トラウマはえぐるもの


<5-5>

「と言っても、別に仲が良いとかそう言うわけじゃないのよ。どっちかと言えば、あの子のことは好かないわ」
 静かな店内で、落居さんは語る。
「ただ、ナルくんのことについて、その子の知っていることは全部知っている。付き合う前、付き合っているとき、別れたとき。一緒にいたときのことも、メールでのやり取りの内容だって」
 ふふふ、と笑みを崩さない落居さんを見ながら、私は落居さんと川崎さんがどういう関係なのだろうかと考えていた。共通点が見いだせない。姉妹か従妹か友人か。その割には顔立ちも似ていないし、互いの性格的にも友人付き合いがあるようには思えなかった。
 それとも「仲が良くない」と自分自身で言うように、落居さんと川崎さんはせいぜい顔見知り程度の関係かもしれない。多少強引なところのある落居さんが、川崎さんから無理に聞き出したのだろうか。川崎さんは押しに弱い部分があった。周りの目が、人の声が気になるような少し折れやすい性格をしていたのだ。
 だけど話すだろうか。過去の痛むような別れ話を。それともまさか、吹っ切れて過去の思い出と笑い飛ばせるようになったのだろうか?
「別れた理由って、お姉さんがナルくんに頼み込んだからなんですってね」
 考えに沈む私を、落居さんの声が引き戻す。
 ずっと私を見ていたのだろうか。顔を上げると、落居さんの深い暗色の瞳とかち合った。
「彼女よりも自分の方を大事にしてほしい、一緒にいてほしい、ナルくんに、そう言ったんですってね」
 私は黙って落居さんの言葉を聞いていた。反論はない。返すべき言葉がないのだ。
「いい加減黙れよ」
 かばうように私を背にし、押し殺した声で外村君が言った。普段のふざけた調子からは考えられないような、冷たく突き放す声色だ。恐らくは落居さんに責められている私か、もしくは劉生の名誉のために怒ってくれているのだろう。しかし肩を強張らせた外村君の背中は、頼もしいという感情以上に怖さがあった。外村君の怒りはこちらに跳ね返ってくるかもしれない。そう思うだけの後ろ暗さが私にはある。
「アヤから何を聞き出したか知らないけど、関係ないあんたが口を出していいことじゃないだろ」
「あら、関係ないって言うなら外村君も同じじゃない? 外村君が口を出す義理だって無いはずよ」
 けらけらと笑う落居さんに対し、外村君は小さく舌打ちをした。顔も見たくない、声も聴きたくない、そんな嫌悪感が外村君の表情から見て取れる。
「成瀬さん、戻りましょう。話したってしょうがないです。店は俺が見ておくんで裏で休憩とってください」
 落居さんから顔をそむけると、外村君は私の肩を軽く押しこの場を離れるように促した。口調も行動も少し強引だが、気遣ってくれているのがわかる。かばってくれているのだ。
 案外いい男だ、外村君。私はこの状況で、妙に感心してしまった。顔だけの男ではなかったんだな。
「いや、いい」
 しかし私はその親切を無下にする。静かに首を振った私に外村君が怪訝な瞳を向けた。
「成瀬さん?」
「外村君、戻っていいよ」
「どうしたんですか、成瀬さん」
 どうしたもこうしたもない。落居さんの言葉の先が気になるのである。この調子だと、劉生に関して触れられたくないことを言われるに違いない。そうと分かっていて聞こうとするなどとは、私もとんだ悪趣味である。
「そんなに不機嫌な顔しないでよ。私はただ、ナルくんの昔話がしたいだけよ。ねえ成瀬さん、懐かしいですもんね」
「そうだね」
 落居さんがにこりと私に笑いかけるので、私も笑顔を返した。出てきた声が意外に低かったのはご愛嬌だ。
 笑いながら睨みあう私と落居さんの間に、外村君は割って入ることができない。かばってくれたことはありがとう。しかし今は後ろに下がっていたまえ。女の話に口出しは無用。
「昔の成瀬さん、けっこうやきもち焼きだったそうですね。弟が取られるのが悔しかったんですか?」
「昔はそうだったかもね。でも今はそんなことないよ」
「そうですか? 今もナルくんを束縛しているんじゃないですか?」
「そんなことないよ」
 険のある和やかな会話をしつつ、私は落居さんの心の内を見積もる。初対面では劉生に近づくために私に話しかけ、それから間もない今日、今度は排除しにかかる。劉生を手に入れるための最短ルートを走る落居さんに、好悪の感情抜きに感心してしまった。
 さても、そんな敵対心むき出しの落居さんに対し、私はいかがな態度を取るべきか。ここはあくまでも劉生の姉として、一線を置いた姿勢でいるべきだ。劉生は劉生、私は私。それを心の真ん中に据え置き、私はそれはそれは冷静に落居さんの次の言葉を待った。
「そう? それじゃあ成瀬さんは、今はナルくんに彼女ができても構わないんですね」
「構わない構わない。落居さんも好きにするといいよ」
「昔とはずいぶんと違うんですね。ナルくんが取られて悔しくないんです?」
「いえいえまったく無問題。劉生に彼氏ができても彼女ができても何も言わないよ」
「へえ。私が彼女になっても?」
「もちろん、劉生が選んだなら文句は決して言いません」
「じゃあちょっと協力してくれませんか? ナルくんの彼女になるために。さっきの言葉が本当なら、構わないですよね」
「オーケイ、よろしかろう」
 はははと私はこの上なく余裕を持って笑って見せる。なんでもどんと来い、だ。しかと見よ、これが姉の貫録である。気持ちを大きく据えて話せばなんのことはない。過去は過去でしかない。少なくとも私にとってはもう、劉生はただの弟に過ぎないのだ。
「ならお願いしますね。成瀬さん、もう一度だけナルくんを呼び出してほしいんです。できれば今晩、私と二人きりになれるような場所で」
「お安い御用で」
 私は制服のシャツに忍ばせていた携帯電話を取り出して、メールの新規作成画面を開いた。劉生のことだから、私の名前を出せばホイホイついて来るだろう。そして私は弟だって構わず騙しておびき寄せる人間なのだ。
 落居さん指定の時間と場所を文面に乗せ、私は劉生にメールを飛ばした。弟相手にこの仕打ち。冷静な証拠である。まったく今日の私はなんて落ち着いているのだろう。
「成瀬さん、ありがとうございますね」
 満面の作り笑いで私に頭を下げる落居さん。の、お礼の言葉を聞く前に私の腕が引かれた。
「成瀬さん!」
 ずっと黙って聞いていた外村君だ。いつになく険しい顔をして私を見下ろしている。
「ど、どうし……」
「こっち来てください」
 そう言うと外村君は、私の腕を引っ張って店の奥へ連行した。いいのかな、仮にも客である落居さんを一人残して。冷静であるからこそ、そんな余計な考えも頭を巡った。

「成瀬さんなにムキになってるんですか」
 店の隅、観葉植物の影になった従業員の休息所で、外村君は私を離した。休息所兼物置。雑多な物たちの中に置いてある半壊した椅子に腰かけ、外村君はどこかささくれ立った声色で言う。どちらかと言うと、冷静でないのは外村君だろう。
「あいつの挑発まで受けて。成瀬さんらしくないですよ」
 何を言う。これほど冷静な人間がいるものか。冷静さに服を着せてコーヒー屋でアルバイトをさせたら私になる。それほどの冷静さを身に着けているのだ。
「落ち着いてください。息を吐いてください。どうです? ムキになっていたでしょう」
 外村君に言われて、私は床を見つめつつ深呼吸をする。いやはや、いつも通りのクールな私。従業員スペースで掃除なんてしないせいか、足元の汚れが目につくくらいの落ち着きだ。
「なってません」
「不機嫌じゃないですか」
「いいやすこぶる機嫌がいいね」
「やっぱりムキになってるじゃないですか」
「なってません。ムキになりません、これからも」
「なに標語みたいに言っているんですか。しかも上手くないし!」
 そりゃ悪かった。無意識で出てきた言葉に駄目出しされるとは。私は肩をすくめつつ外村君を見下ろした。座った状態とはいえ、外村君を見下ろすと言うのは珍しい。普段は背の高い外村君を、いつも私が見上げているのだから。
「成瀬さん」
 当然と言えば当然なのだが、外村君と私は顔を正面から突き合わせることになる。それがどうにも居心地が悪い。軽薄が売りのはずの外村君が、今に限って真摯な顔つきをしているせいだろうか。どうした、軽薄は売り切れたか? 安売りしすぎるからだ。
「成瀬さん、冷静じゃないですよね? あんな簡単に挑発に乗って、劉生になんてメールしたんです?」
「冷静です。だからメール内容については言えません」
 私は冷静に答えた。今の私は冷静すぎて冷蔵庫並みだ。出てくる声も低く冷たい。
「それを冷静じゃないって言うんですよ」
「冷静です。この世のどこかに存在すると言う全国冷静人間ランキングで五本の指に入るくらいに冷静です」
「ちょっとなに言ってるかよく分かりません」
 外村君は呆れたように息を吐いた。私の冷静さに恐れをなしたのだ。心の中で私は勝利を確信した。何の勝利かはわからないが。
「成瀬さん」
 そんな私の緩んだ考えを打ちのめすかのように、外村君が鋭い視線を向けた。ぎくりとするほどに真剣な表情だった。
「わかってますよね、劉生は弟なんですよ?」
「……もちろんわかっているよ。それが?」
「わかってるなら、別にいいです」
 無意識に心臓に手を当てる。いつもよりも鼓動が早足に思えた。冷静な私らしくない。落ちつけ。祈るように思う。落ちつけ。私は劉生を弟だと思っているし、この関係は一生変わることがない。
 それからしばらく、互いに黙っていた。外村君が無言で私を見つめ続けているところを見ると、話はまだ終わっていないようだ。私は逃げ出したいと思いつつも、蛇ににらまれた蛙のようにその場を動けない。
 ふと、外村君が顔を逸らした。膝に手を当て、重たげに立ち上がる。壊れかけの椅子がギシリと鈍くきしんだ。
「……とにかく、成瀬さんはもうあの人の相手はしなくていいです。店長に頼んで出入り禁止にしてもらいましょう? 今日は、俺が帰しますから」
「あ、で、出入り禁止にするならついでに劉生も」
「なんでそこで劉生が出てくるんですか」
「だって落居さんが来たのは劉生が原因だし、冷静に考えれば大元を断つべきだし、姉弟というひいきなしに公平に公正に考えて」
 不思議と口からすらすらと言葉が出てくる。さては冷静さを取り戻したおかげだな? などと考える私に、外村君がうんざりとした表情を見せた。
「成瀬さん、ムキになってますよ」
「なってません。ムキになりません、こ」
「それはもういいですから」
 外村君は短く言い捨てるような言葉を最後に、振り返ることもなく店に戻っていった。
 私は一人残されて、静けさになんとなくうなだれる。外村君が座っていた壊れかけの椅子に腰かけて、両手を握り合わせた。
 劉生に対することで、ムキになっていない。ならない。
「これからも、ずっと――」
 床を眺めながら、ぽつんと呟く。
 自分で言うのもなんだが、すねた子供のような口ぶりだった。



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