トラウマはえぐるもの


<5-3>

 ベッドの下に男が潜んでいた、と言うのは都市伝説で有名かと思う。
 ところが残念ながら、私は布団派であった。万年床の下には隠れる場所はなく、その手の恐怖とは無縁だとばかり信じ込んでいた。私が甘かった。

 劉生を放り出した私は、すっかり油断していた。買ったものは冷蔵庫へ押し込み、夏の暑さで渇いたのどを潤して、さあ一段落。部屋着に着替えようとジーンズを脱ぎ捨てたが、愛用の野暮ったいジャージがない。
 小汚い部屋を見渡す。服とプリントの散乱した床に、足の踏み場があるはずはない。これが年頃の女の部屋と言うのだから驚きだ。劉生もよく懲りずにこんな部屋へ上がり込むものだ。私なら幻滅する。こんな部屋に住むのはきっと怠惰で不精などうしようもない女に違いない。
 そんな幻滅っぷりにとどめを刺すように、私は半裸でジャージを求めてさまよった。とはいえ狭いアパートの一室。床の発掘にそう時間はかからない。
 ない。
 蝉の声が無駄な努力をあざ笑う。むーんむーんと、いつもとは一味違う唸るような鳴き声だ。やかましい、どうせきっと押入れに投げ込んだのだろう。私はジャージを期待して押し入れを開けた。
「むーん、引っかかりますね……」
 私を見上げる二つのぱちりとした二重の瞳。目が合うと薄暗がりの中から会釈をしてきたので、私は黙ってふすまを閉めた。
 隙間なく閉め切ると、私は目を閉じた。
 ――静かだ。
 通りを行き交う車の音と、蝉の音の他には何もない。なぜなら部屋には私一人しかいないのだから。むーんむーんむーん、静けさや汚部屋に染み入る蝉の声。
 先ほど見たのはなんだったのだろう。夢か幻か、はたまた座敷童か。私は額を押さえて、少しの間押し入れを前に立ち尽くした。
 いやわかっている。これは現実から目をそむけているだけだ。それでも確認するには、相当な勇気がいるのだ。私は息を吐きだすと、意を決して再び押し入れを開け放った。
「むーんむーん……。あ、お姉さん、お邪魔してます」
 薄暗く湿っぽい押し入れから、場違いな明るい挨拶があった。私はその場にへなへなと座り込む。予想通りと言うべきか、予想通りであってほしくなかったと言うべきか。座敷童の方がよっぽどよかった。
「ハルちゃん、なにしてんの……」
 押し入れからストーカー。普通の神経だったら絶叫ものである。ホラー映画も真っ青な現実。こうしてまた世界に一つ、新たな都市伝説が生まれた。友達の友達に広めないと。
「あたしはいつも通り、劉生さんの身辺を自主警備ですよ」
 ハルちゃんは膝を抱えながら、当然のようにそう言った。要するに日課である劉生のストーカーをしていたわけだ。それはそれで問題があるが、今の私にとっては大事ではない。
「なんで私の家にいるの!?」
 今日、劉生が不法侵入した後に、人の入って来る気配はなかった。つまりはその前。劉生と一緒にやって来たとも考えにくい。ということは――いつから?
「やだなあ、お姉さん」
 ハルちゃんは照れ笑いを浮かべ、顔の前で手を振った。
「あたし、お姉さん相手なら気づかれずに添い寝できるって言ったじゃないですか」
 いやはやまったく答えになっていない。その上なんでちょっと自慢げな表情なのだろうか。

 とにかく押し入れの内外で会話をすることは常識的人には耐え難いので、私はハルちゃんを引っ張り出した。通報するどころか、お茶を出し座布団を提供する。こんな待遇のいいストーカーが彼女の他に存在するのだろうか。
 長いこと押し入れにいたせいか、ハルちゃんは薄く汗をかいている。明るい色の髪が額に張り付き、うっとうしそうに片手で払った。本当に、ハルちゃんは劉生のことさえなければ、明るい美少女だと言うのに。対する私は、無事に押し入れから目当てのものを発掘することができたために、下着女から野暮ったいジャージ女にランクアップした。
 ハルちゃんは冷茶を一口すすると、もう一度「むーん」とうなった。
「どうしたの?」
 興味はなくとも聞いておくのは大人のたしなみである。
「いえ、劉生さんのことなんですけどね」
 片肘をつき悩ましげにハルちゃんは言う。
「劉生さん、甘い卵焼き嫌いなんですよ。知ってますよね?」
「はあ?」
 想像以上にどうでもいいことだった。劉生の食の趣味など知ったことか。
「出汁入りのしょっぱいやつが好きなんですよ、劉生さん」
 言われて思い返す。私と劉生は姉弟のせいか味覚が似ている。小さいころから、私と劉生はそろって給食の甘い卵焼きを残していたものだ。
 だけど、たしかいつの頃からか、劉生は残さず食べるようになっていた。卵焼きが甘くて美味いんだよ――そう言う評価を、私は聞いたことがあった。
 ぼんやりと昔を思い返す私に、ハルちゃんは神妙な目を向ける。
「あの女の卵焼きを、劉生さんは美味しいと言ったんです。はちみつ入りですよ!」
「…………ああ」
 私は思わず口元を押さえた。ゆっくりと記憶がよみがえる。あのとき、劉生が初めての彼女に浮かれていたとき。
「川崎さんが作った卵焼きだ……」
 当時の劉生は、彼女とのことをなんでも私に報告してきた。今日はどこへ行った、なにをした、何を食べた。その中に混ざって、卵焼きの話があったのだ。
「川崎? 川崎礼美?」
「知ってるの?」
「もちろん。あたしのデスノートの一番上に名前が書いてあります」
 さすがである。
 中学時代からのストーカーであるハルちゃんが、劉生の元彼女を知らないはずがない。そうお思いだろうか。たしかにいつもの調子のハルちゃんであればそうだろう。いや、ハルちゃんの存在があれば、劉生に彼女ができることすらなかったかもしれない。しかしこれには深い事情がある。
「あたしが留置所にさえいなければ……!」
 逮捕されていたのである。
 実際には逮捕というわけではなく、一時的な身柄の拘束だったと聞くが、詳しいところはよくわからない。なんにせよハルちゃんは警察のご厄介になっていて、劉生のストーカー歴に空白の期間を作ってしまったのだ。
 不死鳥の如くハルちゃんが社会復帰するまでの短い間、劉生は晴れて自由の身。彼女の一人二人できてもおかしくない。そして実際にできたし別れた。ハルちゃんとしては面白くないだろう。
 憎々しげにこぶしを握り、ハルちゃんはテーブルを叩いた。ズンと鈍い音がして、冷茶の入ったコップが揺れた。
「つまりあの女は川崎礼美なんですね!」
「いやいやいやいや」
 今すぐにでも殴り込みに行きそうなハルちゃんの形相に、私はあわてて止めに入る。いつもストーカーらしからぬ礼節と穏やかさを持つハルちゃんらしくもない。それほどまでに、川崎礼美が憎いのか。
「顔が違うし名前も性格も違うよ」
 川崎礼美は少しハルちゃんと似たタイプの、どちらかと言うと素直で明るい、可愛らしい少女だった。落居さんは正反対ともいえる鋭い美女であり、少ししか言葉を交わしたことはないが、とても素直とは言えない性格をしている。数年が経っているとはいえ、そうまで見た目も中身も変わるとは思えなかった。
「むーん……!」
 納得できないらしく、ハルちゃんは不満げに唸った。
「じゃあ、あの女はなんなんですか!」
「なんなんですかと言われても」
 ごく一般的なストーカーではないでしょうか。卵焼きひとつで早計すぎる。私は冷茶を飲みながら、苦い顔で荒れ狂うハルちゃんの様子を眺めた。
 ストーカー、ストーカー、先輩、ストーカー。私が知る中で、劉生に恋をした四人。まともなのが一人もいない。
 なんで劉生は、こんなのばっかりに好かれるのだろう。お姉ちゃんとしては、義妹になる人物までこんな連中だったら嫌だ。





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