トラウマはえぐるもの


<5-4>

 日増しに強くなるストーカー攻勢に、さすがの劉生もたじたじらしい。
 劉生なんて年がら年中ハルちゃんに追われているんだから、一人二人のストーカーくらい屁でもないだろうと思ったが、案外そうでもないようだ。おかげで劉生に待ち伏せされる回数も減ったし、携帯電話の迷惑メールも減った。まったくストーカーなんてけしからんもっとやれ。
 ようやく夏休みらしく、快適な日々が戻ってきた。晴れ渡る空が清々しい。空は青く、太陽は眩く、そして今日はバイトが入っていた。

「暇ですねえ」
 外村君がレジの前で、退屈そうにそう言った。今日は外村君目当ての女性客も来ていない。店には今、私と外村君の二人きりである。町行く人々は店の外を足早に通り過ぎ、入ってくる気配は全くなかった。
 余談だが、外村君がバイトで入ってからその評判は瞬く間に広がった。おかげで常連だった女性客の来店頻度は増えたし、初めて来る客はリピーターになるし、外村君の彼女は次々に代わるし、店内で修羅場まで起こるという怒涛の展開だった。
 なにしろ口が上手いのだ。外村君と会話をすると、女性はころりと引っかかる。それが趣味なのではないかと思うくらいに無節操に口説いて、その結果起こる修羅場も自分の口で解決する。まさにマッチポンプという呼び名がふさわしい。
「どうかしました?」
 ぼんやりとしていた私を外村君が覗きこむ。最近髪を切ったせいか、爽やかさが三段跳びで上がっている。人を見かけで判断してはいけないと言うが、それはこの外村君のことを言っているのだろう。
「なんでもない」
 私が首を振ると、外村君はわずかに眉をしかめた。
「ずいぶんぼーっとしていましたけど、疲れてるんですか? 休憩入ります?」
「いやいや、ちょっと考え事をしていただけで」
「考え事? 悩みでも?」
「大したことじゃないよ」
 そもそも悩み事ですらない。外村君の無節操さについて考えていただけだ。
 しかし外村君は、私の本心からの返答をまったく信用しなかった。疑いの眼差しで私に顔を近づけた。
「本当です?」
「本当だよ。やけに気にするねえ」
「気になりますよ。成瀬さんのことですから」
「はあ」
「俺、もっと成瀬さんの考えていること知りたいですから。悩みだったら力になりたいんです」
 ここでときめくのが初心者の浅はかさである。そして私は、初外村君のときに十分浅はか体験済みである。外村君が乱立させた恋愛フラグが丸ごと先輩に移ったとき、ときめく心はごみ箱に捨てた。
「外村君それより奥から紙コップ持ってきておいて。少なくなってるみたいだから」
「……成瀬さん、最近冷たいですよね」
 外村君ががくりとうなだれたとき、ピンポーンという間の抜けた音とともに、夏の空気が店に入り込んできた。
 見ると、自動ドアが開いて一人客が入って来るところだった。
「いらっしゃいませ!」
 外村君が明るい声で言う。私はその横に立ち、入ってきた人物の姿に目を丸くした。一瞬言葉が出なくなる。
 黒髪が美しい、大人びたワンピース姿の女性。町を歩けば誰もが振り返るような美女。額にかく汗の雫さえ麗しい。外村君が目を光らせる横で、私は眉を寄せてつぶやく。
「落居さん……?」
「成瀬さんあのお客さん知ってるんですか? やべー! すごい美人じゃないですか! 紹介してください!」
 とまあ、さっきの私に対する思わせぶりな発言は一切なかったことになる。外村君の人間性も垣間見ることができただろう。

 落居さんにコーヒーを出す時、やはり声をかけられた。
「成瀬さん、ここで働いていたんですね」
 窓際の日当たりのいいテーブル席で、落居さんは目の前に置かれたコーヒーに角砂糖を落とす。そのしぐさ一つ取っても優雅な、まさに大人の女性だ。窓からこんな女性を見たら、思わず外を歩く人々も足を止めてしまうだろう。もっとよく見たい、できればお近づきになりたいと、店に道行く男たちが殺到するかもしれない。おかげで店は大繁盛。私と外村君では捌ききれないほどの人でごった返し。それもすべては落居さんが美人ゆえ。
 しかし安心してほしい。日当たりのきつい夏場はブラインドを下ろしているので、外からは何も見えない。
「だから、ナルくんがよくここに来るんですね」
 ぼんやりとした私の妄想の行方を落居さんが引き留める。にこりと口元を歪めながらコーヒーを飲む落居さんを見下ろし、私は低く聞き返した。
「……『ナルくん』?」
「そうですよ、ナルくん。成瀬劉生、なるせ。で、ナルくん」
 当たり前のように落居さんは微笑んだ。説明がなくとも、『ナルくん』という呼び名が劉生を指すことはわかる。問題はそこではない。
「その呼び方って――」
「アヤが劉生につけたあだ名じゃないですか」
 私の後ろから、ひょいと外村君が顔を出した。美人が気になって気になって仕方がなく、傍で聞いていたのだろう。こればっかりは仕方あるまい。美人に反応してしまうのは男のさが。そして目の前の美人を口説き落とすのが外村君のさがなのだ。
「あら、外村君ね」
「俺のこと知ってるんですか?」
「ナルくんの友達でしょう? ナルくんのことなら、私なんでも知っているのよ」
 落居さんが上目づかいで外村君を見た。少し自慢げに頬を染め、目元にはとろけそうな笑みを浮かべている。並みの男なら一瞬で恋に落ちるほどの殺傷力を持つ視線だ。そして並みの男よりも恋へのボーダーラインが圧倒的に低い外村君は、目を輝かせて私と落居さんの間に割って出てきた。
「あ、劉生狙いなんだ? たしかに劉生はいい男ですもんね。性格も真面目だし、楽しいやつだし」
 そこで外村君は私にちらりと視線を投げる。
「でも、あいつは難しいですよ。なんてったって、大好きな『ねーちゃん』ってライバルがいますから。劉生はなにより『ねーちゃん』最優先。それで、告白だって断り続けてきたんですよ」
 何気ない外村君の言葉に、落居さんの表情が歪んだのが見えた。眉間にしわを寄せ、警戒するような顔を私に向ける。その表情は一瞬で、落居さんはすぐに穏やかな微笑みに戻った。が、その一瞬だけで、私は落居さんに快く思われていないことがよく分かった。
 どうやら私は、劉生に恋する女性たちにとって最大の障壁らしい、理由は言わずもがな、自分自身でよく分かっている。
「劉生のシスコンっぷりは尋常じゃないですからね。一時期彼女がいたけど、それ以外はずっと『ねーちゃん』一筋。話題はいつも『ねーちゃん』だし、どこに行くにも『ねーちゃん』のいるところ。定期にも『ねーちゃん』の写真を持ち歩いているし、ケータイの待ち受けまで『ねーちゃん』」
 だから神経を逆なでしないでくれ。落居さんの微笑みが、時折ぴくりと震えることに気がつかないのか。と外村君に言いたい。むしろ後ろから叩いて黙らせてやりたい。それをしないのは、バイオレンスを禁じる私の自制心ゆえ。代わりに呪いをかけておく。外村君が見事に女に振られて痛い目に遭いますように。
「そんなやつより俺にしません? 俺は難しいことなんもないですよー、自分で言っちゃうくらい簡単」
「ごめんなさい」
 落居さんが苦笑いを浮かべて即答した。なるほど呪いは即効性。さっきの今で見事に効果が表れた。
「んー、そりゃそうですよね。そう簡単に好きな人を変えらんないですよねえ。俺だってそうですもん」
「えっ」
 外村君の背後から、思わず私が声を上げる。平均約一週間で彼女を変える男が、どの口で言う。振り返った外村君は、心外そうな顔をしていた。
「俺、好きになったらかなり一途ですよ」
「えっ」
「えっ」
 私の反応に外村君が驚く。いや、驚かれる筋合いはない。自分の胸に手を当てて、これまでの日々を良く考えてみるがいい。
 しばらく言葉もなく私を窺っていた外村君だが、結局は呆れたように首を振った。
「成瀬さんには片思いする男の気持ちなんてわからないですよ」
 そしてくるりと顔を落居さんに戻すと、今度はこう言う。
「そんなわけで、劉生が無理そうだったらこんな純情な俺も考えてみてくださいね」
 駄目だこいつ……早くなんとかしないと……。
 外村君の後ろで、私は肩を落とす。一方の落居さんは悠然としていて、外村君を見上げながらコーヒーを一口飲む。そして少し困ったように口を開いた。
「ごめんなさい。私はやっぱりナルくんしか好きになれないわ」
「劉生が『ねーちゃん』に夢中でも?」
「ええ」
 落居さんは息を吐き、ゆっくりと私と外村君を見回した。黒くて切れ長の瞳が、きらりと挑戦的に光る。
「――たとえ、付き合っていた彼女と別れさせるようなお姉さんが、大好きだとしても」
 ぎくり、と一瞬顔が強張るのがわかった。高校時代、一番忘れたかった出来事。それを落居さんは一言でえぐる。優雅な笑顔の下に、私に対する敵意が見えた気がした。
「落居さ――」
「あんた」
 黙っていられず声を出しかけた私を、外村君の低い声が制した。浮ついた表情が消えて、今は落居さんを睨むような目で見ている。
「適当なこと言うなよ。成瀬さんが別れさせたって? それ、誰に聞いたんだよ」
 落居さんは優雅にコーヒーを飲む。険しい表情の外村君とは対照的だ。
「本人に聞いたのよ」
「本人?」
 劉生? そんなはずはないだろう。私でも、もちろんない。そうなると、当時の騒動、当事者だったのは――。
「あんた、アヤのこと知ってるのか?」
 カップを置く、かちゃりという音がした。コーヒーは空になっていた。店に流れる有線から、場違いな音楽が聞こえてくる。冷房を効かせすぎたのか、肌寒さを感じた。
「知っているわ」
 落居さんはそう言って目を細めた。





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