変にドキドキしている。意識しなかったわけじゃない。
 でも、違うんだ。
「あの人、人間らし過ぎて」
 少し、怖い。
「ええー! もったいない。信じられない。舞、あなたちょっと変」
 友人だけでなく、周りからもブーイングが飛んだ。趣味悪いだの、わかってないだの、みんな怖い。中等部生にとって、年上で格好良い隼人さんは本当にアイドル扱いなのだろう。余計なことを言ったのは私だ。でも、そんなに文句言わなくてもいいじゃない。
 縮こまって対応に窮していると、天の助けが響く。予鈴の鐘だ。スピーカーから流れる鐘の音に、渋々といった様子でみんなが席に着き始める。
 私はほっと息を吐いた。

 席に戻る前に、抱えていた紙袋を段ボールの中に収めながら、私はもう一度隼人さんのことを思い返していた。
 段ボールの中の資料。高等部カリキュラムについての小冊子。今年で私たちは中等部を卒業する。
 そうしたらまた、彼に会うことがあるかもしれない。

 それは楽しみなような、少し不安なような。
 私は首を振ると、先生が来る前に急いで自分の席へと向かった。


 終わり

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