波乱の始まり


<1-1>

 私の弟は、本当に可愛くない。

「えー、嘘だあ。すっごいかっこいいじゃん。成瀬に似ないでさ」
 失礼なことを笑いながら言う。
 昼下がりの学生食堂、騒がしく行き交う人々を背景に、私は友人の藤野を睨みつけた。
「弟くん、劉生くんだっけ? 見た目も性格もいいし、女の子にももてるでしょう。あんな弟欲しいなあ」
「可愛くない。見た目とかそんなんじゃなくて、完全に可愛くない」
「頑固な姉だねえ。毎度思うけど、何がそんなに可愛くないの」
 食べ終わって空の皿。次の講義まで時間はまだまだある。藤野は本格的に聞く態勢に入り、テーブルを押さえつけるように両手を置いた。
 茶色の猫っ毛を跳ねさせて、好奇心の瞳で私を捉える。やんちゃで落ち着かないようで、そわそわと姿勢を変える。年の割に幼い顔、今にも走り出しそうな小柄な体。まさに子猫のようだ。
 私は藤野を睨みつつ、お決まりの弟への文句を言い連ねるために口を開いた。
「私と一つ下というのが可愛くない。同じ大学に入ったのが可愛くない。何かと構われたがるのが可愛くない」
 それに――。
 一番の理由は、藤野には言えない。

 ○

 大学から実家まで、電車で一時間。大学と同じ県内。十分通学圏内で、これくらいなら家を出る必要もない。私のまわりも自宅通学者が多く、下手をすれば自転車で通うものまでいる。
 それならなぜ、私が一人暮らしをしているか。

「ねーちゃん」

 耳に返る、あの甘えるような呼び声。あらあら劉生は相変わらずお姉ちゃんが大好きねえ。お前はシスコンだなあ。なんて微笑ましい両親の会話。その裏にある、私の密かな恐怖を誰も知らない。

「ねーちゃん、大好きだ」

 うん、冗談だと思っていた。
 大学に入って脱色してしまったけど、劉生の髪はすみのように黒くて艶やかだ。それに、犬のような瞳と少し大きめの口と――姉としても貶すことができない涼やかな美貌。背は中学を過ぎてからすくすくすくと伸びて、運動をしているわけでもないのに適度に筋肉もついた。服はほどほどにセンスよく、性格は穏やかで怒ることはめったにない。劉生はまごう事なき色男だ。五年越しのストーカーがつくほど。
 同じ両親から生まれたのに、私ははっきり言って美人ではない。顔立ちも、パーツだけを比べれば確かに劉生と似ているのだけど、どこを間違ったのか少しデッサンが崩れてしまったらしい。服のセンスもないし、筋肉もない。身長も平均より少し小さいくらいで、弟を見上げる羽目になる。一歩間違えれば美人だったのにね、と藤野に言われるほどだ。「間違えれば」ってどういう意味だ。ついでに言えば、もちろんもてない。
 姉と弟。神様の不条理を呪いつつ、それでも懐く弟をそれなりに可愛がってきた。特に中学生くらいまでは、みんなのアイドルだった弟がくっついて来るのを、密かに自慢に思っていたりもした。やっぱりねえちゃんが一番好きか。そうかそうか。
 それが、どうしてこうなった。

 ○

「ねーちゃん」
 ふいに、耳元で声が聞こえた。
 意識を遠くへ飛ばしているときだったから、急に現実に引き戻されて、私は危うく椅子から転げ落ちそうになる。
 というか、落ちた。落ちかけた。
「わ、ねーちゃん!」
 びっくりした声。瞬間的に背後から差しだされる、私を支える腕。私のわきの下と腰に腕を回して、ぐっと力を込められる。
 落ちかけた。つまり、落ちる前に支えられて、私は一命を取り留めた。
 ああびっくりした。
 心臓を押さえると、爆発しそうなくらいどきどきしている。椅子からずり落ちたせいもあるが、未だ私を支える腕に魂が飛んでいきそうなくらい驚いている。
「……死んだらどうする」
「死ぬ前にちゃんとかばうよ」
 驚かしたのはお前だろうに。劉生は自分に責任があるなんて全く思っていない声で、私の耳に囁いた。
「大切なねーちゃんだもん。絶対に守るよ」
 ひいいいい。背筋に悪寒が走る。劉生の声は低く穏やかで、どことなく艶っぽい。こういうことを、私ではなくもっと他の女の子に言ってやればいいのに!
 藤野が興味深そうに、私たち二人のやり取りを見ている。その表情、ちょっとだけにやけている。一年間の付き合いでも、なにを考えているかよーく分かる。面白いおもちゃを見つけた、なんて思っているのだ。
「やーっぱ、かっこいいじゃん。成瀬の弟くん。劉生くん? とっさに支えるなんて、今の男にはできないよー」
「えー、いやそうですか。照れちゃいますねえ」
「さっきまでも、成瀬と劉生くんの話をしてたんだよ。劉生くん、めっちゃかっこいいってね。成瀬ってば恥ずかしがってねえ」
「嬉しいです。ねーちゃんのこと大好きですから」
「いやー、こっちも照れちゃう! 成瀬、おい成瀬!」
 藤野の言葉に、口から抜けかけていた魂が慌てて帰ってきた。あぶないあぶない、このまま人生終了のお知らせが届くところだった。
「ねーちゃん、大丈夫?」
 劉生が私を覗きこんでいる。背後から、覆いかぶさるように。少年のように輝く瞳、長いまつげが瞬きの旅に揺れている。中途半端の伸ばした、劉生のさらさらの髪が私の額に当たる……。
 ひぎぃ!
「成瀬! 顔真っ青!」
 藤野が叫んだ。わかっている。今、この瞬間私の体から血の気がおぞぞと引いていく。
「ねーちゃん!」
 劉生がびっくりとして、私の体を掴んだ。私の肩に手を添えて、膝のあたりに腕を差し込み、そのまま持ち上げる。
 劉生得意の、お姫様だっこ、というやつだ。
「大変! 藤野さん、ねーちゃんを医務室に連れいていきますね」
「お、おおおお。頼りになるぅ!」
 藤野は両手を合わせて、オーバーにはしゃいだ。いやいや、感心していないで、この真っ青な顔の私を見てくれ!
 いいか、原因はこの劉生なんだ。劉生にさらわれる。どこに連れて行かれるか分からない。
 これはトキメキなんかじゃない。そもそも弟だ、などということは置いておいて、とにかく乙女のトキメキなんかとは最も縁遠い場所にある。
 私が今、こうして破裂するほど心臓を鳴らしている理由。

 それは恐怖だ!



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