「へえ、じゃあ無事に生まれたんだ!」
「はい、おかげさまで」
 嬉しさを満面の笑みにして、老女はそう言った。
 白髪の混じり始めた髪をひとまとめにした品の良いこの老女は、上森神社のすぐ傍に住んでいた。娘夫婦の出産を控え、毎日石段を上がって神社に熱心にお参りに来ていたのを知っていたからこそ、透子は嬉しかった。
「よかったー……ずっと心配だったから」
「すべて神様のおかげです、なむなむ」
 そう言って両手を合わせる老女に、透子はくすぐったい思いがした。透子がしたのは、出産に際しての食事だとか、体への気の使い方だとか、そういうことだけだ。実際に産んだのは母の力であって、それ以外にはない。
「私、なにもしてないから」
「いいえ。神様がいらっしゃったおかげで、安心できたんです。娘もあなたの姿は見えませんが、感謝しておりますよ」
 透子はますます座りの悪い思いがした。だけど、嫌な気分ではない。
「ね、戻ったら娘さんに、おめでとうって伝えて? あと、名前が決まったら教えてね?」
「もちろんです。うちの孫も、仲良くしてやってくださいね」
「お孫さんが、私のことが見えたらね。ああ、お話しできるといいなあ」
 期待に胸を膨らませ、透子は空を仰いだ。神社の境内から見える空は、鎮守の森に切り取られたかのようだ。そろそろ日が沈みかけるのだろう、赤い、燃える色をしていた。
「ああ、じゃあ私はそろそろ。夕ご飯の時間ですからね」
「はーい。またね!」
 透子の言葉に深く頭を下げ、老女は鳥居をくぐり石段を下りて行った。

 彼女の姿が見えなくなったあたりで、拝殿の扉が開く。
 出てきたのは、厳めしい顔をした壮年の男だ。白いはかま姿が勇ましく、年を経た威圧感があった。
「透子、もう人も来ないだろうし、わしもそろそろ母屋へ戻る。お前もあんまり遅くまでふらふらするなよ」
「はーい。大丈夫だって、栄吉」
 拝殿の簡単な掃除と施錠を済ませると、栄吉もまた神社を去っていった。斜めの日が差し込む神社には、透子一人の影が伸びる。

 神社の軒下に腰を掛け、足をふらふらと揺らしながら、透子は町の灯が次第に付き始める様子を想像した。
 今日も平和で、明日も平和で、いつかみんなが透子の姿が見えなくなっても、きっとその未来でもこの町は平和なのだ。
 漠然と、透子はそう信じていた。

 不意に、手元にくすぐったい感触がした。透子はぼんやりとした視線を手元に移して、首を傾げる。
 そこには小さな毛玉のような子狸がいて、透子の手を突っついていた。
「どうしたの?」
 森に住む狸たちの子供だろう。今は彼の親兄弟は見当たらず、一匹だけのようだった。
「迷子になったの?」
 透子の呼びかけに、子狸はふるふると首を振る。意図が分からず訝しんでいると、子狸はじれったそうに透子の着物の裾を噛み、引っ張った。小さな尻尾が震え、必死な様子が伝わってくる。
「なに? なに?」
 戸惑いつつも透子が軒下から立ち上がると、子狸はつぶらな瞳で見つめてから、子供らしい不器用な足取りでとことこと歩き出した。ついてこい、と言われている気がした。

 子狸に連れられてやってきたのは、神社の裏手の小さな空き地だった。
 神社と言うよりはほとんど森の一部のような場所で、空き地の中央に一本の大樹があった。年月を感じさせる濃い木の肌に注連縄がかけられている。枝葉は奔放に伸びて空の色を隠していた。
 透子と同じ日に生まれた木だ。
 町の人々はこの木を、御神木と呼んでいる。

 その木の根元に、見覚えのない影があった。
 うずくまったまま動かない、半袖半ズボンの少年だ。年齢は十かそこらだろうか。追いかけていた子狸は、少年の足元を往復する。
 透子は慎重に少年の元に近づくと、しゃがみ込んでその顔を覗き見た。
 さらさらとした、少し色素の薄い髪色。日焼けしていない肌。目を閉じたままのその顔は、都会的な繊細さがあった。
 綺麗な子だ、と透子は思った。こんな子、みたことない。
 ねえ、と声をかけ、透子は少年の肩を軽く叩いた。この声が本当に聞こえるかは疑問だったが、放っておくこともできない。
「ねえねえ、大丈夫?」
 再び少年に触れると、彼は鬱陶しそうに透子の手を払った。
 お、と透子は驚きと、微かな喜びの入り混じった声を上げる。
「私のこと見える? 君、この町の子じゃないよね? どうしたの?」
「うるさいなあ」
「はあ?」
「放っといてくれよ」
 にべもない少年の言い草に、透子はむっとした。こんな木の根元に転がっているくせに、放っておけなんて無理な話に決まっている。
「なにその態度。心配してるんじゃない。放っておいてほしいなら、子供一人がこんなところで寝ないでよね。もうすぐ暗くなるのに」
 透子の不機嫌な声に、少年は薄く目を開けた。透き通るような瞳は、生意気な色を映す。
「お前だって子供じゃん。……なにその格好」
 透子の顔を一瞥したあと、全身に視線を映して、少年は奇妙そうに言った。
 少年が見ているのは透子の着物だった。少し色あせた、晴れ着ではない着物は、今の時代には珍しいだろう。古臭いおかっぱの頭と相まって、まるで座敷童のようだった。
「子供だけど、少なくとも君よりは年上に見えるでしょ。それに昔からこの格好だし……変な服着れないでしょ。私、神様なんだから」
「神様?」
 透子を無遠慮に指差して、少年がきょとんとした。すっかり目が覚めた様子で上から下まで眺めてから、そのまま吹き出した。
「あははは、お前、神様? 本気で言ってる?」
「君、さっきからすごく失礼だよね!」
「だって、神様って。ひっどい冗談!」
 少年は腹を抱えてひとしきり笑った。先ほどまでの拒絶感は消えて、すっかり少年らしい声を上げてはいるものの、だからこそ透子は腹立たしい。今まで、透子の姿が見える人間がこんな態度を取ったことはなかったのだ。
「それで、君は誰なの。神様のこと笑うけど、ここが神社だってわかって寝てたの?」
「……そうだな、神様になら教えてやるよ」
 少年は笑いをなんとか噛み殺しながら言った。息を大きく吸い、吐き出して気持ちを落ち着けると、表情を引き締める。しかしまだ、節々から透子を侮るような様子が残っていた。
「俺、日置涼平って言うんだ。……最近この町に来たから、神社なんて知らなかったよ。迷子になって……ここで休んでた」
「りょー、へー……涼平」
 確かめるように口の中で言うと、涼平と名乗った少年は頷いた。恥ずかしげに俯いているのは、ここにいるのが不本意だからだろう。
「そっか、迷子の子を見つけたから、私のこと呼びに来たんだ」
 透子は涼平の足元で丸くなる子狸を見て微笑んだ。彼は涼平を助けるため人を探していたのだろう。寄り添う子狸と涼平の組み合わせは、意外なようでしっくりと来る気もした。
「涼平、もう遅いしご両親も心配しているだろうし、帰ろう。バス通りまでの道なら、私も案内できるから」
「…………いい」
 涼平はふい、と俯いて、素っ気なく言った。透子は首を傾げた。
「帰り道わからないの? 私も涼平の家はまではわからないなあ」
「心配してないから。家、誰もいないし」
「……え?」
 透子の無邪気な追及に、涼平は顔をしかめた。苦々しく、だけど言わずにはいられない調子で口を開く。
「仕事だから。二人とも家にいないし、夜中まで帰ってこない」
「……そう、なの」
「ここにいた方が気も紛れるし。ほっとけよ」
 涼平はふたたび膝を抱え、顔を隠した。帰りたくないと言うのは本気のようだ。
 次第に風が強くなり、空に雲も増えてきた。塗り残しのような赤い陽が間もなく掻き消される。夜は雨になるだろう。
 透子はためらいがちに涼平の肩を叩いた。
「じゃあ……うちに寄っていく? 雨が降りそうだし、ここにいるよりはいいと思うよ」
「知らない人について行くなって言われてる」
「なんでそんなところだけ真面目なの。外で寝るほうが、よっぽどだと思うけど」
 透子は呆れて首を振った。この子供、絶対にひねくれ者だ。
「だいたい、俺はお前の名前も知らないし。俺にどうこう言う前に、名前くらい名乗れよ」
「――――生意気!」
 透子は涼平の額を、思い切り指でつついた。




 〇




 また来た。と透子は思った。
 都会的で洗練された容姿に、生意気な瞳を持つ少年が、石段を駆けあがってくる。
 長い雨が続き、客のほとんど来ない上森神社にあって、少年は毎日のようにやってくる。主に、透子を小馬鹿にするために。
「透子!」
 透子の姿を認めると、少年は黒い傘を片手に駆け寄ってきた。透子の座る軒下の横に自分も腰を掛けると、傘を閉じて透子を見やる。にやっと笑った表情は子供らしさでは片付かない生意気さがあった。
「また神社にいるの? よく飽きないなあ」
「それ、まったく同じことを涼平に返すよ」
「俺は夏休みの間だけだからね。夏が終わったら都会に戻るし、神社にも来ないよ」
 ふふん、と涼平は鼻で笑った。
 涼平は田舎であるこの上森町をあまりよく思っていない節があり、はやくもともと住んでいた都会に戻りたがっているらしい、と透子は何度か会話をするうちに知っていた。
「田舎でのびのびさせよう、なんてうちの親は言ったけど、都会でも田舎でも、一人だとなんもできねーよ。お父さんもお母さんも仕事でほとんどいないし。それなら、遊ぶ場所があるところの方がよっぽどいいや」
 そう言いながら、雨空を見上げる涼平は少し寂しげだった。
 生意気な口とは裏腹な横顔を眺め、透子は苦く笑った。せめてもとの都会であれば、友達だっていたものだろうに。
「まあだから、暇つぶしに今日も透子と話をしてやるよ。お前もいっつも一人だし、たまに話してもじーさんばーさんばっかりだし、友達いないんだろ?」
「涼平って本当に失礼だよね。口を閉じれば可愛いのに」
 それが神に向けた言葉か、と透子は両手を伸ばし、涼平の髪をわしゃわしゃと掻く。
 涼平は鬱陶しそうに頭を振った。
「……可愛いとか、褒め言葉じゃねーよ」
「じゃあ、なんて言ってほしいの」
 透子の問いに、涼平は意外なくらい神妙に黙った。視線を落とし、ふらふらと揺らしていた足も止める。その様子に違和感を覚え、思わず透子は手を止めた。
「透子さ、俺が都会に帰ったら、寂しいって思わないのかよ」
「…………えっ」
 涼平が顔を上げ、まっすぐに透子の目を見ていた。彼の透き通った瞳は、冗談を許さない真摯さがある。
 透子はかすかに戸惑い、それから考えながら口を開いた。
「寂しい、けど仕方ない。慣れてるから、私」
 透子は神だ。長い間生きてきた。親しい人が生まれてから、老いて死ぬまでも。
 ――いずれはみんな、透子を置いて行ってしまう。どれほど透子が寂しくとも、それはどうしようもないことなのだ。
「仕方ないってなんだよ。透子は俺がいないと寂しい? 寂しいってことでいいんだろ?」
「う、うん……?」
 身を乗り出すようにして、涼平は透子の言葉を確認した。有無を言わせないその調子に、透子は曖昧に頷く。
「じゃあ、来年も来るよ。透子が寂しいっていうんならな」
「うん……ありがとう……?」
「なんだよその態度」
 唇をとがらせてそう言うと、涼平は改めて透子の隣に座りなおした。それから初めて気が付いたかのように、周囲を見回して言う。
「そういえば、今日は誰もいないんだな。あの怖いじーさんは?」
「栄吉は、今の時間は本殿にいると思うよ」
 そろそろ盆も近づき、夏祭りの用意に忙しいだろう。普段はあまり人のない神社だが、そういう時だけはにぎやかになるのが、透子は嬉しかった。
「なんだ……相変わらず人気のない神社だな」
 涼平はほっとしたように破顔すると、慌てて余計な言葉を付け加えた。むっと顔をしかめる透子を見て、涼平はさらに安堵したらしい。
 涼平がからかい、透子を怒らせる。それがいつもの通りの、二人の姿だった。
「透子も神様なら、人を呼んでみろよ。だってこんな見える神様、普通はいないじゃん」
「…………見えないんだよ」
「うん?」
「涼平は気付いてないみたいだけど、普通は、見えないんだよ。私が見えるのは、涼平みたいに霊感がある人か、私のこと、信じてくれている人だけ」

 信仰心が透子の存在を作る――上森神社の神とはそんな存在だった。
 神は、透子は存在する。そう信じればこそ形作られ、実態を持ち、人を守る力を得るのだ。
 だけど信仰の薄れた今、透子は霞んでいく姿しか持たない弱い存在でしかない。
 いずれは、透子は誰からも忘れられ、消え果るだろう。
 それが神としての死なのだ。

 透子は俯きがちに、あまり暗くならないように言った。
「私、そんなすごい神様じゃないから」
「じゃあ、透子には何ができるの?」
 揶揄するような声で涼平が問う。相変わらず、神だとは信じてくれていないようだ。
「……天気を占ったりとか、これから先のことを予想したりとか……かなあ?」
「しょぼっ」
「うるさいなあ」
 透子は頬を膨らませ、涼平を睨んだ。何もできないと言うことは、透子自身にもよくわかっている。何もできないから、信仰が薄れた。それがさらに透子を弱くした。
「……まあいいや、透子」
 涼平が、透子の着物の裾を引いた。涼平の窺うような瞳が不思議と大人びて見えて、透子はぎくりとした。
「明日の天気、占ってよ透子。神様じゃなくても、信じるから」
 にっ、と涼平は歯を見せて笑った。透子は俯きがちに涼平を見やる。十歳そこそこの少年が、まるで自分よりずっと大人に思えた。
「うん……」
 透子はそう言うと空を見上げた。
 今日も重たい雨が降り続いている。この雨はきっとまだ降り止まない。この長雨で鳥たちも逃げ出し、獣も場所を移した。耳を澄ましても、生き物たちの囁きが聞こえない。それに――。

 透子ははっとした。思わず軒下から立ち上がり、周囲を見渡す。
 獣がいない。木々が沈黙している。だけど何か騒がしい。胸騒ぎ、なのかもしれない。
「透子?」
 訝しむ涼平の声も、ほとんど耳には入らなかった。間近に迫るなにかの予感が、透子を震えさせる。
 ――耳鳴りが聞こえる。痛いくらいの音と、悲鳴。

 それは幻聴であって、近い未来の予兆だった。




inserted by FC2 system