類は友を呼ぶ


<2-3>

 事件が起きたのは、それから間もなくだった。

 その日は講義の空き時間、することもなくぶらぶらしていた。いわゆるひとつのぼっちだ。ちなみに藤野は悲しいかな、昨年必修の単位を落としたために、再履修の科目をこの時間に入れていた。彼女は今、一年生に混ざって講義を受けている。
 サークルにでも入っていないと、この時間は本当に暇だ。学部の他の友人たちも、なにかと講義や予定で捕まえられない。言っておくけど別に友達が少ないわけじゃない。大事なことなので繰り返す、少ないわけじゃない、断じて。
 勉強しようかとも考えたけど乗り気でなく、昼ごはんにはまだ早く、仕方がないからいったん下宿先のアパートにでも帰ろうかな、などと大学の裏口に向かってぼやぼやと歩いていた。
 それが失敗だった。

 裏口へ向かう通りは人が少ない。それも、講義時間帯となるとひとしおだった。
 というか、通りですらない。近道のために、建物と建物の間に挟まれた狭くてちょっと雑草の生い茂る場所を横切るのだ。日当たりは悪く、穏やかな春にふさわしくない、冷たい空気が流れる。
 家に帰ったらどうしよう。一時間くらい余裕があるし、寝るか、テレビでも見ながら転寝するか、昼寝するかの三択である。そんなことをとろとろと歩きながら考えていると、不意に背後から腕を掴まれた。
 冷たい女の手だ。どうせ藤野かそこらだろうと軽い気持ちで振り返った私は、声を上げそうになった。
 暗い顔で私を睨む、小柄な女がいた。間違いない、ストーカー女だ。黒い髪がうつむいた顔に影を落とし、不気味さを倍増させていた。私の手を握る力は強くて、指の先が互いに赤くなっていた。
「成瀬くんの――お姉さん、ですよね?」
「うん、まあ……」
 彼女の瞳が私を睨む。鋭くて、冷たい瞳だ。本能的に、これはヤバいと感じる。むき出しの敵意が、私の心をひやりと撫でる。
「お姉さん……私、成瀬くんのこと好きなんです。私、とてもとても好きなんです、世界で一番……誰にも負けません」
「そ、そうですか」
「でも、成瀬くん、好きな人がいるんですって。ふられちゃいました。でも、私、諦めきれなくて、せめてあんな素敵な成瀬くんに好かれる人がどんな人か、見てみようと思ったんです」
 彼女の声は、ぼそぼそと聞き取りにくい。私を目の前にしているのに、独り言を言っているみたいな様子だった。ぞっとして逃げようとしても、彼女の手が私を逃がさない。
「私、成瀬くんの後をつけていたんです。でもすぐにばれちゃって……『なんでこんなことをしたんだ』って聞かれたんですよ。私、正直に答えたら……成瀬くん――」
 ふ、と言葉を切り、悲しげにため息をついた。
「私のことを睨んで、脅すような声で言ったんです。『ねーちゃんに何かしたら許さない』って」
 りゅうううせえええいあの野郎!!
 完全にあいつのせいじゃん! 原因あいつじゃん! お前のせいでねーちゃん何かされそうなんだよ!
 しかし劉生への昂ぶった怒りは、彼女の次の言葉にしぼんでいく。相変わらず静かに、独り言を呟くように彼女は続けた。
「最初はほっとしたんです。好きな人って、恋人とかじゃなくて、お姉さんのことなんだって。それなら、そのうち私に向いてくれることもあるかも、って。……最初はそう思ってたんです。でも」
 ――最初は。なら、今は?
 私を見上げる彼女と、目が合う。
 その表情に寒気がした――般若だ。彼女は怒りを隠すことなく、今にも噛みつきそうなほどに顔を歪めていた。
「だんだん腹が立ってきたんです。お姉さんと言うだけで、なんで私と成瀬くんの邪魔をするの? お姉さんがいるから、成瀬くんが振り向いてくれないんです。――邪魔なんですよ、成瀬くんにとっても私にとっても」
「邪魔なんて……」
「いるだけで邪魔なんです。だから、私と成瀬くんは付き合えないんです。お姉さんがいなければ、成瀬くんは私を見てくれるんです」
「は、話が飛躍しすぎ……劉生が誰を好きになるかは、私とは関係ないよ」
 彼女は首を横に振るだけで、聞く耳なんてないようだった。劉生然り、ハルちゃん然り、ストーカーとは会話が成り立たないのが常識らしい。
 もう何を言っても無駄だ。そのことは、彼女の表情がよく物語っている。私への憎しみを、彼女はそのまま顔に表していた。
「消えてください」
 彼女はポケットからカッターナイフを取り出すと、チキチキと音を立てて刃を伸ばした。
 ――うそでしょ。
 彼女が私を見据え、刃を振りかざす。固く握りしめられた彼女の手を払おうと、私は思い切り腕を振った。離れない。逃げられない。
 ――やばい、やばいよ。劉生。
 劉生。
 劉生のボケ。
 死んだらお前のせいだ!

「ねーちゃんっ!」
 飛び込んでくる声に、彼女の動きが止まった。私に向かって振り上げた腕はそのまま、固い動きで声の方向を見る。私も、その視線の先を追いかけた。
 こちらに向かって走ってくる一つの影――――劉生。
 どうしてここに。いや、そんなことは今はどうでもいい。
 見る間に近付く劉生の姿が、その端正な顔に怒りを込めた姿が目に入ると、私と彼女は揃って息をのんだ。
 劉生は私たちの前にやって来ると、真っ先に彼女の腕を掴んだ。あまりに強く掴まれたせいか、カッターが指先から落ちる。劉生はそれを一瞥もせずに、彼女を睨んでいた。
「成瀬くん……!」
 彼女は途端におろおろとしだした。助けを求めるように視線をさまよわせるが、もちろん、助けになるようなものは何もない。
「違うの、違うんです。あの、私、あの」
「ねーちゃんに何かしたら許さないって言ったよな」
 劉生は抑え込んだ低い声で、彼女に囁いた。そばにいる私でもぎくりとするような、凄みのある声だった。生まれてこの方、劉生がそんな声を出したのを、私は聞いたことがなかった。
「あの、あのあのあの……」
 劉生は彼女の言葉など耳にも入らないらしい。黙って彼女の襟首を掴むと、乱暴に建物の壁に押し付けた。その劉生の顔は、さっきまでの彼女とは違い、ほとんど表情がないのに――鬼のようだった。
 劉生ににらまれて、彼女は蒼白になっていた。どれだけ強い力で襟を締められているのだろう、彼女は苦しそうに顔をしかめる。
「り、劉生、女の子にひどいことは……」
「黙って」
「はい」
 反射的に頷いてしまった自分が情けない。劉生のくせに、横から見ているだけで怖いのだ。
 劉生は彼女を壁に押し付けたまま、ゆっくりと顔を近づけた。彼女の耳元に、触れるほどに唇を寄せると、静かな声で言った。
「二度とねーちゃんに近づくな。次はない」
 端的に、それだけを言うと、劉生は手を離した。
 彼女はその場に沈み込み、頭をもたれると、声を殺して泣き出した。劉生は彼女を見もせずに、行こう、と私を促した。
「ほ、放っとくの?」
「他にどうするの。警察でも呼ぶの?」
「さすがにそれは……」
 一応は殺人未遂なのだし、呼ぶべきなのかもしれない。しかし私には、彼女を警察に突き出す気にはなれなかった。啜り泣きを続ける彼女が気の毒になってしまったのだ。だからと言って私が慰めるのも逆鱗に触れるだろう。後味が悪い。
「ねーちゃんは人が良いんだよ。俺がいなかったらどうなったかわからないのに」
 劉生が肩を竦めた。さっき見せた凄味はすっかり消えていて、私はほっと息を吐いた。
「……うん、ありがとう」
「なんか、素直だね」
 劉生が照れたように頬をかいた。いつもの劉生らしい穏やかな顔を見上げて、私は少し微笑んだ。



inserted by FC2 system