恋とははた迷惑なもの


<6-5>

 大方の人間が予想した通り、戻ったベンチに先輩はいなかった。なんとなく予感がして携帯電話を取り出してみれば、ここ数分の間に先輩からの鬼のような着信。着信履歴を埋め尽くす「先輩」の文字は見なかったことにする。
「困りますよねー。先輩たち、今頃どこをほっつき歩いてるんでしょ」
「ねえ。勝手にいなくなってねえ」
 自分のことを棚に上げることにかけては、私も吉田さんもいい勝負であるらしい。まるでベンチから一歩も動かなかったような顔をして、私と吉田さんは先輩たちの行方を思案した。病人を置いていなくなってしまうなんて、なんてひどい人たちだ。いい加減脱水症状で私のヒットポイントが危うい。
 ベンチに背中を預け、下げ止まらぬ体力を少しでも落ち着かせようと、私は深く息を吐いた。と、同時にジーンズのポケットに突っ込まれた携帯電話がここぞとばかりに震える。恐る恐るのぞいた画面に映るのは、やはり大方の予想通り先輩だった。
 出たくない。今さら出たところで、先輩の罵声を聞くほかにないのだ。そうだ、無視をしよう。具合が悪くて倒れ込んでいるのだ。電話の一つ二つ取れなくても、誰も文句は言うまい。
 しかし私のささやかな願いは、吉田さんによって叶わなかった。私の手から携帯電話を自然な動作で奪うと、吉田さんはなにためらうことなく電話に出た。
「先輩ですか?」
「吉田! 成瀬! この馬鹿どこにいるの! 勝手に移動したらわからないでしょ馬鹿! 成瀬の馬鹿は具合悪いんじゃないの! 探し回ってるこっちの気持ちにもなりなさい馬鹿!」
 怒鳴り声が横にいても聞こえてくる。一言につき一馬鹿というあたり、先輩の怒りのほどが知れるというものだ。

 どうやら先輩は、私たちを探して運動場の方へと向かっていったらしい。電話を切った吉田さんは、苦い表情にどことなく楽しむような色を含ませて、私に言った。
「まずいですよ。外村さんたちがいた方向ですよ!」

 気温三十二度。昼下がりの公園は地獄という呼び名がふさわしい。生粋のインドア派で、不健康優良児の名をほしいままにした私に、今もっとも必要なのは水分とクーラー。そして疲れた体を横たえる柔らかな寝床。それがなんの因果か、炎天下の公園を歩き回る羽目になるのだろう。
 早く早くと急かす吉田さんをよそに、私の足取りは危うさを覚えるほどにつたない。風邪が本格的にぶり返したのだろうか、熱も上がってきたようだ。雑木林の曲がりくねった遊歩道を歩きながら、私は荒い息を吐いた。流れ出る汗は、暑さのせいか冷や汗なのかわからない。シャツを絞ればバケツいっぱいの水が出る。
 ちなみに、運動場に先輩はいなかった。自分で、運動場に向かっていると言ったくせにいなかった。だいぶ嫌な予感を全身で感じつつ、私は吉田さんと遊歩道まで戻ったのだ。勝手に移動するなと怒った人間が、勝手に移動するとはこれ如何に? 人間とは自分のことは棚上げする存在なのである。
 そろそろ朦朧とし始めてきた意識の中で、私はいったいなにが悪かったのか、ひたすら考えていた。私の日ごろの行いが悪いのか、前世からの因業か。吉田さんの誘いが悪いのか、店長の恋が悪いのか、外村君を好きな先輩が悪いのか? いいや、劉生が悪い。たとえ劉生が悪くなかろうと、劉生が悪い。今も悲しい事件がなくならないことも、戦争が起こるのも、アフリカで飢えに苦しむ子供たちがあとを絶たないのも劉生のせいである。
「……劉生のことなんて、考えたくもないのに」
 知らぬ間に、声に出していたらしい。吉田さんが振り返り、不思議そうに首を傾げた。
「どうかしました?」
「いや、別に……」
 ふうん、と吉田さんは興味もなさそうに相槌を打つ。そのまま先輩探しを再開するかと思いきや、吉田さんは私を見たまま、わずかに眉をひそめた。
「成瀬さん、なんかさっきより具合悪そうですね、大丈夫ですか?」
「とても大丈夫じゃない」
「ですよね」
 吉田さんが頷く。どうも、外から見てもわかるくらいには顔色も悪いらしい。むしろ、溶けるほどに汗をかいて、よろけながら歩いていてわからない方が問題だ。
「困ったなあ、成瀬さんがこんな調子じゃあ」
 吉田さんは腕を組み、本当に困ったのかどうか疑わしい暢気な声を上げた。こんな調子なので、帰ってもいいかなあ。せめてどこかで休憩を取るなど、私に対する救済措置をしてほしい。
「こうなったら、早く先輩を見つけて、水をもらわないとですね」
 あ、そっちに行っちゃうか。吉田さんはこの後も、歩きまわる気でいるらしい。
「……帰っていい?」
 対する私のライフはもうゼロである。いい加減、私も付き合いきれなくなってきた。いや、ここまでよく付き合ってきたと、自分で自分を褒めてあげたい。
 私の顔を見つめつつ、吉田さんはさすがに唸った。とても良く言えばマイペース、悪く言えばマイペースの域を超えた吉田さんでも、瀕死の私には無理をさせられないらしい。
 さあ、帰れと言ってくれ。その一言で私が救われる。
 期待の眼差しで見つめる私から、吉田さんはふと眼を逸らした。瞳の焦点が、私よりもさらに奥に向かう。
「あ、先輩」
 わあ、ナイスタイミング! 見つかったことだし帰っていいかな。

 先輩は店長を伴って、遊歩道の別れ道から現れた。Y字に別れた道は、こんもりとした木々に挟まれた見通しが悪い場所だ。アブラゼミの鳴き声が、痛いほどに響き渡る。
「どうしたんですか、こんな場所で。運動場にいるんじゃ」
「それはこっちのセリフよ。あんたたちを探してたんだから」
 先輩はいらいらした声で吉田さんの問いに答えた。ならば見つかってよかった、ばんざーい。
 とはならず、先輩はそのまま私たちに背を向け、遊歩道の先へ行こうとする。その後ろを犬、もとい店長が困ったようについて行く。ようやく見つけた私たちを置き去りにしようとでも言うのか。慌てて私は、横を通り抜けようとする先輩の腕を掴んだ。
「どこに行くんですか」
「知らないわよ」
「はあ?」
 先輩は私の手を振りほどくと、強い視線をこちらに向けた。夏の暑さよりも、さらに熱を持った先輩の瞳。先輩の瞳が攻撃色に変わるとき、それはただ一つのことのみ。
 すなわち男絡みである。
「光一がいるのよ、たぶん」
 なるほど、今日は厄日か。
「僕は見間違いかなんかだって言ってるんだけど」
 店長が隣から口を出す。たまにちらちらと先輩を窺う姿から、力関係が見て取れた。残念ながら、コーヒー屋での最高権力者は店長ではない。女王として先輩が頂点に君臨しているのだ。
「絶対外村だって言って聞かなくて。さっきからずっと、こうやって探しまわってんだ」
 店長がしょぼくれて肩を落とす。デートに来たと言うのに、相手のこの態度。そりゃあへこむというものである。
「……って、探しているのは私たちじゃなかったんですか!?」
「あんたたちと光一と、どっちが大切だと思ってるの」
 なんという潔さだろう。一点の濁りのない先輩の心意気に、私は感嘆の息を吐いた。私が間違っていました。たしかに、先輩がイケメンを置いて私を探している姿などありえない。
「そういうことだから。じゃね」
 もはや誰も、先輩を止める言葉は持っていなかった。店長は諦め悪く先輩を追い、私と吉田さんはその場で互いに顔を見合わせ、首を振った。
「これはもう駄目ですね……」
「まあ、外村君を見たときからこうなるかな、とは思ってたけど……」
 悪い予感は得てして当たるものである。ここは素直に受け入れて、先に帰れることに感謝する他にない。ある意味私にとっては、妙なことになる前に解散できて運が良かったともいえる。
「あ、そうだ成瀬」
 少し歩いたところで、ふと先輩が足を止めた。何やら虫柱の下で、鞄をあさっている。
「これ、忘れてたわ。水」
 先輩が取り出したのは、どこからか買ってきたペットボトルのスポーツ飲料だった。そう言えば、もともとは私のために自販機を探しに行ったのが始まりだ。思えば厄介なことになったものだ。そんな試練の日も、もう終わりと思うと清々しい。
「あたし飲まないから」
 と、ぽーいと先輩が私に向けてペットボトルを投げる。それは大きく私の頭を飛び越え、木漏れ日に照らし出された。大暴投である。しかし今の私なら、笑って許せる。

 ペットボトルは、雑木林の下草に音を立てて落ちた。乾いた私は迷わずに追いかける。草をかき分け木をかき分け、立ち入り禁止の札をかき分けた先は、ちょうどY字路のもう一方に続く道だったらしい。木の影から舗装された小道が見える。
「――だから、お前は知ってんだろ!?」
「え、いや、知りません」
 唐突に聞こえた大声に、思わず小声で答えてしまった。もちろん、私の返答など誰も望まず、そもそも聞いていた人間すらいない。
「黙ってないで答えろよ。お前、あいつがどこに行ったか知ってるんだな?」
「……お前には関係ないだろ」
「関係なけりゃ、聞いちゃいけないのかよ」
 私はペットボトルを拾い上げ、そのまま木の影に隠れている。なぜか。それはこの声に聞き覚えがあったからだ。
 今日は最高に最低の日である。病み上がりで連れまわされ、見たくもない人間を見つけ、挙句風邪はぶり返す。そんな今日の締めくくりに、神様はずいぶんなイベントを残してくれたものだ。
 ちらりと視線を小道に向ける。木々の間から、言い争いをする男が二人見えた。わかりたくないが一目でわかってしまう。劉生と外村君だ。
「劉生、お前のせいであの女が来たんだぞ。成瀬さんだって迷惑してる」
「わかってるよ」
「あいつ、アヤしか知らないことを知ってた。高校のときのことも、その後のことも」
「…………」
「わかってんだろ? 他に考えられねえよ、あいつ――」
「礼美はそんなことするやつじゃない!」
 木の影で、私は全身を硬直させる。ここ数日、私の古傷はえぐられまくりである。もはやいい加減えぐる部分もなくなっているはずだ。
 この状況、絶対的危機と呼ぶにふさわしい。断じて、断じて見つかるわけには――。
「成瀬ー、ごめんごめん、そんなに飛ぶと思わなくてさー」
 先輩が謝りながら小走りにやって来る。ナイスタイミングです先輩! 先のペットボトルと言い、確実に私を殺しにかかっている!
「……ねーちゃん?」
 ――断じて見つかるわけにはいかなかったのだが。



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