恋とははた迷惑なもの


<6-3>

「そんなのあたしにわかるわけないじゃないですかあ」
 ハルちゃんはあっけらかんとそう言って笑った。わからないって、あなた自分のことですよ。
「好きになったら好きなんです。それはもう、理由なんてないんですよ。引力なんです、月と地球みたいに引き寄せられちゃうんです」
 なるほどどうりで、劉生の周りをよく回っているわけだ。
「相手にされなくてもいいんです。いえ、本当は良くないけど、でも、あたしの方が好きになっちゃったから…………お姉さん、酷なこと聞きますね」
 ふと声を落として、ハルちゃんは天井を仰いだ。布団に横たわった私からは、物憂げに引き結ばれた口元だけが見える。
 ハルちゃんは胸元に手を当て、何度か深く息を吐いた。こうして見ると、彼女もごく一般的な恋に悩める乙女である。一途で純情、それでいて美少女。こんな好物件を逃すような無粋な男がいるだろうか。あ、いるわ、うちの弟だ。
 とまあ、ここに至ってようやく、ずいぶん無神経なことを聞いたのだと気がついた。ハルちゃんの存在自体の特異性から忘れがちだが、彼女もまだ十九歳のうら若き乙女。報われない恋について無遠慮に聞かれたら傷つくだろうし不快にもなるだろうし――。
「劉生さんがお姉さんを好きなのと一緒ですよ、つい追いかけちゃうのも」
 こうして手痛いカウンターも喰らうわけである。予期せず矛先を向けられ、私は思わず跳ね起きた。澄ましたハルちゃんの顔を眺めているこのときだけは、具合の悪さは忘れた。
「り、劉生は関係……」
 なくはない。むしろある意味で話題の中心ともいえる。ハルちゃんの想い人は劉生であり、劉生の想い人は、なんの因果か私なのである。
 ただし、ハルちゃんがそのことを明言するのは珍しい。というか、初めて聞いた気がする。
「無理と分かっているのに、自分でもどうしてって思います。劉生さんにも、あたしがこんなに好きなのになんで振り向いてくれないんだろうって。……そんなこと言って、あたしだって他の人にいくら好きだって言われても、振り向いたりしないんですけどね」
 無意識だろうか、言葉を紡ぎながらハルちゃんは目を細める。その、ハルちゃんの陰りのある笑みを、私は正面から見た。いつもの陽気な笑顔に似ているのに、伏せがちな瞳が切なさを誘う。私は耐え切れずハルちゃんから目を逸らしつつ、やはり気になってちらりと視線を寄せ、そしてたどたどしく口を開いた。
「あの、ハルちゃん、なんかごめん」
「いいえ」
 ハルちゃんは長い髪を揺らし、わずかにあごを引いて首を横に振った。
「あたしが好きでやってるからいいんですよう。代わりに、劉生さんのトランクスとか歯ブラシとか貰ってますし」
 そう言ったハルちゃんは、先ほどの陰りなど幻だったかのように明るい表情に戻っていた。なるほど劉生はトランクス派だったのか。高校まではボクサーだったのに、いつの間に宗旨替えしたのか。また知りたくもない情報を知ってしまった。ちなみに押収された物のその後については言及するまい。おそらくハルちゃんの家で、劉生の元にいたころより大事に扱われているだろうし。
 などと、めくるめくどうでもいい思考は、頭の右の端に置いておく。なるほどハルちゃんは好きでやっているのか、そっかー。なんて快活な頭の切り替えは私にはできない。私は苦々しい表情のまま、言うべき言葉を探していた。
「ハルちゃんは、その、嫌じゃないの? 私のこと」
「お姉さんですか?」
「…………なんというか、ほら。好きな人の好きな人って、嫌なものじゃない?」
 好きな人の好きな人を看病する。場合によっては昼ドラにまで発展するべき好シチュエーションだ。脅しやら取引やら、女同士の醜い争いやら。愛憎のもつれの末に、血みどろ事件に発展するのも悪くない。特にハルちゃんにとって、完全犯罪など朝飯前であろう。昼ドラに朝飯前とはこれいかに。
「いまさらですか、お姉さん」
 ハルちゃんは私に顔を寄せ、呆れたように眉根を寄せた。
「中学のときから、もう五年も見せつけられているんですよ。嫌もなにもないですよ」
 しかし当時は、まだごく平凡な仲の良い姉弟に過ぎなかった。
 ハルちゃんはますますずいと近寄って、私は思わず腰を引いた。まるで私に覆いかぶさるかのように、布団の上まで身を乗り出したハルちゃんは、右のこぶしをぐっと握り固めた。
「あたしは劉生さんが好きなんです。だから劉生さんが好きな人だって好きになります。だっていつだって、惚れた方が弱いんですから」
「ハルちゃん……」
 ハルちゃんの愛は海よりも深い。彼女の明るい笑顔を見ながら、私は見る目のない劉生を恨んだ。どうしてこの子にしなかったのだろう。私などよりもよほど。
「あたし、劉生さんと同じくらいお姉さんの背中も見つめていきます。これがあたしの愛! ですから!」
 海より深いハルちゃんの愛はブラジルまで突き抜けた。劉生、早くハルちゃんとくっついてくれ。さもなくば私の身にまで危険が及ぶ。

 結局ハルちゃんは、私の食事と服薬を見届けてから去って行った。勝手知るかのように手際よく作ってくれたお粥は、自分で作るよりもよほどおいしかった。ところで戸棚の奥にある薬のありかをハルちゃんに教えたのは誰だ。私でさえも忘れかけていたのに。
 去り際、私に背を向けたハルちゃんが不意に立ち止まった。布団の一部となった私は、いぶかしげにその姿を見上げた。去る方向がなぜベランダなのか、それは疑問の外に置く。いちいち気にしていたらストーカーと長いお付き合いはできない。
 ベランダから、夜風が部屋に流れ込む。ハルちゃんは髪を風に遊ばれながら、首だけを回して私を見た。
「お姉さん、劉生さんの好きな人も好きって、あたし言いましたよね」
「うん?」
「でも、好きな人の好きな人を、嫌いって言う人もいるんです。そう言う人の方が多いんです」
 ハルちゃんは考えるように、少しの間目を閉じた。
「……あたし、劉生さんに呼ばれるまで、あの女について調べていたんですよ」
 あの女、というと、落居さんのことだろう。無意識に昨日のやり取りを思い出し、私は顔をしかめた。気分のいいものではない。
「でも、なにもわからなかったんですよ」
「なにもって」
 何を知ろうとしていた。
「年齢、住所、本名も。うちの学生でもないみたいですし」
「……本名?」
 さらりと流れた言葉の中に、違和感のある単語を聞いた。
 私の問い返しには答えずに、ハルちゃんはゆるりと目を開く。彼女の視線に警告めいた気配を感じ、私は身を固くした。
「お姉さん、気を付けてくださいね。自分を隠すなんて、後ろめたい人間しかしないんですから」
 ――私自身、落居さんになにか裏がありそうな気はしていた。
 しかし、約束を破ったことでどんな恨み言を言われるのかと恐れていた私をよそに、落居さんは沈黙したまま。私の携帯電話は、彼女に関してうんともすんとも言わないのだ。

 ○

 うんともすんとも言ったのが、別件の二通のメールだった。

 話を終えたハルちゃんは、「具合が悪くなったら呼んでください」と言って再び顔を背けた。待て、と呼びかけたのは私である。
「ハルちゃんの携帯の番号、私知らないよ」
「大丈夫です、あたしは知ってますから!」
 教えた覚えはないと言うのに、ガッツポーズで言われても。
「それに、部屋の中でしたら呼べばわかりますよ」
「それはどういう理屈で」
「今の世の中便利ですから」
 そんな不吉な発言だけを残して、颯爽とベランダから退室したハルちゃん。看病ついでにずいぶんと爆弾を放り込んだものである。
 一人になった部屋で、私は息をついた。ハルちゃんが出て行ったベランダは開けっ放しだが、閉める気にはなれなかった。夜風が、ほんのりと熱を持った私の肌に心地よい。
 布団の上で、薄い毛布をかぶりつつ、私は携帯電話を取り出した。メールがたまっていたのを覚えていたのだ。眠る前に軽く目を通しておこうと、二つ折りの携帯電話をぱかりと開く。
 まずは迷わず、劉生のメールを削除する。ついでにスパムフォルダに人知れず降り積もるよう、設定も忘れずに戻しておく。電波の無駄とはまさにこのこと。劉生がメールを送らなくなれば、アフリカで飢える子供も減るはずだ。
 残り二通のうち、一つは藤野からの「今日暇だったら遊ぼう」メールだった。時計を見れば午後十一時五十分。悪いが今日は間もなく終わる。
 問題はもう一通の方だった。
 送信者、吉田さん。件名「店長についての作戦会議」
 内容――。

 成瀬さん、風邪は大丈夫ですか?できれば明後日までには治してくださいね。
 シフト見たんですけど、明後日は店長と先輩が午前まで。あたしと成瀬さんがオフなんです。
 デートしましょう!いい機会なので、二人をくっつけましょう!!!
 お大事に><

 煌めく絵文字と共に、脱力感満載のメールが届いていた。
 いい機会っていったいなんの機会なのだ。自分のことで手いっぱいな私に、人の恋路をいかんせん。ああ、心底手伝いたくない。
 誰も彼もが恋だの好きだのうつつを抜かす。なにが、どうしてこれほど人を夢中にさせるのか。
 人を狂わす魔性の現象、恋とはいったいどんなものか。いったい何がそれほどいいのか。
 まったく私には理解しがたきことである。



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