恋とははた迷惑なもの
<6-4>
あっ。
という間に明後日である。
眩しい太陽と湿度たっぷりの粘っこい空気の元で、絶好のデート日和であった。
ちなみに私の風邪は微妙に治りきっていない。少しの気だるさと残りかすのような咳が出る。
これは残念。実に残念。他人の恋路を応援したくてたまらなかったのに、風邪を引いたらどうしようもないなあー。ちらっ。
というメールを送ったら、吉田さんがアパートまで迎えに来た。バイト先から近いと、こうして住処が知られるのが面倒である。そして吉田さんは、私の顔色を見てゴーサインを出した。
「元気じゃないですか」
そんなわけで、デートである。
青い空、白い雲、青い顔。疲弊しきった私は、公園のベンチで伸びていた。まとわりつくような気だるさに、まだ本調子でないらしいことが分かる。
「大丈夫ですか? 成瀬さん」
諸悪の根源が心配そうに私を覗きこんだ。ひらひらとハンカチを振り、私の顔に風を送る。
半目を開けると、太陽に向けて吹きあがる噴水が見える。立派なように見えて実はそうでもない噴水の周りは、子供を連れた家族が何組か取り囲んでいた。暑さなどものともしない子供たちの声が響く。
「店長と先輩は、なにか飲み物を買いに行ってます。ああでも、この公園おっきいから、なかなか帰ってこないかもですが」
吉田さんはそう言い、にやりと笑いかけた表情を慌てて戻した。ああなるほど、二人きりにしたのか。抜け目ない彼女による犠牲は私の水分である。
じわじわと蝉の声。水の流れる音。木陰のベンチの上で、やけにゆっくりと時間が流れる。吉田さんは隣で、先輩と店長についての話や、バイトのことなど、他愛もないことを話していた。その声も、右から左に抜けていく。ベンチに預けた自分の体が、重たい石にでも変わったような気がした。気だるい体が、もう二度と動きたくないと訴えている。
ぼんやりとした私の視界に、公園の景色が流れる。見る間に変わる噴水のシルエット。はしゃぎ回る子供たち。小さな木立の奥には芝の運動場が見えて、スポーツに興じる健康的な家族を見つけられた。
その運動場から木立に向けて歩く、二人の男を見つけたとき、私の体が跳ねあがった。隣の吉田さんが驚いた。私も驚いた。まだ石にはなりきっていなかったようだ。
「成瀬さん、どうしたんです?」
吉田さんの声も耳に入らない。私の体から、血の気と気だるさが裸足で逃げ出していくのを感じた。
「なに見ているんですか」
いぶかしげに、吉田さんは私の視線の先を追った。平和な真昼の公園。夏休みだからか、いつもよりは少し人が多い。その中に、吉田さんも見知った人物を見つける。
「ん? あれって外村さんですか? 一緒に居る人は誰だろ、友達ですかね?」
「……劉生」
呟くのと、立ち上がるのはほとんど同時だった。どうやら劉生たちは、こちらに向かっているらしい。
なぜここに、や、どうして外村君と? などといった当然の疑問は浮かんでこなかった。劉生が近くにいる。そして近づいてきている。それだけが私の頭の中を支配する、
断固として、見つかりたくない。人間、体調なんて意思の力でなんとかなるものである。
私は病人にあるまじき俊敏さで、その場から逃げ出した。それはもう、追いかけてきた健康な吉田さんさえも引き離すほどの力強さである。
「成瀬さん、成瀬さーん! 待ってくださいよ、先輩たちどうするんですかああ!」
「そんなもんはしらーん」
大事なのは、目の前に突如現れた劉生と、私の心身の安全である。そのための多少の犠牲はやむなし。先輩と店長には、炎天下の中私を探し回るという苦行に出てもらおう。
人間、自分がいちばん。ゆるぎない確固たる事実である。
吉田さんも言った通り、この公園はやけに広い。
芝の生えた運動場、劉生たちの歩いていた木立の遊歩道。それに私が死にかけていた噴水前の広場。それに浅い雑木林を切り開いた、子供向けの遊具とささやかな水の流れる場所がある。
劉生から逃げた私は、この小さな水辺に来ていた。目下をくるぶしまでしかない人口の川が流れる。さすがに疲れて立ち止まると、私は子供たちのはしゃぐ川べりに座り込んだ。
子供の遊び場らしく、川を縁どる石は丸みを帯びている。石のしっとりとした冷たさをズボン越しに感じた。サンダルの足を水に浸すと、喉が渇いていることを思い出した。
「ぜんぜん元気じゃないですか」
私の隣に、吉田さんが腰かける。同じように水に足を放り込みつつも、声色にはわずかな苛立たしさが混じっていた。
「急に走ったりして、どうしたんです。あーあ、先輩たち探しに行かないと」
「……ごめん」
少し気持ちが落ち着いた私は、殊勝に頭を下げた。急に逃げ出したのはさすがに自意識過剰だったかもしれない。いやいやそれでも万が一顔を合わせて、「ごきげんよう」と姉弟らしく優雅に挨拶をできるかと言われれば、やはりできない。それなら逃げるしかないのだ。いやしかし。
頭の中を否定と肯定が繰り返す。体調不良の気だるさに、重たい思考に、嫌な気分だった。憂鬱という言葉が今の私を最も的確に表している。憂と鬱の画数の多さは、きっと思考の猥雑さを表しているのだ。考えばかり立ち上り、絡み合い、しかも答えはどこにもない。
「……ま、あたしはいいんですけどね。びっくりしただけですし」
吉田さんが長いため息を吐く。私は黙っている。いい大人が言葉もなく並んで座っている姿を、子供たちが不気味そうに眺めていた。
「そういや、外村さんがいましたね」
ふと、思い出したように吉田さんが言った。
「たしか外村さんも今日は休みなんですよ。誰かと一緒に居たし、遊びに来てるのかなあ」
「誘わなかったんだ?」
外村君と吉田さんの仲は、そう悪くもない。今日のような道連れイベントには誘われていてもおかしくないはずだ。
「外村さんは誘えないですよ」
当然だとばかりに、吉田さんが顔をしかめた。私にはその理由が思い当たらない。
「成瀬さん、知らないんです?」
「知りません」
正直な私の返答に、吉田さんは、うむ、と頷いた。
「先輩、まだ外村さんのこと気になっているみたいなんですよ。見つかったら、店長とデートなんてやってらんないですよ」
はあ、と私は気のない返事をした。その、誘われなかった外村君が、何の因果か劉生を連れてこの周辺を歩いている。高校時代の友人同士、別に仲良く公園デートをしていても異論はない。異論はないが、私の目の前には現れないでほしかった。
「さて、成瀬さん行きますか」
「えっ」
吉田さんが水流から足を離し、億劫そうに立ち上がった。
「えっ、じゃないですよ。先輩たちと早く合流しないと」
「ああ、今頃探し回っているかもね」
さすがにもう、水くらいは買って戻ってきている頃合いだろう。私たちがいないと知った先輩と店長は、悪態つきつつ辺りをさまよっているに違いない。
「ですよ。それで、うろうろされて外村さんと鉢合わせたりしたらたまりません」
「はあ……」
「外村さんと先輩が顔を合わせないようにしつつ、このデートを無事に終わらせるんです!」
恋は障害がある方が燃えるというやつなのだろうか。吉田さんの顔は生き生きと輝く。
ああ、なんかちょっと面倒なことが起こりそうな予感がする。